101

冷たい廊下に革靴の音が響く。診察室の一角から待ち合いスペースに戻ってきた鬼道に、暗い面持ちで待っていた天馬たちは一斉に顔を上げた。

「監督! 神童は……」
「……」

真っ先にそう尋ねたのは、若干顔の青ざめた霧野である。

あの後、倒れて動かなくなった神童にピッチは一時騒然となった。神童は意識を取り戻さぬまま救急車で近くの病院に運ばれ、雷門イレブンたちもジャージに着替える暇もなく大急ぎでそれを追い病院に入った。

こぞって自分の元に集まった選手たちに、鬼道は重たい口を開く。

「手術室に運ばれた。……緊急手術だそうだ」
「き、緊急手術……!?」

鬼道の言葉を聞いた瞬間、天馬たちの顔からざあっと血の気が失せた。
この状況を軽んじていたわけではない。だが、鬼道が『神童ならもう大丈夫だ』と言ってくれるのを、ただ漠然と期待していたのだ。

「──鷹栖? どこ行くんだよ」

仲間たちがざわつく中、ふと突然踵を返した依織に気付いた倉間が声を上げる。
依織は肩越しに振り向くと、かさついた唇を動かし早口に告げた。

「手術室、あっちです。あそこにも待つスペースがあります」
「!」

彼らはそれぞれ視線を交わすと、小さく頷き合って早足でそれに続く。

手術室の前は他の場所と比べても一段と静かだった。廊下に据えられた簡素なベンチは冷たく、座っているのも落ち着かない。
赤く点灯した手術中≠フランプを見上げ、雷門イレブンはじっとそれが消えるのをまでの時間に耐える。

しかし、待てど暮らせど手術室の扉が開く気配はない。
それから1時間以上は経っただろうか、口をへの時に曲げた速水が不安に上擦った声を漏らす。

「まだ終わらないんですかね……いくらなんでも長すぎますよ……!」
「キャプテン……」

廊下とを隔てる扉を見つめ、天馬はぎゅっとズボンの裾を握り締めた。
キャプテン、キャプテン。どうしてこんなことに。胸の内で呻いても、扉が開くわけではない。それでも思わずにはいられなかった。もしも神童に万が一のことがあったら。そんな不安が頭の中を巡る。

やがてそれからまたどれほど時間が経ったのだろう。ぱつん、と小さな音に頭上を見上げると、手術中の赤いランプが消えていた。

「! 終わったぜよ」
「!!」

扉がゆっくりと外側に開き、最初に出てきたのは術衣姿の男性医師だ。マスクを外した彼は一息吐くと、手術室を取り囲んでいた子供たちに驚いたのか目を少し丸くする。

「先生──」

声を掛け会釈した鬼道と春奈に向き合う医師に、三国たちがそっと近寄る。医師は鬼道と言葉を交わすと、やがて小さくかぶりを振った。
遠目からそれを見守る天馬たちは、そのリアクションにまさか、と息を詰める。

その瞬間だった。
一度閉じた手術室の扉が再度開き、ストレッチャーがカラカラと音を立てて出て来る。
そこに横たえられているのは当然神童だ。酸素マスクを着けたまま、彼はピクとも動かない。天馬たちはギョッとしながらストレッチャーに駆け寄った。

「キャプテン!」
「……手術は成功よ。もう心配ないわ」

青ざめた彼らを早く安心させたかったのだろう、ストレッチャーを移動させていた冬花が小さく微笑むと、天馬たちはそこでようやく表情を和らげる。
良かった、神童は無事だったのだ──安堵の溜め息を吐き、病室へ運ばれていったストレッチャーを見送った次の瞬間だった。

「──1ヶ月は安静!?」

突然廊下に響いた声に、遠ざかる神童を見送っていた1年生たちは飛び上がらんばかりに驚いて振り向いた。
手術を担当した医師は、眉間に皺を寄せてこう話す。

「しばらくは右足を、ギプスで固定することになるでしょう」
「決勝戦には、出られないってことですか……」

固い声で尋ねる春奈に、医師は気の毒そうな顔をして俯いた。
──残念ですが。短くも重たい答えに、天馬たちは頭をガツンと殴られたような気がした。

「っ先生! 何か方法はないんですか!?」

反射的に医師に駆け寄った天馬は言い募る。
これまでホーリーロードで優勝するために頑張ってきたのはみんな同じだ。けれど、その中でも神童はキャプテンとして一等気を張って来たのだ。

「お願いします!! キャプテンが決勝戦に出れるようにしてあげてください!! お願いします、先生……!!」

深く頭を下げた天馬の声は震えている。
自分を、仲間たちを率いてここまでやって来た神童がここで決勝に出られないなんて、そんなことがあってなるものか。

「……出来るものなら、私も何とかしてあげたいが……」

感情論で怪我や病気が治るわけではない。だからこそ医者は存在するのだ。残念そうに答え、鬼道らに会釈した医師はそのままその場を後にする。

再び静寂の訪れた廊下に、誰かの啜り泣きが聞こえる。茜だ。水鳥に肩を支えられ、顔を覆った茜が小さく泣いている。

「神童……」
「何でだよ──何でこんなことになっちまうんだよ。決勝戦に出られないなんて……!」

堪えきれなかった憤りをぶつけるように、三国が壁を殴って呻く。言葉こそ失っているが、みな考えることは同じだった。

「ここまで来られたのも、神童がいたからこそじゃないか。なのに、何でその神童が……!!」
「……キャプテン……」

様々な感情を混ぜ食った乾いた声が反響する。
鼻につく消毒液の匂いに、依織はそっと俯いた。




その翌日、放課後。

「さぁ、今日も張り切って練習よ!」

フィールドに響くのは明らかに空元気な春奈の声だ。
準決勝を勝ち抜いた今、決勝戦はあと数日後に迫っている。神童がいなくても、それを理由に練習を怠るわけにはいかない。だが──

「みんな、何だか動きが鈍いですね……」

明後日のところへ飛んでいくボール、通らないパス、中には足をもつれさせ転ぶ者もいる。
そんな選手たちの様子を見て春奈が思わず呟くと、ベンチから立ち上がった鬼道が一息吸い込んだ。

「──お前たち! 何だそのプレーは!?」

ビリビリと空気を叩く叱咤の声に、天馬たちはビクンと肩を跳ねさせて振り返る。

「それがお前たちのサッカーか? そんなサッカーで決勝に臨む気か!!」

──今の自分達のプレーがなっていないことは分かっている。だからこそ、天馬たちも返す言葉がなく俯いた。
どれだけ集中しようとしても、頭のどこかで神童のことを考えてしまう。全員揃って決勝戦に行くのだと信じて疑わなかった分、ここに来て空いた穴はあまりにも大きい。

とは言え、鬼道も彼らの気持ちが分からないわけではない。大きな溜め息を吐き、鬼道はどっかりとベンチに腰を下ろす。
あと数時間後には決勝戦の相手が決まる。どれだけ辛かろうと、時間は止まってはくれないのだ。

「(早いところ、選手たちの気持ちが切り替えられる切っ掛けが出来ればいいんだが)」

少なくとも、今日のあの様子では無理だろうな──そう心の中で独り言ちた鬼道の足元に、蹴り損ねたボールが転がった。




白い引き戸に伸びた手が、一瞬戸惑うかのように握り締められる。
逡巡の後、気を取り直した握り拳は控え目に引き戸を叩いた。

──こん、こん。
ノックの後にしばしの静寂。声は返ってこない。

「…………太陽?」

思わず出た声は何だか頼りなくて、自分でも不安になった。取っ手に手を掛け、依織はそっと引き戸を開く。

細く開いた窓から空気が抜けて、白いカーテンを揺らしている。差し込む夕日にゆらゆらと照らされながら、太陽はベッドの中ですやすやと寝息を立てていた。

「何だ、寝てたのか……」

少しだけホッとしながら病室に足を踏み入れる。見れば、サイドテーブルには水差しと水滴の残ったコップ、捨て損ねたらしい薬の包み紙が置きっぱなしになっていた。

太陽が無事病院に戻ったことを知ったのは、昨日神童の状態を聞いた後のことだ。
病院を出る間際、依織はたまたま息子の再入院手続きにやって来た太陽の母親と出くわしたのである。

何て無茶なことをしたのかしら、と彼女は少し疲れの見える顔でぷりぷり怒っていたが、その表情はどこか晴れやかだったようにも思える。彼女もまた、依織のように太陽のサッカーへの思いがどれほど強いか理解していたのだろう。

依織は太陽の顔にそっと掌を翳した。
微かに感じる呼気、薄く上下する胸元。顔色は少し悪いが、呼吸に滞りはない。

「──生きてる」
「……そりゃあ、当然だよ」

ぽつりと漏らした独り言に返事が聞こえてきて、依織はついパッと手を引っ込めた。
ゆっくりと目を開いて視線だけこちらに向けた太陽に、依織は面食らったように顔をしかめる。

「太陽……起きてたなら返事くらいしろよな」
「今起きたんだもん……薬が効いててさ、眠くて堪らないんだ」

その言葉通り、太陽は依織の方へ寝返りを打って大きな欠伸をした。

「昨日……雷門のキャプテンさんは、大丈夫だった?」
「ああ……いや。あの人はしばらく怪我で入院だよ。決勝戦には出られない」

改めて口に出すと、ずしんと肩が重たくなった気がした。
それを聞いた太陽は、少し目を伏せて「悔しいだろうね」と答える。今まで病床でチームを応援し続けていた分、説得力があった。

「依織は……大丈夫? 辛くない?」
「私は平気だよ。特に大した怪我もしなかったしな」
「ええ? 嘘だぁ……」

こちらを見上げる目が微睡んでいる。やはりまだ眠たいのだろう。
嘘なんかつくかよ、と鼻で笑いながら腹の辺りまでずり落ちた布団をかけ直してやると、太陽はむにゃむにゃと口を動かした。

「だって依織……試合してる間、ずっと辛そうだったじゃないか……」
「それは、……」

それは。その先は言葉にならない。太陽はもう既に半分夢の中だ。かぶりを振り、依織は太陽の頭をくしゃりと撫でる。

「──それは、もういいんだよ。ほら……眠るまでここにいてやるからさ、寝ときな」
「うん……依織」
「なに? 太陽」

問いかける声は柔く、優しい。それはまるで、母か姉のようだった。

「約束破ろうとして、ごめんね……」

すう、と最後に短く息を吸い込んで、太陽は再び深い眠りに就く。
目を見開き、その寝顔をしばし見つめていた依織は、やがてくしゃりと眉をひしゃげ唇を噛み締めた。

「覚えてるんじゃんか、バカ太陽……」

太陽はすっかり寝入っていて、今度は依織の独り言に反応する気配はない。
カーテンは相変わらずゆらゆらと風に靡いている。
依織は椅子に腰掛けてしばらくの間ぼんやりとそれを眺めていたが、やがて吹き込む風が冷たくなってきていることに気付くと、窓を静かに閉めて病室をそっと後にした。

と、たん。引き戸をゆっくりと閉めたのと同じタイミングで、隣の病室の引き戸が開く音がする。
振り向くと、丁度そこから出てきた剣城と目が合った。

「……帰るか」

一瞬の無言の後、剣城が口を開く。そうだな、と頷いた依織は、先を行く剣城の背中をゆっくりと追いかけた。

面会時間間際を迎えた病院は、診察に訪れる患者の姿も少なく昼間より一層静かである。
2人分の靴の音を響かせながら、ふいに剣城が前を見据えたまま言った。

「──どうだったんだ、雨宮の様子は」
「え? ああ……思ったより元気そうだったよ。まぁ、薬が効いてたからほとんど眠ってたけどさ」

そうか、と答える声はどことなく優しく聞こえる。まともに話したことがないとはいえ、昨日の敵は今日の友だ。剣城も少し心配してくれていたのだろう。

「全く、身勝手なサッカーバカだよな。周りの反対押しきってまで試合に出て、せっかく退院できたのにまたとんぼ返りだ」
「ああ」
「今サッカー出来るなら後のことはどうでもいいみたいなことまで言ったくせにさ、いざ倒れたらやっぱりまだサッカーがやりたいって……だったらちゃんと完治してからフィールドに出ろっての」
「ああ」

剣城が特に反論せず淡々と相槌を打つのを良いことに、依織は昨日までに溜まった鬱憤をまとめて晴らすような勢いで喋り続ける。

「でも太陽のことだから、多分反省してないんだよな。だから今度無理矢理試合に出ようとしたら、絶対ベッドに縛り付けてでも止めてやるんだ」
「ああ……」

病院のエントランスを出ると、柔らかい風がゆるりと頬を撫でた。
街並みに沈み掛けた夕日が目を刺して、依織は思わず瞼を伏せる。

「──鷹栖」

ふと、前を歩いていた剣城が、階段を中程まで降りたところで立ち止まった。何だよ、と依織はそちらを見たが、自分を振り仰ぐ剣城の表情は逆光になってよく見ることが出来ない。

「俺もいい加減、お前の性格は分かってるつもりだ」
「……?」
「ただ、やっぱりどうしても思う時がある」

剣城はまたそこで視線を前に戻す。依織から目をそらすように、彼女を背中で隠すように。

「たまには意地なんて張らないで、弱いところ見せたって良いんじゃないかって──素直になったって誰も責めやしないのにって」

ざあ、と風が吹き抜ける。
何言ってるんだ、意味分かんねえよ──そう言い掛けた唇は、薄く開いたまま上手く動かない。

やがて何も反応がないことを訝しんだのだろう、剣城が戸惑いながら振り向こうとすると、背中にとん、と軽い衝撃が走る。
一瞬殴られたのかと思ったが、違うらしい。

「──うんと小さい頃、太陽と約束したんだ。いなくならない、どこにも行かない、ずっと一緒にサッカーするって」

額を背中に押し付けて喋っているのだと気付いたのは、そこから僅かに声が振動になって伝わってくるからだった。
剣城は動かぬまま、相槌も打たずただじっと依織の言葉に耳を傾ける。

「だから、あいつが『今まで夢見てきたことが全部叶うのなら、僕は死んだって構わない』って言ったとき、凄くショックだった」

自分が未だに幼い頃の些細な約束を大事にしていること。
太陽がそれを破ろうとしたこと。
彼がそれを、本気≠ナ言っているということ。
──その全てが、依織の心に大きな皹を入れた。

「でも、太陽が本気でサッカーをやりたがってたのは私も知ってたから……私も全力で戦った。これがあいつの望んだことなら仕方がないって、思ったから」

新雲を決勝に進めさえしなければ、太陽の体はまだ耐えられるかもしれない。説教はその後でいくらでも出来る。そう自分に言い聞かせて走り続けた。

「ただ、あいつが最後に倒れてまだサッカーがやりたいって言ったのを聞いて、心底ホッとしてさ……それと同時に、分かっちゃって」

言葉の端々が震える。ぎゅう、と改造した学ランの裾がひきつるのが分かる。剣城は静かに沈んでいく太陽を見上げた。

「私……試合してる間、太陽が本当に死んじゃったらどうしようって考えて、ずっと怖かったんだ」

さわさわと風に吹かれた木々が揺れる。
鷹栖、とここでようやく口を開いた剣城は、ぽつりと言った。

「雨宮──生きてて良かったな」
「っうん……」

瞬間、堰を切ったかのように漏れてきた小さな泣き声に、剣城はぎゅっと唇を噛み締める。

安堵と不安の入り雑じった涙が背中を濡らす感覚に、罪悪感を覚えないわけではない。
ただそれ以上に、ようやく彼女が自ら見せた弱さに、背中を借りてくれたことに、安心した。

それから一体どれほどの時間そうしていたのだろう。

「──悪い、もう平気」

掠れた声と共に、背中の温もりがそっと離れていく。
一拍空けてゆっくり振り向くと、依織は俯きがちに小さく鼻を啜っていた。赤くなった目元が痛々しい。

「(……跡が)」

頬には拭いきれなかったらしい涙の跡が一筋残っている。彼女はまだそれに気付いていないようで、こちらを照らす夕日に眩しそうに目を細めた。

その拍子に──これはどちらかと言うと眩しさからくる生理現象だろう──依織の目尻から、新しく小さな涙が溢れ落ちる。

西日に輝いた涙が、重力に従い緩やかに彼女の白く丸い頬を縁取っていく。
その光景に、彼は知らずと息を止めていた。

「──剣城?」
「……あ」

驚いたような声に我に返る。
気付くと剣城の手は、その涙を掬い取るように依織の頬に触れていた。雫は指を伝い、ポタリとアスファルトを濡らす。
弾かれたように手を引っ込めた剣城は、依織に背を向けて言った。

「……顔、一度洗ってきた方がいい。お前の姉さんが見たら、心配するだろうから」
「ん、あ、ああ……うん」

戸惑いながらも素直に頷いた依織は、小走りに病院の中へ戻っていく。
その足音が遠ざかるのを聞きながら、剣城はじっと濡れた指先を見つめた。

「(何だったんだ、今の)」

それは依織の台詞だろう。けれど、突然の行動に困惑したのは剣城本人も同じだった。
理由は分からない。あの光景を見た瞬間、ただ──漠然と感じたのだ。

彼女に『触れたい』、と。

途端、胸の内に訪れた何かくすぐったいような感覚に、剣城は指先を丸め軽くかぶりを振る。
きっと昨日から色々なことがあって自分も疲れているのだ、そうに違いない。
──まだその感情の名前を知らない少年は、友人が戻ってくるのをただじっと待つのだった。