Word that saves him

その朝、織乃はいつもより眠たい目を擦りながらベッドから体を起こした。
今日は帝国と、あの世宇子と言う無名校との試合。それを考えると、なかなか寝付けなかったのだ。

「(当事者じゃないのに、変かな)」

1人苦笑を零し、織乃はパジャマのボタンを外し始める。

ふと携帯に目をやればサブディスプレイがチカチカと瞬いていて、未読メールがあることが分かった。
今日の2時半、試合中継するらしいんで観てて下さいね──そんな内容の綴られた成神からのメールだ。

「──2時半か……」

正しくその時間帯は5限目が終わる時間だ。内容を頭の中で反芻して、織乃は送信フォルダを開く。

「じゅ、ぎょう、が、ある、から……ぜん、ぶは、むりだ、けど、み……あっ間違えた」

両手で携帯を握り、慣れない手つきでカチコチとゆっくりとキーを押していく。
結局成神の携帯に返信が来たのは、織乃がメールに気付いた20分後だった。




「あ、おはよう織乃ちゃん! 今日は何か遅かったね」
「お……おはようございます、秋ちゃん……」

肩で息をしながら教室に飛び込み、脇腹を抑える織乃に秋は眉根を寄せながら、大丈夫?とその背中をさする。

「寝坊でもしたのか?」

隣の豪炎寺にそう問われれば、「そう言うわけでは……」と曖昧に答えるしかない。織乃は本日2度目の苦笑いを返した。

「まぁ、あいつに比べれば早い方か」

呟き、席を立った豪炎寺は開け放たれた窓から校門を見やる。
織乃と秋が釣られたように外を見ると、丁度見慣れた姿が転がるように校門に駆け込んで来たところだった。
それから5分としない内に教室に飛び込んだのは、明るい笑みを湛えた円堂である。

「おはようみんな!」

円堂は大きな声で言うと、ユニフォームやジャージで膨らんだ鞄を降ろしどっかりと席に着いた。

「いやー、今日が鬼道たちの試合だと思うとなかなか寝付けなくってさ! 寝過ごしちゃったんだよ」
「まぁ、そんなとこだろうと思ったけどな」

頭の後ろを掻く円堂に、豪炎寺がそう返す。
秋は数瞬まばたきを繰り返すと、もしかして、と織乃の方を振り返った。

「織乃ちゃんも同じじゃない?」
「う……は、はい。あ、でも寝坊したわけじゃないんですよ、ただ今朝、帝国の後輩からメールが来てたから、それの返信に時間が掛かっちゃって」
「へー。そいつ、何て言ってたんだ?」

「絶対観てて下さいね、って」目を細めて返す織乃に、問いかけた円堂もカラカラと笑う。
今日が休みなら観に行ったのにと円堂が肩を落として言った頃、丁度チャイムが鳴り響く。廊下から聞こえてきた担任のものと思しき靴の音に、織乃たちは慌てて自分の席に戻った。

窓の外で大きな風が吹き、木々を揺らす。
織乃は一瞬、謎の悪寒にぞわりと肌を粟立たせ、自分の拳をもう片方の手で包み込んだ。

「(……世宇子、か)」

織乃は、数日前の春奈との会話を思い出す。
開会式を調整に費やし欠場した、名を知らない招待校・世宇子。おびただしい量の情報が溢れる昨今のネットワークでさえ、検索に1つたりとヒットしなかった中学校。

──分からないことだらけの、帝国の試合。不安感を煽られるのも仕方ないのかもしれないと、織乃は教壇で弁舌を奮い始めた教師からそっと目線を外し、ノートを取る。
そうこうしている内に、感じていた不安感はしゅるしゅると音を立てるように胸の奥へ戻っていった。




そして、その約4時間後。
5限目の授業終了を告げるチャイムが鳴る。

しかし織乃の姿は教室ではなく、理科室のある廊下にあった。
5限目が理科だった為、教材を仕舞うのを手伝ってくれと教師に頼まれてしまったのだ。

「もういいぞ、大丈夫だ」と言う教師に軽く小腰を折り、織乃は理科室を後にする。
教科書や筆箱は既に、秋が気を利かせて教室に持ち帰ってくれていた。

パタパタと足音を立て、織乃は人通りの少なくなってきた廊下を走りながらポケットから取り出した携帯を握りしめる。

「(ああ、もうキックオフは終わっただろうな……)」

時計の針が2時半を差して早10分。こんなことなら頼みごとをされるより先にさっさと教室に戻っておくんだった──と、織乃は顔をしかめながらキーを操作し、ワンセグを立ち上げた。

その、刹那。

「──ッ」

唐突に、織乃の足が止まる。
その眼は一瞬、ゆらりと頼りなさげに揺れて、零れんばかりに見開かれた。

次の瞬間、織乃はバチンと乱暴に携帯の蓋を閉めて、また走り出す。先とは違い、全速力で。
鬼気迫った表情で教室に飛び込んできた織乃に、秋が驚いたように振り返った。円堂や豪炎寺はどこかに行っているのか、姿が見えない。

「ど、どうしたの織乃ちゃん。そんな険しい顔して」
「ごめんなさい秋ちゃん──私、今日は早退します!!」

「えっ?」秋の制止も耳に届かず。自分の鞄に教科書を雑に突っ込んだ織乃は、勢いを緩めぬまま再び教室を飛び出して行った。




辿り着いたのは、戦国伊賀島との試合以来訪れていなかったFFスタジアムである。
辺りはたった今スタジアムから出てきたばかりの観客で溢れかえり、皆一様に顔色が悪い。

「圧倒的だったな……」
「あんなむごい試合、見たことないよ」

口々にそう呟く人の波に、織乃の中で不安が膨れ上がっていく。
それでも彼女は足を進め、グランドが見えたところでようやく立ち止まり、息を詰めた。

観客席の人混みは既に疎ら。グランドでは作業着を着た大人たちが揃って動いている。
抉れたフィールドに、土で汚れ不自然にヘし曲がったゴールは、ネットが破れスタジアムの端まで吹き飛んでいた。

場所は違えど、これは確かに彼女が帝国の試合を初めて見た時の焼き増しそのもの。
ただ1つ、違う点と言えば。

「あ、だめだよお嬢ちゃん。今グランドは整備中だから危ないんだ」
「あっ、すいませ──あのっ!」

突然語気を強めた織乃に、声を掛けた驚いて作業員が肩を揺らす。

「きど……帝国の、選手たちはどうなりましたか……!?」
「ああ……終わってすぐに、総合病院に運び込まれた筈だよ?」

眉根を寄せた作業員に慌ただしく礼を言い、織乃は勢いよく踵を返した。

靴が擦れて足が痛んでも、首筋を汗が伝っても、織乃は走り続ける。
あの時──彼女の眼に飛び込んできたもの。それは帝国が相手を圧倒する姿でも、苦戦している姿でもなかった。

クレーターのように抉れ、土を散らすフィールド。そこに力なく這い蹲り、あるいは倒れる、見覚えのあるユニフォームの選手たち。
ただただ、惨劇。そうとしか言いようのない光景。

走りながら、織乃は血が滲むほど唇を噛みしめる。

「(嘘だ──鬼道さんたちが負けるだなんて、あんな負け方するなんて、そんなの……!!)」




よく磨かれたガラス仕立ての自動ドアが、軽い音を立てて開いた。

その病院に入ってすぐ──人気の少ない待合室に、見知った人影。
織乃はたまらず、それに飛びついた。

「健也くんッ!!」
「うぉわ! って、織乃さん!?」

織乃に勢いよく抱きつかれ、よろめきながらも体勢を立て直した彼──成神は、つり目を丸くして織乃を見つめた。

「織乃さん、何でここに!?」
「試合、携帯で見て……丁度、みんなが倒れてくとこ、で」

揃いも揃って包帯や絆創膏で治療された帝国イレブンを見るなり、まばたきをした途端表面張力を失った涙の粒が彼女の目から零れ落ちる。
そのままダムが決壊したようにポロポロと涙を流す織乃に、抱きつかれたままの成神はおろか、帝国イレブンたちはこぞってギョッと目を見開いた。

「お、おいそんなに泣くなってヒヨコ! ほら、俺ら割と軽傷だし! なっ!」
「う……は、はい……よ、良かったぁ……!」

赤い目をこすって、織乃はまた涙を零す。
そして数度、目をしばたくと、辺りを見回し眉根を寄せた。

「……源田さんと佐久間さんと、鬼道さんは……?」
「あ……」

足下で、織乃のスカートを握りしめていた洞面が小さく俯く。
怪訝な表情をした織乃の肩を叩いたのは、髪に隠れていない方の額に絆創膏を張り付けた、咲山だった。

「……源田と佐久間は、怪我が酷くて入院だとさ。今、鎮痛剤打って病室で眠ってる」
「入院って……! っまさか、鬼道さんも?」

顔を一層青くした織乃に、咲山は眉間の皺を深めて頭を振る。
口火を切ったのは、固いソファに座ってじっとしていた寺門だった。

「鬼道は、雷門との試合で足を痛めたから……今回の試合は、大事をとって出なかったんだ」

織乃はぐっと、唇の内側を噛む。
鬼道がフィールドが出なかった。試合に出る前に、終わってしまった──と、寺門は硬い表情で続けた。

「……ヒヨコ」
「は、い」

鬼道さんのとこ、行ってやってくれるか──そう告げたのは、辺見である。
「あの人、真面目だから」続いた言葉に織乃はそっと成神から離れ、辺見を見つめた。

「ぜってー、思い詰めてる。誰か傍にいてやった方が良い、と……思う」
「──分かりました」

頷き、帝国イレブンに小さく一礼した織乃は踵を返す。神妙な顔つきの彼らに見送られ、織乃は再び街へ飛び出していった。




病院を出て、やって来たバスに乗り込みそれに揺られ辿り着いた帝国学園。織乃は相も変わらず薄暗い廊下を急ぎ足で駆け抜ける。

だが、しかし。

「──……」

ゆっくりと、織乃の進むスピードは緩やかになる。
おそらく鬼道がいるであろうスタジアム行きの扉が見えるより前に、彼女の足は完全に止まった。

鬼道は戦わずして負けたことを、悔やんでいる。それは痛いほどに分かる。
だが、その度合いはどうだろうか。地団駄を踏む程か血が滲むまで拳を握りしめる程か、身を切り裂く程か──それは全く計り知れない。
沸々と湧き出た疑問に、織乃は背中に嫌な汗を滲ませる。

辺見は、誰かが傍にいた方が良いと、そう言った。
誰かが傍に行って、掛けた言葉に救われることもある。しかし逆に、取り返しの付かない絶望を生むこともあるのだ。

「(──行って、何を言えば良い?)」

彼の心が救える言葉は何も浮かばない。織乃は臍を噛む。
──どうしようもない。
いつも、自分は肝心な時に──

「──御鏡っ?」
「ッ!?」

背後からの声に、織乃はひゅっと息を吸い身を竦める。
ゆっくりと振り返ると、肩で息をし、こめかみに汗を滲ませボールを脇に抱えたジャージ姿の円堂の姿があった。

「え、円堂さん……! どうして」
「……鬼道が、負けたって聞いて……」

表情を暗くした円堂に、織乃は眉間に皺を寄せる。
「鬼道は、奥なんだな?」問いかける彼に、織乃はゆっくりと頷いた。

「よし……じゃあ、行くぞ!」
「──ま、待って下さい!」

切羽詰まった声色に、円堂は振り返る。
織乃はスカートを握りしめながら、陰鬱な顔をしていた。
自分では出来ないこと、彼には出来ること。織乃は苦痛な表情を浮かべ、口を開く。

「私は、だめです──私じゃ、助けられない」
「……何言ってんだよ!」

円堂は語気を荒げ、ズカズカと織乃に歩み寄った。

「だって私は選手じゃないから……鬼道さんがどのくらい辛くて、何を言えば救われるか……!」
「何を言うとか、そんなの関係ない!」

がしりと円堂は織乃の肩を掴む。
織乃はびくりと顔を上げた。

「辛いときに傍にいてやるのが仲間だ! 鬼道の仲間だったんだろ、御鏡は!!」
「……!」

織乃は目をしばたく。
少し形が違うだけで、彼が言うだけで。こうも心を揺さぶられるのは、何故だろうか。
円堂は尚も、力強い眼で彼女を見つめ返していた。

「──だった、じゃありません。今でも、大事な仲間です……!」
「……ああ!」

円堂はにっと歯を見せると、織乃の手を引いて走り出す。
廊下を駈け、階段を登り。そこに、彼はいた。

「──鬼道!!」

私服姿でピッチに立ち竦んでいた鬼道の肩が、小さく動く。
ゆっくりと振り返り、見えた表情に織乃は思わず奥歯を噛みしめた。

「──よぉ、円堂」

笑いに来たのか──と、鬼道は少し砕けた風に言って、諦めたように眉を下げる。その様子に、いつもの彼らしさは全く感じない。

「んなわけねーだろ……!」

低い声で言った円堂は、ぐっと織乃を自分の隣に引く。鬼道はそこで彼女の存在に気が付いたようで、僅かに口を開いた。

「鬼道さ、……っ」

口を動かすが、声は出ない。
言葉が出てこない。鈍痛に耐えるように、彼女はぐっと俯いた。

2人の様子を見て、円堂は顔をしかめると持っていたボールから手を離す。
そして突然、円堂は地面に付いたボールを鬼道に向かって蹴り上げた。ヒュッと織乃の隣をかすめたボールは、立ち竦む鬼道にぶつかり跳ね返っていく。

バランスを崩し力なく尻餅を付いた鬼道は、憤る円堂を一瞥するとゆっくりと立ち上がった。
ゴーグルの奥に隠れた目を悔しげに細め、ボールをゆるく彼に投げ返す。

40年間無敗の帝国。その歴史を、自分たちが終わらせた──鬼道がポツリと零した。
「ボールに触れる前に、試合が終わってたんだ」その言葉に、ボールを拾おうとした円堂の手がぴくりと動く。

「──……俺たちのサッカーは、終わったんだ」
「そんなこと言わないで下さい!!」

突如として、怒号が響いた。
円堂も鬼道も、目を見開く。声を荒げた織乃は両拳をキツく握りしめ、小さく俯いている。

「私……鬼道さんたちのサッカー、まだ少ししか見たことないんです……! だから──」

「終わったなんて、言わないで」喉から絞り出すような声で言えば、鬼道は少し眉を下げ、苦しげに眉間に皺を寄せた。

「御鏡の言う通りだ」

円堂は、震える織乃の肩に軽く手を置く。

「お前が見捨てない限り、サッカーはお前のものだ、──鬼道!」

表情を変え、円堂は力強くボールを投げつけた。
鬼道は今度こそ、それを蹴り返す。

吸い込まれるように円堂の手に収まるボール。しかし彼が口角を上げると、鬼道もまたさっきとはほんの少し違う笑みを浮かべる。

2人が視線を交差させる中、その死角で俯いた織乃の目から一粒だけ涙が零れ落ちた。