Crack of thin ice

さざ波の音が、観客のいなくなったグラウンドに静かに響く。
まばゆい光の中に消えたガゼルの立っていた場所を見つめても、その名残が残っているわけでもない。

「ダイアモンドダストのガゼル……一体あとどれくらいエイリア学園にはチームがあるんだ……」

険しい顔つきになった鬼道が小さく呟く。
マスターランク、と名乗ったのは、ヒロト──グラン、そして南雲と名乗ったバーン。それに今、ガゼルが加わった。
彼ら3人を倒さない限り、雷門は真の勝利を掴めないのだろう。

──しかし今は、目の前の大きな壁よりも、真っ先に気にするべきことがあった。

「豪炎寺!」
「!」

ゴールから仲間たちの頭上を横切り、ボールが宙を切る。
円堂から投げ渡されたそれを反射的に受け取って、豪炎寺はハッと顔を上げた。

「円堂……」
「──分かってるって!」

大きく頷いた円堂に、豪炎寺は数回まばたいて──ボールを蹴り返す。
緩く弧を描き、ゆっくりと落ちてきたそれを受け取って、円堂は、彼らは、笑った。

「おかえり、豪炎寺!!」
「……! みんな、ありがとう」

手放しで向けられた「おかえり」に、豪炎寺が小さくはにかむ。
そしてそっと表情を引き締めると、次に瞳子に向き直った。

瞳子は彼の黒く輝く瞳をしっかりと見つめ返すと、僅かに微笑む。

「……おかえりなさい、豪炎寺くん」
「──ありがとうございました」

瞳子の言葉に豪炎寺が間髪入れず返したのは、意外なことに謝辞と大きな一礼だった。
突然の豪炎寺の行動に驚く円堂たちを後目に、彼は言葉を続ける。

「あの時監督が行かせてくれなかったら……俺はあいつらの仲間に引き込まれていたかもしれません」
「えっ」

「さあ、何のことかしら」瞳子はあくまでも知らぬ存ぜぬを貫き通すつもりなのか、そっぽを向いて疑問の視線を向ける円堂たちに答えようともしない。
それでも円堂は問い掛けずにはいられなかった。

「監督……あいつらって?」
「そいつぁ俺が説明しよう」

ふいに、円堂の疑問に聞き覚えのある嗄れた声が降ってくる。
そこにいたのは、土方を連れ立ちやってきた鬼瓦だった。この炎天下の中、相変わらず草臥れたコート姿で現れた彼に瞳子と豪炎寺以外の全員が目を丸くする。

「鬼瓦さん……!?」
「よう、久しぶり──と、挨拶もしておきたいところだが、先に話を済ませてもらおうか」

片手をひらりと振って、鬼瓦は口髭に覆われた口をゆっくりと開く。

豪炎寺がエイリア学園に賛同する者と自称する集団に妹の夕香を人質に捕られ、エイリア学園の仲間になるよう脅されたこと。
鬼瓦たち警察が夕香の保護をするため、豪炎寺を自分の旧知の仲である土方家に匿ってもらうことにしたこと。

人質にされた妹のため、円堂たちに理由を話せないが故。豪炎寺は涙を呑んでチームを離れたのだと、その事実を──鬼瓦は、包み隠さず話した。

「そうだったのか……」

小さく呟き、円堂たちはちらりと瞳子を見やる。それならそうと、もう少し違う言い方で言ってくれていたら──そんな言葉が滲み出ているような声だった。
土方も祖父の代から知り合いである鬼瓦に頼まれたために、全てを知っている上で円堂たちと接していたらしい。

鬼瓦は長々とした説明で喋り疲れたのか、ゴキリと首を回す。

「ま、これで俺たちも堂々と奴らを逮捕することが出来るわけだ。豪炎寺も、よく耐えてくれたな」
「いえ──ありがとうございました、鬼瓦さん。それに、土方も」

「止せよ礼なんて!」かゆくてたまらない、といった風に首を激しく振る土方に、豪炎寺は小さく笑った。
そんな彼の背中へ、ふと秋が声をかける。

「……豪炎寺くん。どうだった? 久しぶりの雷門は」

振り向いた豪炎寺は、一瞬キョトンと目を丸くした。
そして、こちらを見て笑顔を浮かべる仲間たちに、ゆっくりと口角を上げる。

「……ああ。最高だ!」




青空の下で、海風を切りボールが宙を舞う。
激戦の後だと言うのに、円堂のいつもの「サッカーやろうぜ!」につられ、彼らは先の疲れも忘れたようにボールを追いかけていた。

「あんなことがあっても、まるで何もなかったみたいにボールを蹴ってますね」
「男の子って良いわね……」

しみじみとする春奈に、小さく秋が笑う。

織乃はその傍らで、ライン際で選手たちを見つめる瞳子の横顔をわき見してほっと溜め息を吐いていた。

──良かった。ちゃんと、意味のあることだったんだ。
思えば彼女の言葉は、いつも厳しくても必ず何か理由があった。言葉が足りないのは否定できないが、それでも瞳子が仲間たちから猜疑の目で見られるのは不思議と心が痛む。
そう、不思議と──だ。

「(どうしてなんだろう……)」

織乃は膝の上で閉じてあるモバイルに目を落とす。

豪炎寺の離脱時から、瞳子に向けられる選手たちの厳しい視線に何も思わなかったわけではない。
しかし最近は──自分でも理由は分からないのだが──彼女が疑われたり悪く言われることが、単純に嫌≠セと感じるのだ。

そこで、ふいに思い出す。
光に消える寸前の、彼女の言葉。

『織乃の、ばぁか』

あの時、彼女は──マキュアは、確実に織乃の名前を口にしていた。
まるで、旧知の友人に向けるように。拗ねたような表情で。

「(私は──)」

何を、忘れて≠「るんだろう。
足元を見つめていた織乃の肩を、ふいに誰かが叩いた。

「御鏡さん? どうかしたの?」
「──あ。いえ、何にもないですよ」

驚いて顔を上げると、眉を下げた夏未がこちらを覗き込んでいる。
織乃は咄嗟に平静を取り繕って、にこりと微笑んで見せた。

今の雷門には、まだ解決できていない問題がいくつもある。そんな中に新しい問題を投げ込むことは出来ない。
織乃は夏未の視線をごまかすように、海の方へ目を向けた。すると、柵に背中を預けてぼんやりと宙を見つめる吹雪が目に入る。

「──私、吹雪さんにドリンク渡してきます。試合が終わってからも、何も飲んでないみたいだから」
「ええ……」

少しだけ声の調子を落として、夏未たちは頷いた。
織乃はクーラーボックスから中身の冷えたジャグを取り出して、コート脇に1人ぽつんと佇んでいた吹雪の元へと足を向ける。

「吹雪さん!」
「……織乃ちゃん」

こちらに気付いて顔を上げた吹雪は、相変わらず白い頬を僅かに緩めて力無い笑顔を浮かべていた。
それが余計に、痛々しく感じる。

「──体調は大丈夫ですか? 水分もちゃんと摂ってくださいね」
「うん、ありがとう」

勿論、あの試合で吹雪が体調不良でベンチに下がったわけではないと言うことは十分分かっていたが、直接それを指摘出来るわけがない。
「……優しいね、織乃ちゃんは」吹雪はジャグのキャップを開けながら、蚊の鳴くような声で呟いた。

「──みたいだ」
「えっ、何ですか?」

ぱちくりとまばたく織乃に吹雪は苦笑ともとれる笑みを浮かべ、次の瞬間。

「……あっ、織乃ちゃん危な──」
「ふぎゅうっ!?」

突然の頭頂部の衝撃に、織乃は思わずその場にくず折れた。
てん、と頭上から落ちてきたボールが空しく足元に転がる。

「──御鏡! すまない、怪我はなかったか」
「だ、い……じょうぶ、です……」

多分、と付け加えながら、織乃は涙目で患部を押さえた。

まだズキズキと痛みはするが、コブにはなっていない。特に大した怪我がないことを悟ると、彼は──豪炎寺はほっと溜め息を吐いた。
ゴールでは、「おーい大丈夫かー!?」と円堂が手を振っている。どうやら円堂の弾いた豪炎寺のシュートが、織乃の頭を直撃したらしい。

「すいません、私も気付かなくって──あれ、吹雪さん?」

すぐ向かいにいたはずの吹雪は、振り返ると転がったボールを拾い上げ、それを見つめているところだった。
織乃はちらりと豪炎寺を見やる。雷門イレブンの様子は、定期的に鬼瓦が報告していたらしい。ならば、彼も吹雪の抱える事情を多少なりと聞いているはずだ。

豪炎寺は静かに、こちらに向き直った吹雪へ歩み寄る。

「──ボールが怖くなったか?」
「!」

ふいの問いに、吹雪の瞳が揺らぐ。

──そうだ。今だって、やろうと思えば織乃を庇ってボールを蹴り返すことくらい、以前の彼なら造作もなかったことだろう。
だが吹雪はそれをしなかった。
出来なかった、と言うのが正しいのだろうか。

黙り込んでしまった吹雪に、ボールを受け取った豪炎寺は小さく目を伏せた。

「怖くて当然だ。──俺も怖い」
「え?」

彼の言葉を、予想もしていなかったのだろう。
驚いた表情で顔を上げた吹雪に、豪炎寺は再びボールを手渡す。それは、余計な言葉をボールに預けたようにも見えた。

「怖さを抱えて蹴る。それだけだ」
「怖さを抱えて、蹴る……」

吹雪は弱々しく抱えたボールを見つめる。
白と黒の、土埃で汚れたボール。
じ、とそのコントラストを吹雪が見下ろすのを視界に留め、ふと円堂が大きな声を上げた。

「豪炎寺〜! 立向居の相手してやってくれよ!」
「……ああ!」

「お前も来いよ吹雪!」続けざまに名前を呼ばれ、吹雪は緩慢な動きで円堂たちのいるゴールを見やる。
傍らで織乃がいってらっしゃい、と微笑んだのが見えて、彼はほんの少し明らんだ笑みを浮かべた。

「雷門のエースストライカー、豪炎寺修也さん……! あなたのシュートを見せて下さい!」

ゴール前で両手を構えた立向居に、小さく頷いた豪炎寺がボールを打ち上げる。
「すげー、円堂の言ってた通りだ」立向居の青いゴッドハンドをいとも容易く貫いたファイアトルネードに、それを遠巻きに眺めていた綱海たちが感嘆の息を漏らした。

「やっぱり豪炎寺だよなー」
「立向居のゴッドハンドじゃ手も足も出ないか……」

余裕すら見えるその佇まいは、エースストライカーの貫禄がなすものと言っても過言ではないだろう。
一方シュートを止められなかった立向居は、悔しがる素振りも見せず、寧ろ一層への尊敬が高まったような輝いた表情を浮かべていた。

「すごいです……! すごいですよ、豪炎寺さん!」

彼が投げたボールは、数回バウンドして鬼道の足元へ落ち着く。
鬼道はしばしボールを見下ろした後、ちらりと吹雪へ向かって試すような視線を投げ掛けた。

「(鬼道さん、まさか──)」

織乃の額に嫌な汗が滲んだ次の瞬間。

「……吹雪!」
「!」

とん、と軽く。試合最中のようなものではなく、素人に託すような軽いパスが、高く宙を舞う。
吹雪の目に、スローモーションのように落下してくるボールの姿が焼き付いた。

「吹雪さん──」

てん、と空しい音を立て、ボールがフィールドで跳ねる。
吹雪は動かなかった。落ちてくるボールを見つめたまま、微動だに。
呆然と転がっていったボールを見つめた吹雪に、織乃が痛ましい表情で彼の名前を呟いた。

ボールが怖くなったか。
豪炎寺のあの問いに、吹雪は頷かなかったのではない。頷きたくなかったのだと、その瞬間嫌でも理解する。

吹雪は震える唇で細く息を吐くと、静かに目を伏せて泣き笑いにも見える複雑な表情を浮かべて呟いた。

「僕……このチームのお荷物になっちゃったね……」
「そんなことない」

間髪入れず言い切った円堂に、吹雪の目が僅かに見開かれる。
円堂は彼の小さな肩を叩いて、力強く続けた。

「雷門には、お前が必要なんだ!」
「……」

彼の目には、一切の偽りも同情もない。
ただひたすら真っ直ぐな眼差しに、ほんの少し吹雪の表情も和らぐ。

その様子を──唇を引き結んだ瞳子が、苦しげな瞳で見つめていた。