Smile ripple

アフロディの急襲、その放課後。
乗客の少ないバスの中で、織乃は静かに席について停留所に着くのを待っていた。

しかし、その頭を占めるのはやはり彼──彼らのことばかりだ。
影山と、そして彼がバックに付く世宇子中。あの後も表情の優れなかった円堂。きっと今頃、鉄塔広場で特訓に明け暮れているのだろう。今までよりも、もっと厳しい特訓に。

車内アナウンスに小さく肩を揺らし、織乃は下車ボタンを押す。
停車したバスのステップを降りると、無自覚の内に詰めていた息が緩まるのを感じた。

「……ふぅ」

柔らかい風に吹かれながら、排気ガスを吐き出して走り去るバスを見つめる。
織乃はゆっくりと家路に歩を進めながら、思考を巡らせた。

「(──影山さんが私に手を出さなかったのは……あの計画を立ててたからだったのかもしれない)」

帝国時代、彼女をマネージャーに指名したのは影山だ。
当時は、相手を潰すことを前提としていた帝国のサッカー部──尾ひれの着いた噂を信じ、それを恐れる生徒たちが多い中、転校して来た何も知らない自分は良いカモだったのだろうと考えていた。

だが、改めて考えるとそれは必ずしも織乃である必要性はない。彼女の他にも、探せば同じ条件の生徒は少なからずいた筈なのだ。

だとすると、影山はマネージャーに指名した時点で、織乃の能力を──本人すら自覚していなかったことを、知っていたのかもしれない。
彼の辞書に相手のプライバシーなどという物は存在しない。彼女が転校してきて、サッカー部に入れられるまでの半年。その間に、織乃がどんな人間かを推し量ることなど、容易いだろう。

マネージャーとして目を付けられた時点で、彼の計画に組み込まれていた。後々、世宇子に引き込みその力を活用する為に──織乃には、手を出さなかった。

ぶるりと言い様のない悪寒に体を震わせ、織乃は腕を擦る。そっと辺りを見回しても、見えるのはただの通行人ばかり。
あの美しい金色は、見えない。

「…………」

一瞬、脳内を駆け巡ったおぞましい考えを振り切るように、織乃は帰路へ着く足を早めた。




翌日。
学校の地下──イナビカリ修練場には、ゴール前で息切れる円堂とそれを見守るイレブンたちの姿があった。
幾度となく繰り返しても、その片鱗すら見えないマジン・ザ・ハンド。円堂自身も苛立っているのか、その表情は険しい。

機械に打ち出されたボールに吹き飛ぶ円堂に、春奈が戸惑いがちに秋を振り返る。
しかし秋も、辛そうな表情を浮かべるばかりで何も言わない。何も言えない。

「あのままやっても、怪我が増えるばっかりですよ……どうしましょう、織乃さん」

春奈は傍らの織乃に目線をやる。彼女の視線は、真新しいバインダーから動かない。
「……織乃さん?」首を傾げた春奈が顔を覗き込むようにすると、織乃はそこでようやく、ハッと肩を揺らした。

「どうかしたんですか? ぼんやりして……」
「あ──ううん、何でもない。……でも、そうだね。ただがむしゃらにやってても、何も変わらない……」

言い掛けた矢先、円堂がボールを腹に受けて吹き飛ぶ。
思わず、秋が一歩前へ出た。

「ッ円堂くん!」
「来るな!」

円堂は片手で彼女を制す。
肩で息をしながら、円堂は目の前の機械を睨みつけながら、言った。

「諦めるもんか……何が何でも、完成させるんだ……!」

「円堂くん……」半歩後ずさりながら、秋は心苦しそうに眉根を寄せる。
その様子を見た夏未が、隣の響木を見上げた。

「監督……」

響木は、一拍空けて小さく頷く。
「一旦、全員集合!」号令を掛けると、頭上に疑問符を浮かべたイレブンたちが彼の方へ駆け寄った。
響木は全員の顔をざっと見回すと、簡潔に一言だけ告げる。

「──合宿をするぞ」
「……へ?」

誰かが虚を突かれたような、呆けた声を漏らした。
「合宿?」それまで険しい顔をしていた円堂もが、予想していなかった単語にキョトンとする。

「ああ。学校に泊まって、みんなで飯でも作ってな」
「許可は、もう私が取っておきました」

「合宿かー!」入部して以来そんな経験がなかったせいか、1年生たちは嬉しそうな表情を浮かべた。しかし。

「──待って下さい、監督」

ふいに、円堂が後輩たちの喜び勇む声を遮った。拳をキツく握りしめて、彼は絞り出すような声で続ける。

「飯でも作るって、そんなノンキなこと言ってる場合じゃ……世宇子との試合は明後日なんですよ? それまでにマジン・ザ・ハンドを完成させないと……!」
「出来るのか?」

円堂の言葉に、突き刺すような響木の声が被さった。肩を揺らす円堂に、響木は更に言う。

「今の練習で──必殺技を完成させることが」
「な……だから、それはやってみないと」
「無理だ」

「無理?」眉根を寄せた彼に、響木は続けた。
マジン・ザ・ハンドは、円堂の祖父が血の滲むような努力の末に完成させた、幻の必殺技。闇雲に練習して完成するほど甘い技ではない──現実を突きつけた響木のサングラスが、電灯に反射して驚いた顔の円堂を写し出す。

「それに今のお前は、必殺技のことで頭が凝り固まっている。そんな状態で完成させることは、不可能だ」
「……確かに──一度、マジン・ザ・ハンドを忘れてみるのも良いかもしれないな」

響木の意見に同調し、円堂に言うのは鬼道だ。
虚を突かれたように振り返った円堂に、次いで一之瀬が頷いて見せる。

「俺も賛成だな。アメリカでも言うしさ! ゴキブリをとるとき以外は急ぐなって」
「……それ、ノミをとるとき以外は急ぐな、じゃなかった?」

秋の入れた訂正に一之瀬が乾いた笑いを返す中、夏未がこれで話はまとまったとばかりに手を打ち鳴らした。

「それじゃあ、合宿ということで決まりね!」
「みんな用意をして、5時に集合だ」

笑顔になった1年生たちが大きく返事を返す。煮え切らない表情の円堂を盗み見た秋は、そっと溜め息を吐いた。

「──多少強引でも、このくらいしないとね」
「そうね……」

小さく言った夏未に、秋は頷く。
その傍ら、織乃は1人どこか宙を見つめて何か考え込んでいた。




それから時計の針は進み、午後6時。

「ダメですよ先輩、ちゃんと角は落とさないと!」

じゃないと煮崩れするんですから、と野菜を切る土門に背伸びしながら抗議するのは少林である。

部員も揃い、付き添いは生活指導の菅田に任せ。現在、マネージャーも選手も交えての、夕食のカレー作りの真っ最中だ。

「良いだろ、別にぃ」
「ダメです! いくら先輩でも、それだけは譲れません!」

「織乃ちゃんだったらとやかく言わねーのに」こだわりがあるらしく、一向に折れる素振りを見せない少林に土門は溜息を吐く。

「御鏡先輩なら、あっちで壁山を指導してますよ」

少林の指さされた方をちらりと見ると、彼の言う通り、織乃は違う台で壁山に包丁の使い方を指南していた。

「違う違う、手はぐってして」
「ぐっ? こうッスか?」
「そうそう」

さながら、親が子に料理の仕方を教えているようである。苦笑する土門に少林は「全くもう」と呟きながら、彼の切った野菜の角を落としていった。
明るい声が飛び交う中、夏未は一人、輪から外れ特訓ノートを見つめる円堂に視線を投げかける。

「(みんなが元気になったのは良いけれど、肝心の円堂くんがあれじゃ……)」

この合宿は、必殺技のことで頭が一杯になっている彼のために実施したと言っても過言ではないのに。
険しい顔の円堂に、夏未は溜息を吐いた。

「切ったものはこっちに持ってきてねー」

秋の声に、台に並べられていく野菜の詰まったボウル。秋と織乃は2手に分かれて、それぞれの鍋に野菜を入れて炒めていく。

「……みんな、楽しそうね」
「そうですねぇ」

各々好きに喋りながら野菜を切っていく部員たちを眺めながら秋が呟くと、織乃も微笑んで返した。

「円堂さんも、一瞬でも良いから難しいこと忘れられれば良いんですけど──」
「そうね……あのままじゃ、出来ることも出来なくなっちゃうもの」

ジュワジュワと鍋の底が音を立てる。今も尚、円堂は影で特訓ノートを睨みつけるばかりだ。
いつもの明るい表情の見えない彼に、秋が眉根を寄せたその矢先。

「──熱ッ!?」
「えっ」

飛び退くように、織乃の左手が跳ねる。
振り返るとその指先が真っ赤になっていて、秋はさっと顔をしかめた。

「大変! 早く冷やさないと……」
「どうかしたんですか?」

声を聞きつけ駆け寄ってきた春奈が、織乃の手元を見るなりあっと声を上げる。

「織乃さん、火傷ですか!?」
「う、うん。ごめん春奈ちゃん、お鍋お願い……」

「任せて下さい!」大きく頷く春奈に織乃は力無く微笑むと、そこから離れた水道台に足早に駆けて行った。
その背中が暗がりに消えるまで見送っていた春奈が、木杓子を持ちながら秋にそっと話しかける。

「……何だか、織乃さんの様子もおかしくないですか? 今日もずっと、上の空だったし」
「うん……やっぱり昨日のこと、気にしてるのかも」

影山が力を欲していると、あの時アフロディは彼女に言っていた。気にするなと言った方が無理な話なのかもしれない。

「──御鏡はどうした?」

ふいに掛けられた声に、秋と春奈は難しい顔のまま振り返る。
タマネギの入ったボウルを抱え、不思議そうな表情をした彼を見た2人は、一拍すると顔を見合わせ頷き合った。




水がひたすら流れ落ちる音が耳を満たす。
校舎の壁に申し訳程度に設置された電灯の下、織乃は蛇口を捻ったままの状態でぼんやりと水に打たれる自分の手を見つめていた。

「(難しいこと忘れられれば、なんて──私、人のこと言えないじゃない)」

ヒリヒリと痛みの引かない指先を見下ろしながら、織乃はそっと臍を噛む。

「……だめだ……」
「何がだ?」

意図せず返ってきた言葉に、織乃は小さく悲鳴を上げた。
早鐘を打つ心臓を右手で抑えながら振り返ると、そこには腕を組んで立つ鬼道の姿。織乃はそっと、胸を撫で下ろす。

「び、び……びっくり、しました」
「みたいだな」

軽く笑いながら、鬼道は彼女に歩み寄った。
「春奈たちに頼まれてな」そう言う鬼道の手には、赤いキャップの塗り薬が握られている。

「……それで? 何がだめなんだ」

水の流れ続ける蛇口を閉め、鬼道は問った。織乃は数度まばたきを繰り返すと、居心地悪そうに視線を逸らす。

「円堂以外にも、問題を増やす気か?」

溜息混じりにそう言えば、織乃はうっと唸って身動ぎした。
水道台の縁に腰掛けるようにしながら、鬼道は諭すように続ける。

「それとも、誰にも言えないような悩みなのか」
「……そういうわけでは」

ないんですけど、と。織乃は赤い指先を見つめ、ごくりと息を飲むと、そっと薄く口を開いた。

「ただ、もしも──雷門のみんなが、あの時の帝国みたいな目に遭ったら、って……思って」

抉れたフィールド、吹き飛んで拉げたゴール、ボロボロになった選手たち。
瞼の裏に浮かんだ凄惨な光景に、織乃は唇を引き結ぶ。

何も出来ず、体を覆う包帯や張り付けられたガーゼを見つめ歯を食いしばることしか出来なかった。
今回も、そうなってしまう可能性は有り得る。

どうしようもない。いつも、自分は肝心なところで──無力だ。

「……そう考えたら、少し……自分が情けなくなっただけ、です」
「……そうか」

すいません、と目を伏せる織乃に、鬼道は小さく返した。
ふと鬼道は彼女の左手を取り、いつのまにか固く握られていたその拳をゆっくりと解いていく。

「全く、お前のそれは最早被害妄想の域だな。いや、この場合加害妄想と言った方が合ってるか」
「え、えー……」

不満げな顔になった織乃を手を開き、赤くなっている指先に彼はゆっくりと薬を塗った。含まれている成分のせいか、ヒヤリと鼻孔が冷えるような匂いがする。

「世宇子と戦おうと言ったのはお前もだろう、御鏡。戦う前から戦意喪失か?」
「それは……」

木戸川戦より前。織乃は確かに言った。木戸川清修に勝って、世宇子と戦おうと。鬼道の言葉に織乃はうなだれた。

「いいか、御鏡。俺は……俺たちは、帝国の思いと雷門の思い、両方を背負っている」
「……はい」

そっと、鬼道は火傷に触らないように、彼女の手を握った。そしてそのまましっかりとした声音で続ける。

「それを背負う力は、お前にもちゃんとあるんだ。だから、自分を無力だなんて言うな」

自分を卑下するなと言っただろう──かつての言葉を繰り返し、鬼道は穏やかに微笑んだ。
俯いたままの織乃からはそれが見えることはないが、気配で分かったのだろう。彼女もまた、ようやく小さく口角を上げる。

「──はい……ありがとうございます、鬼道さん。ごめんなさい、こんな大事な時に弱音吐いたりして」
「いや、お前はただでさえ抱え込むタチだからな。これくらい予想の範囲内だ」

「そうですか」少し苦笑いして、織乃はここでようやく顔を上げ──鬼道と共に、ピタリとその動きを止めた。

いつの間にか空いていた距離はたったの10センチ程度の、殆ど目と鼻の先。握り握られたままの手を思わず目で辿れば、当然視線がぶつかる。

「!!」

次の瞬間、2人の顔はボッと火が灯ったように赤くなった。

「あっ──、えと、も、戻りましょうか、そろそろ!」
「っそうだな、春奈たちも心配してるだろうし……」

弾かれたようにとまではいかないが、鬼道はさっと織乃の手を離してマントを翻す。
しかし、体を背けただけで両者共にそこから何故か動くことが出来ず、赤いままの顔でその場に立ちすくんだ。

「(あれ? 何、何これ? あれ?)」

どくどくと脈打つ心臓と引かない頬の熱に、織乃は思わず胸を押さえつけた。その隣では、鬼道もこっそり同じような行動をしている。
「き、鬼道さん!!」そして体の異常を誤魔化すように、織乃はぐるりと赤いままの彼に顔を向けた。

「ぜ、絶対に! 勝ちましょうね、世宇子に!!」
「あ……ああ!」

鬼道もまた、釣られたように拳を握りしめて大きく頷く。
再び微妙な沈黙が空間を支配する中、壁山の悲鳴が聞こえてきたのは──その数秒後のことだった。