If you can trace by a lip

その日はひどい雨だった。
正にバケツをひっくり返したような雨量はあっという間に地面をぬかるみに変える。
そして、そのタイミングはあまりにも突然のことだった。

「うわわわわ!!」
「……っ!」

ざあざあと響く雨音に混じるのは、珍しく慌てた様子を隠さない依織のものである。
その隣を走る剣城は雨で崩れきった前髪を鬱陶しそうに払い除けながら、あそこだ、と短く言ってバス停の待合所を指差した。

「うへー……最悪。今日降水確率10%じゃなかったっけ?」
「……通り雨か。あっちの方は晴れてるみたいだな」

前髪の水分を絞りながら呻く依織に呟いて西の方を見ると、真っ黒な真上の空とは違いあちらは薄く白い雲しか掛かっておらず、隙間から所々青空すら覗いている。
通り雨、とは言ったが雨はまだ止む気配がなく、風も殊更強く吹いてきているようにも感じる。まだしばらくはこのまま雨宿りをするしかないだろう。

「鷹栖、雨が上がったらも゙……ッ」

もう見舞いは明日にして、今日は帰るぞ。
──そう伝えるつもりだった。振り向いた剣城は、中途半端なところで言葉を詰まらせる。

「え、何? 藻?」

藻がなんだって、と素っ頓狂なことを言いながら、依織は額や頬に張り付いた髪をせっせと払っている。
だが、問題はその首から下だった。

「う、おま、……うぐ……」
「おい、マジでどうした」

怪訝そうに眉を顰める彼女は、まだ自分の異変に気付いていない。ならば、ここは自分が伝えるしかない。
分かっているのだが、あまりにも言葉にし辛い。いくら普段大人ぶっていたとしても、剣城もまだまだ思春期真っ盛りの中学生である。

「……ぎ、……」
「うん?」
「……ッ下着が、透けてる……」

言った。言い切った。達成感と同時に、それを上回る強さで襲い掛かってくる羞恥心に、剣城は赤い顔で歯を食い縛る。
そして依織は一瞬ポカンとして自分の白いシャツを見下ろすと、目を見開いて負けず劣らずカッと顔を赤くした。

「やっ……!」

短く悲鳴を上げて両腕で自分の体を隠しても時既に遅し。剣城の網膜にはもうしっかりと水色の下着が焼き付いていた。見間違いじゃなければレースがあしらわれていた気がした。

「み、見んなバカぁ!!」
「仕方ないだろ! っおい後ろ向くな!」
「えっ、あ、う!?」

前を隠した状態で後ろを向けば、勿論白い背中に同じような水色の線が1本見える。
ぴゃっ、とよく分からない悲鳴を上げた依織に、剣城はやっと自分がすべきことに気が付いた。

「これ着てろ!!」
「うぶッ」

慌てて被せたのは剣城のトレードマークの1つでもある改造学ランである。こちらも雨に濡れかなり水を吸ってしまっているが、透けるような素材ではないためシャツ1枚よりはまだ良いだろう。

「……びちゃびちゃなんだけど……」
「我慢しろ」

一拍空けると羞恥心も落ち着いてきたのか、少し不満げな様子を見せながらも依織は短ランを羽織った。ありがと、と短い礼の言葉が雨音に混じる。

ようやく冷静さを取り戻した2人は、改めて濡れ鼠になった自分たちの格好に溜息を吐く。
ジャージは双方サッカー棟のランドリールームだ。汚れがあまりにひどかった場合、ユニフォームやジャージはマネージャーたちが纏めて洗って次の日に渡してくれる。いつもは荷物が減って助かるところだが、今回に限っては運が悪かった。

「んー……」
「? 今度は何だ」

突然呻き声に似た音を発した依織に、剣城は一瞬ギクリとしながら視線をやる。まさかやっぱりいらない、と学ランを突き返されるかと思ったのだ。
けれどそんなことはなかったようで、依織は濡れた髪に指を差し込んでは何かを引っ張り出している。

白い指で抓み出されたのは、どこぞから飛んできた緑色の葉っぱだった。

「何か後ろの方がむずむずしてさ……なぁ、ちょっと見てくんない?」
「…………しょうがねえな」

さっきまで下着を見られたと顔を赤くして恥ずかしがっていた彼女は幻だったのだろうか。色々なことを諦めながら、後ろ向け、と言えば依織は大人しく剣城に背を向ける。
高い位置で結われた髪に、大小様々な葉が絡まっている。そう言えば先程、ショートカットしようと土砂降りの中雑木林を突っ切ったのだったな、と剣城は自分の髪の心配もしながら1枚1枚葉を抓み取っていく。

「……あ」
「え、何?」

ふいに、抓み損ねた葉が1枚彼女の首に張り付いた。ぴく、と肩を揺らした依織がこちらを向こうとする。

「首の方に付いた。ちょっと髪どかせ」
「うん」

よくよく考えると、これくらいなら自分で取れるのでは? そう気付いたのは言った後のことだ。
依織の手がそっと髪の房を前へと退かす。濡れた襟足が乱れ、ツゥッと首に一筋垂れた水が学ランの隙間から背中へ落ちていく。

「(……細い……)」

思わずごくりと唾を飲む。
剣城も肌の白さで言えば負けていないのだが、彼女の白く細い首筋は、何だか自分のそれとは全く別の物のように感じた。

そっと指を伸ばして、小さな葉を抓み取る。指が触れた瞬間、くすぐったかったのか依織が「んっ」と息を漏らし、慌てて手を引っ込めた。

「なぁ、取れた?」
「っあ──ああ」
「そう、さんきゅ」

再び髪に隠れた首筋を目で追ってしまう。
──吸い寄せられそうだった。胸に抱いたのはそんな感想だ。無防備なうなじは、滅多に見られない依織の女性らしさの象徴のような気さえしてしまう。

どうせなら、あのまま。

「どうした、剣城?」
「……いや……ただの考え事だ」

自分の柔らかい部分で、そこに優しく触れることが出来ていたら。

──なんて考えに及ぶには、彼はまだまだ子供であった。剣城は一瞬心に芽生えたもやっとした感情に首を傾げて、空を見上げる。
雨はまだ、止みそうにない。