「──きりーつ、礼!」
ありがとうございました──日直の号令に、依織は欠伸をかみ殺しながら気怠げに腰を曲げた。
響くチャイムに、たちまち廊下からガヤガヤと沢山の足音と話し声が溢れ返ってくる。
「おい、依織!」
「んぁ?」
突然名前を呼ばれ、依織は素っ頓狂な声を上げながら振り返る。
入り口のドアの桟にもたれた水鳥が、こっちへ来いと手招きしている。
派手な見た目のせいでクラスメートたちがギョッとしながら彼女を遠巻きにしているのが分かって、依織は一瞬表情を引き攣らせた。
「どしたんスか、水鳥さん」
「どーもこーもねえだろ。今から天馬たちの入部テストだぜ?」
くいっと廊下を親指で指した水鳥に、依織はあっと声を上げそうになったのを寸でのところで押さえる。忘れていた、とは口が裂けても言えない。
「さ、行くぞ!」
「うぉっ」
がっしりと水鳥に腕を掴まれ、依織は引きずられるような形で外へ連れ出される。
廊下の先へ消える2人の背中を、教室の隅で剣城がじっと見つめていた。
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「──お。丁度始まるところだな」
グラウンドを見下ろせる位置まで来たところで、水鳥は面白そうに口角を上げる。
依織もそれに倣って、グラウンドに目を凝らした。
フィールドにジャージ姿の生徒が5人。
その内の2人は勿論天馬と信助だ。雷門イレブンはそれに対峙するように、ゴールの前でフォーメーションを組んでいる。
水鳥は階段を駆け下りると、ひらりとベンチに腰を降ろした。
「気張ってけ、天馬!」
「わ、水鳥さん!? それに依織も……いつの間に?」
「今さっきな」
隣にいた葵が、突然隣に現れた水鳥と依織に驚いたように振り返る。 そんな彼女の脇に目をやった水鳥が、おっと声を上げた。
「何だ、茜。結局入部したのか?」
「うん」
小さく頷いたのは、三つ編みをお下げにした2年生の女子生徒だ。手に持っているのは、おそらく私物であろうピンク色のカメラである。
「そうだ茜、紹介しとくわ。こいつ、鷹栖依織。結構骨のあるやつなんだぜ」
「よろしく、依織ちゃん」
「……ども。よろしくお願いします」
ふんわりと微笑んだ茜に会釈し、何となく視線を周りに投げ掛けた依織はふいに唇を引き結んだ。
恐らく監視の為であろう、丁度グラウンド全体が見渡せる階段──一番上の段差に剣城が腰掛け、フィールドの様子を見下ろしている。
依織はちらりと久遠を見上げた。
彼は剣城の存在に気付いているのかいないのか、いつものように冷静な目でフィールドを見ている。
「……5人には、2年と3年を相手に攻め込んでもらう。方法は自由だ。では、始め!」
ピッ、と短くホイッスルを鳴らした久遠が、手を振り下ろした。
「頑張ろう!」信助と目を合わせた天馬は、小さくガッツポーズを作る。
「キックオフ、あれって依織のクラスメートじゃない?」
「あ? あー……そうだっけ……?」
葵に言われ、依織は自信なさげに目を細めた。
確か、古手川と言っただろうか。彼もまた初心者なのだろう、どこか覚束ないドリブルに神童たちが眉根を寄せたのが分かる。
「うわっ、と! どこ蹴ってんだよ!」
「お前のトラップが下手なんだよ!」
パスもうまく通らず、味方同士で言い争う始末だ。あれでは連携もへったくれもない。
「喧嘩してんじゃねーよ1年坊!」水鳥が苛ついた声でヤジを飛ばす。
「ったく……ほらよ」
「あああ、あれっ?」
見かねた車田が信助へボールを転がして寄越したが、信助は緊張していたのかうまく取れずに足をもつれさせその場ですっ転んだ。
こぼれ球を拾った速水が、あんな簡単なパスなのに、と呆れたように呟く。
「信助、落ち着いて行こう!」
「う、うん……」
信助を引っ張り起こした天馬に、速水が軽いパスを出した。
よろめきながらもそれを受け取った天馬は、嬉しそうに走り出す。
「いっくぞぉ!!」
「行けー、天馬ァ!」突き上げた拳を振り回す水鳥。
フィールドを駆け上がった天馬は向かってきた浜野を軽やかに抜き去った。
「やった!」
葵が小さくベンチの上で跳び跳ねる。
しかし、快進撃はそこまでだった。
「──神童キャプテン」
目の前に立ちはだかった神童に、天馬の目が更に真剣みを帯びる。
神童は天馬を静かに睨めつけ、口を開いた。
「……合格するなんて、本気で言っているのか」
「はい! 俺、入りたいんです。雷門でサッカーがしたいんです!」
迷う間もなく即答した天馬に、神童の表情がにわかに険しくなる。そして彼は、強く足を踏み込んだ。
「ここにサッカーは──ないッ!!」
「うわぁっ!!」
躊躇のないタックルを受けた天馬が、大きく尻餅を突く。
「天馬!」ギョッとした葵が、口許を押さえ悲鳴のような声を上げた。
「何だ、あいつ」
「神サマ……?」
水鳥が顔をしかめ、茜は持っていたカメラをギュッと握り締めて眉根を寄せる。
「意外とラフプレーもするんスね」思わず呟いた依織に、茜がプルプルと首を横に振った。
「ううん。神サマ、いつもはあんなことしない」
「……なるほど」
茜の目は真剣そのもので、不安そうに神童を見つめている。長いこと彼のファンを続けているのだろう。納得した依織は、ボールを受け止めた神童を見やった。
神童は依然として険しい表情で、天馬を睨み付けている。当の天馬は頬にへばりついた泥を拭いながら起き上がり、それでも嬉しそうに笑っていた。
「やっぱり、キャプテンはすごいですね……! 簡単には抜けそうにないや」
──依織は以前、葵から一度聞いたことがあった。
小学校の低学年時代、2人がまだ知り合って間もない頃、サッカー部を作ろうとして失敗に終わったことがあるそうだ。
天馬のサッカーへの執着はその失敗があったのも大きいのだろう。
サッカーは個人競技ではない。仲間がいなければ成立しないものだ。
だからこそ彼は、部活≠ノ拘る。汚れて、転んで、怪我をしても、それでもサッカーがしたい。その気持ちが、天馬を突き動かしている。
「でも、諦めません!」
「……出来るものならやってみろ!!」
「はい!!」
ぼん、とボールが高く蹴り上げられた。
ボールをトラップした受験者たちは次々とドリブルで攻め上がるが、その全てをいとも容易く神童はカットしていく。
少しずつ日が傾いて、気温が下がり始めた。
他の3人の受験者たちの表情には、既に諦めの色が顕著に出てきている。
「何だあいつら、だらしねーの」小さく舌打ちした水鳥に、依織は心の中で同意した。
「合格しようなんて、無理だったのかな……」
やがて、ついに信助がポツリと消えるように呟く。小さな体は砂埃と小傷でボロボロだ。俯く彼の視界に、同じくボロボロになった天馬が走り込んだ。
「まだ終わってないぞ、信助!」
「天馬……でも……」
足元に転がったボールを見つめ、天馬が叫ぶ。
その瞳には、まだ光が灯っていた。
「俺は諦めない! 諦めなければ、何とかなる!!」
「行きます!!」猛った天馬が走り出す。
ドリブルでむかってきた彼に神童はすばやく体勢を変えると、あっという間にボールを奪い取った。
「うわっ! ……っまだまだ!!」
「天馬……」
地面に転がっても直ぐ様跳ね起きる天馬に、葵が心配そうに呟く。
ギュッと唇を噛み締めた信助が、俯かせていた顔を上げた。
「……ったああぁッ!!」
「!」
突然立ち向かってきた信助に、一瞬目を見開いた神童は素早くそれを避ける。
「信助!」勢い余って地面にスライディングした信助に、天馬が慌てて駆け寄った。
「っ僕も諦めない!」
「うん!」
日が傾き、辺りが夕焼けの色に染まり始める。
時間が経つ毎に2人がボールをカットする回数は少しずつ増えていっていたが、それでも神童だけはそれを許さない。
挑んでは倒れ、起き上がりまた挑んでは倒れの繰り返す。
既に2人とも気力だけで動いている。神童がやや強引に天馬を吹き飛ばすと、「天馬!」と葵がたまらず立ち上がった。
「諦める──もんかあああッ!!」
力を振り絞った天馬が、神童から大きくボールを弾く。
天馬が捨て身で高く打ち上げたボールに、神童と信助が跳躍した。
頭ひとつ分、信助の方が高度が高い。
よし! と天馬が声を上げたのが聞こえたのか、歯を食いしばった神童がぐるりと体勢を変えた。
空中で逆さまの状態になり、信助のリフティング寸前にオーバーヘッドキックでボールをカットする。
「あっ!」
「ッ惜しい!」
葵が口を押さえ、水鳥が指を鳴らした。茜は先程から絶えずシャッターを切っている。
地面に降り立った神童は、ボールと天馬たちを見て、そっと目を伏せた。
「……どれほど頑張ろうと、手に入らないものがある」
「まだ……まだです……!」
肩で息をし、よろめく天馬に神童は眉間に深い皺を刻む。苛立つように、悲しむように。彼は絞り出すように言葉を続ける。
「諦めなければ……願いが叶うとでも思っているのか」
「……っはい!!」
立ち上がった天馬が、大きく答えた。
血が滲みそうになるほど唇を噛み締めた神童は、カッと目を見開いて叫ぶ。
「お前は何も分かっていないッ!!」
神童の打ち込んだボールをまともに受けて、天馬が大きく吹き飛んだ。
地面に頽れた天馬に、葵がとうとう顔を両手で覆う。
もう終わりだ、とでも言うように、神童はゆっくりと天馬から視線を外した。
しかし──地面を踏みしめ、再び体を起こし始めた天馬に、彼は目を見開く。
よろよろ立ち上がり、ボールに近寄る天馬を、誰もが驚いた目で見つめていた。
やがてボールに片足を乗せた天馬は、息も絶え絶えに神童を見る。
「っぼ、ボール、とりましたよ……今度こそ、抜いて、みせ──」
言い終えない内に、天馬の体は大きく傾いた。
「天馬!!」ギョッとした信助と辛抱堪らずベンチから離れた葵が、倒れて動かなくなった天馬の元へ駆け寄る。
「……まだやるんスか?」
「──いや」
低く、小さく尋ねた依織に久遠はゆっくりと頭を振ると、再びホイッスルを吹き鳴らした。
「……それまで。入部テスト終了」
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天馬が意識を取り戻すのに、丸々5分は掛かっただろうか。
ベンチに横にされていた天馬が跳ね起き、第一一声が「入部テストは!?」だったのは言うまでもない。
「……起きたか。なら、全員そこへ並べ」
こちらを一瞥した久遠の指示に従い、天馬と信助は顔を見合わせてそちらに向かった。
他の3人は、2人に比べ落ち着いた様子で整列している。余裕すら見えるその表情に、依織は僅かに顔を顰めた。
「──結果を発表する。合格者は……」
依織の隣に座った葵が、険しい表情でギュッと手を握ってきた。その肩を軽く叩いてやりながら、依織もほんの少し緊張を覚えながら久遠の言葉を待つ。
「──松風天馬、西園信助」
「えっ」
名前を呼ばれた2人が、ポカンと口を開ける。神童は怪訝な顔で目を見開いた。
葵がひゅうっと息を吸い込み、痛いほど依織の手を握り締めてくる。
「以上、2名だ」
「なっ──納得行きません! 奴らだけどうして……」
そこで弾かれたように表情を変えた小手川たちが声を荒げて久遠に詰め寄った。同じように拙いプレーを見せた天馬と信助が合格したことに納得が行かないのだろう。
しかし久遠は何も言わず、ただ黙って彼らを見下ろすだけだ。見ようによっては、睨み付けているようにも見える。
ぐっ、と唸った三人は舌打ちして踵を返した。
「──くそっ、楽勝だと思ったのに」
「こっちから願い下げだ!」
捨て台詞を吐き立ち去った3人に、何よアレ、と葵が顔を顰める。
一方、呆然としていた天馬と信助は、顔を見合わせ互いの頬を思いっきり抓った。
「いってーーーー!!」
当然ながら、両者から悲鳴が上がる。
しかし2人は頬を腫らして、顔を輝かせた。
「ってことは……」
「夢じゃないんだ!!」
「やったー!」飛び上がって喜ぶ2人に、葵が依織を引っ張って駆け寄る。
「おめでとう、天馬、信助!」
「うん!」
「ホント、無茶しやがってさぁ……ボロボロじゃんか」
誉める意も込めて天馬の背中を叩くと、天馬は思い切り膝から崩れ落ちた。どうやら体は既に限界だったようだ。
「おいおい、大丈夫かよ」
「あ、あはは……」
助け起こした依織に苦笑を浮かべ、膝の泥を払った天馬は信助と視線を交わすと、部員たちへ向き直る。
「松風天馬です!」
「西園信助です!」
「よろしくお願いします!!」
「ああ、よろしくな!」頭を下げた2人に快く笑顔をみせたのは、キーパーである三国だ。
他の部員たちは、複雑そうな表情を浮かべるなり少しだけ微笑むなり無表情なり、それぞれである。
「……部活のことは、明日追って説明する。今日は帰って疲れを取るように」
「はい! ありがとうございます!」
そう告げて立ち去った久遠の後を、慌てて神童が追いかけていく。
それを視界に入れながら、依織は明日から始まる部活に思いを馳せてはしゃぐ2人に目をやった。
これが天馬たち、ひいては葵にとってのスタートだ。
ここから先、きっと彼らは辛い現実を見ることになる。激しい戦いに身を投じることになる。
「(ようこそ戦場へ、ってか)」
グラウンドをゆっくりと吹き抜けた風が、彼女の髪を浚っていった。