「どう思う?」
人気のまばらな職員室前の廊下。
深緑色の掲示板を剣呑な目で見上げ、唐突にそんな言葉を口に出す少年が1人。
【祝! 雷門イレブンホーリーロード優勝!!】
──貼り出された校内新聞の大きな見出しの横には、天馬を胴上げする雷門イレブンの写真が載っている。
疑問を投げ掛けられた友人2人は、苦笑いの顔を見合わせた。
「どう思うって……」
「なぁ?」
「お前ら、悔しくないのかよぉ!」
返ってきた鈍い反応に、彼──金成は腹立たしげに地団駄を踏む。
かつてサッカー部に入ろうと入部テストを受け、落選したこの3人。金成と小手咲と押井である。彼らはサッカー部から弾き出された後はそれぞれ違う部に入り、それなりに青春を謳歌していた。
「悔しいっちゃ悔しいけど、優勝までされちゃうともう文句の言いようがないんだよな……」
溜め息混じりに言う小手咲は、自分よりサッカーが下手だろうと思っていた天馬と信助がそれぞれチームに貢献して予選を突破した頃から、その嫉妬の炎は当に燻っていた。
同じクラスの依織や剣城、後から転校してきた輝がどれだけ決勝戦で活躍したかも中継を観ていたから知っている。その3人も今朝からクラスメートの注目を集めに集め、昼休みが過ぎる頃にはすっかり草臥れてしまっていたが。
「くっそ〜……あの時合格してたら、俺たちも有名人になれてたかもしれないのに!」
あの時依織に突っ掛かって埃っぽい床に投げられたことがトラウマになり、運動部の女子が近付く度に身構えてしまうようになった金成は、写真の中で胴上げされた天馬を見上げる依織を睨んで思わず壁を蹴る。
その時だ。ガラリと職員室の引き戸が開いて、中から出てきた背広を着た男性がペタリとスリッパの音を立ててこちらを振り向く。
先生だ──反射的にそちらを見上げた3人は次の瞬間、ヒェッ、と冷水を浴びたような小さな悲鳴を上げた。
「ああ、君たち……良かったら、サッカー棟への道を教えてくれないか?」
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「──何だ何だ、みんな。練習の始まる前から随分と疲れてるな?」
校舎からくぐもったチャイムの音が聞こえてくる。ミーティングルームに足を踏み入れた円堂たちは、一様にぐったりとした様子で椅子に腰掛けた子供たちに思わず苦笑を浮かべた。
とは言え、円堂たちもこの状況に全く身に覚えがないわけでもない。
「今朝からクラスメートに囲まれたり新聞部に追いかけられたり……」
「祝ってくれるのは嬉しいんだけどな」
革命のことを何も知らない一般生徒たちからすれば、雷門イレブンは日本一の称号を勝ち取った時の人でしかない。声援や好奇の目、尾ひれの着いた噂諸々をほぼ丸1日捌けば疲れもするだろう。
だが、だからと言って練習を疎かにする理由にはならない。
ぱちん、と春奈がだらけた空気を振り払うように手を打ち鳴らす。
「さ、元気出してみんな! もうすぐ神童くんも戻ってくるんだから、そんなにぐったりしてるところ見られたらガッカリされるわよ?」
「神童先輩が!?」
がたん、と椅子を鳴らして前のめりになった天馬に、春奈はにっこりと頷いた。
「まだサッカーは出来ないそうだけど、明後日には退院するそうよ」
「そっか……良かったぁ」
また一緒にサッカー出来るんだ、と顔を綻ばせた天馬を筆頭に、顔を見合わせた仲間たちはホッと胸を撫で下ろす。
そうなれば、情けない姿を見せないためにもいつまでも座り込んでいるわけもいくまい。
「じゃあ早速練習に!」と意気込んで立ち上がる天馬を円堂が片手で制した。
「今日は練習の前に、……鬼道」
「ああ」
名前を呼ばれた鬼道が一歩前へ進み出ると、一同は不思議そうにそちらを注視する。
子供たちの視線を一手に引き付けながら、鬼道は口火を切った。
「……お前たち、今まで厳しい特訓によく着いてきてくれた。俺は今日の練習を最後に雷門のコーチを退き、帝国に戻る」
「ええっ!?」
鬼道の突然の宣言に、一同は声を上げるなり目を見開くなりして表情を驚きに染める。
ただ1人、その中で平然としている依織に気が付いた輝が「あれっ」とそちらを振り向いた。
「依織ちゃん、知ってたの?」
「いや? ただ、そうなるだろうなーとは思ってたからさ」
今更驚くようなことでもない、と依織は事も無げに肩を竦める。
元々鬼道は雷門をホーリーロード優勝に導くため響木から派遣されたようなものだ。目的を達した今、帝国イレブンの監督でもある彼が雷門イレブンのコーチをし続ける理由はない。
「今までありがとうございました、鬼道コーチ。あなたの指導があって、俺たちもここまで強くなれました」
「ちゅーか、死ぬほどスパルタだったけど……」
「浜野くん、シッ!」
雷門イレブンの代表として頭を下げる三国に続き、「ありがとうございました!」と声を上げる子供たち。
それに混じる浜野のボヤキは聞こえなかった振りをして、鬼道は少し口角を上げる。そして、彼はふと思い出したようにポケットに差し込んでいた両手を抜いて続けた。
「ああ、それから……これは完全な私事で悪いが、結婚したことを報告しておこう」
「…………え?」
そう告げる彼の左手の薬指には、キラリと輝く白銀の指輪。
「ええええええええッ!?」
──ガターン!!
先程の倍はあるだろう驚愕の声と、何かが倒れる大きな音が入り交じる。
鬼道がそちらに目を向けると、卓の向こう側に脚が2本飛び出しているのが見える。依織が椅子ごと引っくり返っていた。
「ッ聞いてないんですけどぉ!?」
「お前が授業を受けている間に手続きをしてきたからな」
振り上げた足をバネに勢い良く跳ね起きた依織に、鬼道は淡々と答える。織乃にも今朝依織と話す時間は少なからずあったはずだ。それでも何も聞いていないと言うことは、こうやって彼女がうるさくなることを見越していたのだろう。
「どうした依織。今更驚くようなことでもないだろう?」
「んがああああッ!! 腹立つうううう!!」
怒りと混乱で真っ赤になりながら、頭を掻き毟った依織はそのまま卓に突っ伏した。友人の乱心に1年生の一部が怯えている。
「え〜、ええっと……そう言うわけだから、みんな最後にしっかり鍛えてもらえよ!」
「は、はい!」
何とかその場を収めようと声を上げた円堂に釣られるように天馬たちも立ち上がった。
傷心の依織を左右から剣城と輝が支え、円堂や鬼道を先頭に雷門イレブンはミーティングルームを後にする。
「──雷門イレブンの方々ですか?」
いざスタジアムに向かおうとしたところで、ふいに聞こえてきた低い男の声に彼らは一斉に振り向いた。
そして──それぞれ反応に差はあるが──思わず硬直する。
そこに立っていたのは、丁度今しがたサッカー棟に入ってきたらしい背の高い中年の男性だった。
しなやかに伸びた背筋。オールバックに纏められた白髪混じりの髪。ピシリと着こなしたグレーの背広はいかにも『仕事の出来る男』という風貌であるが、最も注目すべきはその顔だろう。
見る者を射殺さんばかりの鋭い眼光。
寄りに寄った眉間の皺はまるで狛犬のよう。
明らかに堅気の者とは思えぬその面差しに、彼らは瞬時に感じ取った。
──目を逸らしたらやられる。
「っえ、ええ……そうですが、あなたは?」
「ああ、突然すいません。私は──」
真っ先に我に返った円堂がそう問い掛けると、男は小さく頭を下げつつ口を開く。
しかし、彼が言葉を続けるより早く。
「お……お父さん?」
「へ?」
突然背後から上がったすっとんきょうな声に、円堂や仲間たちは再び振り返る。
見ると、剣城たちの支えから離れた依織が、目を皿のように丸く見開いて男を見つめていた。
「お、おと……?」
「あ、ええと……」
そそ、と仲間たちの輪から外れた依織は男の傍らに立つと、やや気まずそうな顔で彼を手で指し示しながら言う。
「……うちの、父です」
「鷹栖です。どうも、初めまして」
そう言ってもう一度腰を折る男──もとい依織の父に、3回目の驚愕の声が上がったのは言うまでもない。
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「帰ってくるなら連絡くらいくれたって……」
「事前に伝えると『来るな』と言うだろう、お前は」
間髪入れず返ってきた言葉に、依織は苦い顔をする。
スタジアムの観客席の中腹。そこに隣り合って座る鷹栖親子を、天馬は不安そうに見上げた。
2人が話している間に先に練習を始めよう、と言う円堂に頷いたのは良いが、どうしてもそちらに意識が向いてしまう。
「大丈夫かな、依織……」
「めちゃくちゃ怖そうな親父さんだもんね〜」
一瞬極道かと思った、と身を震わせる浜野に、倉間と速水が激しく頷く。
それもあるんですけど、と眉を下げ、天馬は言い淀む。思い返すのは、以前依織から聞いた過去のことだ。
依織の父は、娘がサッカーをすることを反対しているという。それを依織や周りの人間がどうにか説得し、『ホーリーロードで優勝出来ればサッカーを続けても良い』という約束を取り付けた。
その約束を依織は遂に昨日果たしたのだ。だが、もしも彼女の父がそれを反故にしたら? ──唇を引き結ぶ天馬の肩を、ふいに剣城が叩く。
「剣城……」
「……あいつなら大丈夫だ、きっと」
そう言う剣城の目には、彼女への信頼と僅かな不安を感じ取れる。天馬はもう一度観客席の依織を見上げて、小さく頷いた。
「雷門のサッカー部は、随分と設備が充実しているんだな」
「最近はどこの学校もこんなもんだよ」
それでもお金を掛けてる方だろうけど、と依織は自分の爪先を見つめながら答える。
約2年ぶりに会った父は、最後に言葉を交わした時とあまり変わった様子はない。
強いて言うならまた眉間の皺が増えたことくらいだろうか。どうせ飛行機の中でパソコンとの睨み合いでもしていたのだろう、と依織は心中溜め息を吐く。
「いつもここで練習しているのか?」
「ここと、あとはグラウンドと……河川敷にあるグラウンドも時々使ってる」
「ああ、あの駅の近くにある……」
淡々と続く会話の中で、依織はそわそわと脚を組み替えながらちらりと父を見上げる。
父は一瞬こちらを見ると、ピッチで練習を始めた天馬たちを眺め、しばしの沈黙のあと口を開いた。
「……お前たちの決勝戦の映像を観た」
「えっ? いつ!?」
「昨日の夜、織乃ちゃんから動画の添付されたメールが届いてな」
依織はあんぐりと口を開ける。そんなこと、昨日も今朝も、彼女は一言たりともそんな話はしなかった。何だかさっきからこんなことばかりだ──顔をしかめる娘に、父はそっと目を伏せる。
「驚いたよ。依織があんなにサッカーが上手いなんて、知らなかった。本当に……全く、想像すらしていなかった」
目を瞬き、依織は父を凝視する。彼は伏せた瞼を開け、顔を傾げて娘を見下ろした。
少し日に焼けた健康的な肌、昨日こさえたのだろう膝の絆創膏。スポーツに心血を注いだことが窺える、伸びた手足についたしなやかな筋肉。
──娘はいつか、妻のような淑やかな女性に成長するのだろうと思っていた。
だからサッカーが好きだと聞いた時は驚き、それを抑制した。元から体だってそこまで丈夫な子ではないのだ、ただでさえ女の子らしく育ってほしいのに、男の子に混じって泥にまみれてボールを追いかけるなど言語道断である。
そう思っていたからこそ、映像に映る娘を見たとき度肝を抜かれた。
これがあの小さかった娘なのか。自分が妻の遺志を継ぎ、女の子らしく淑やかに育てようとした娘なのか。
ノートパソコンの小さな画面の中で、依織はがむしゃらに走っていた。何度弾き飛ばされても立ち上がり、走ることを諦めない。フィールドを駆け抜ける姿はまるで獣のようなのに──目を離せない美しさにも似た何かがあった。
そこには既に、自分の敷いたレールも、かつての幼かった頃の面影もない。彼女は父が閉ざそうとした未来を、文字通り体全部を使って抉じ開けたのだ。
「お前は……美織とは、違うのだな」
「──……」
噛み締めるような声に、依織は薄く唇を開く。
そして唐突に理解した。──ああ、やはり自分たちは親子なのだ。1つのことに固執して、本当に大切ものを見失ってしまう。なんて厄介なところが似てしまったのだろう。
「……バカだなぁ、お父さんは。私とお母さんが違うだなんて、そんなの当たり前に決まってるじゃん」
「ああ……そうだな……」
ほんの少しだけ眉間の皺を緩めて、父が少し口角を上げると、依織もまた仕方がないとでも言いたげに眉を下げて小さく笑う。
ただ、その笑みは記憶に残る最愛の妻とやはりよく似ていて──少しだけ、目頭が熱くなった。
仲間たちが時おり観客席へ不安げに視線をやる中、依織がふいに立ち上がったのが見えて、天馬は思わずボールを蹴る脚を止める。
「天馬ァ」
「! 依織」
階段を駆け降り、手摺から半身を乗り出すようにしてピッチを覗き込んだ依織に、天馬は思わず駆け寄った。
その切羽詰まった様子に釣られたのだろうか、剣城を始め葵たちや他の1年生も依織の声が届く場所まで走ってくる。
依織はそれを見て数度まばたきを繰り返すと、やがて口角を少し上げてこう言った。
「あのさ──これからもよろしくな」
「……!」
天馬は隣に駆け寄った葵と顔を見合わせると、パッと表情を輝かせた。肩越しに後ろを見れば、剣城もどこか安心したような顔で依織を見上げている。
事情を知らない信助たちは依織の脈絡のない台詞に首を傾げはしたものの、天馬たちの様子から何か良いことがあったのは察せたのだろう、同じように笑みを浮かべた。
「うん……! また一緒にサッカーやろう、依織!」
早く降りておいでよ、と急かす天馬に手を振って応え、依織はピッチへの道を駆けていく。
嬉しそうな表情を隠しきれない顔の娘を見送った父は、ふいにその背中に真っ白な羽のようなものがちらついたのが見えた気がして、思わず目を擦ったのだった。