困惑と驚きに満ちたその瞳を捉えた瞬間、不覚にも泣きそうな気持ちになった。
その始まりが何であったか、弟はもう覚えていないかもしれない。
けれど、優一には微かにだがその記憶が残っている。
あれはもう9年近く前のことだっただろうか。
京介と遊んであげて、と母の頼みを聞いて弟を家から連れ出した優一は、よく近所の大きな公園に赴いていた。
やんちゃ盛りではあるが、兄や両親の言うことを良く聞く素直な子供でもあった弟の面倒を見るのはさして難しい問題ではない。何より、優一は自分を慕い雛のようについて回る弟の世話を焼いてやるのが好きだった。
そんな日々が続いていたある日のことである。
「──京介? どうかしたのか」
砂場で遊んでいた弟が突然ある方向を向いたまま動かなくなったので、優一は目に砂でも入ったのか、と直ぐ様水道を探そうと辺りを見回した。
けれど京介はううん、と首を振って、視線を一点に留めたまま言う。
「あのこ」
「あの子……?」
そう指差したのは、少し離れたベンチにぽつりと座っている京介と同じ年頃の小さな少女だった。
その隣には、母親だろうか。時おり少女に話しかける女性が腰掛けている。
けれど少女の表情は優れず、母親と思しき女性の話に相槌を打ってはいるようだがどこか上の空の様子だ。
「あの女の子がどうかしたのか?」
「あのこ、いつもああやってひとりでいるんだよ。つまんなくないのかな」
いつも、と弟は言った。優一が彼女の存在に気付いたのはこれが初めてだったが、弟は前々からあの少女のことを気にかけていたらしい。
少し考え、優一は弟に優しく笑いかけた。
「じゃあ、一緒に遊ぼうって誘ってみたら?」
「……! うんっ!」
兄の提案に頷くや否や、京介は勢いよく立ち上がりその少女の元へ走っていく。
それから一言二言言葉を交わしたのだろうか、ものの5分もしない内に、京介は彼女の手を引き砂場まで戻ってきた。
「ほら、こっちこっち!」
「こら京介、そんなに急ぐと転んじゃうぞ。……えっと、はじめまして。君、名前は?」
しゃがみ込み目線を合わせると、彼女は少し照れたようにそっぽを向き、ややあって正面からこちらに向き直りこう名乗った。
依織、と。
「──え? あそこにいるの、お母さんじゃないの」
「うん、マチコさん。かせいふ、っていうひとなんだって」
出会いから2週間、剣城兄弟が大分依織と仲が良くなって来た頃のこと。
依織のおかあさん、いつもあそこでまってるよな──と言う京介の疑問に返ってきた答えは、兄弟にとって予想外のものだった。
「じゃあ、おかあさんはどこにいるんだよ」
「京介……」
「とおいとこ。おそらにいるから、もう会えないの」
さく、とプラスチックのスコップが砂のトンネルを開通させる。
そっか、と呟いた京介は、兄の心配そうな表情には気付かずに続けた。
「さみしいな」
「うん。でもね……いまは、きょうすけとゆういちおにいちゃんがいるから、ほんのちょっぴりしかさみしくないの」
笑みを向け答えた依織にぱちくりとまばたきした京介は、『今の聞いた?』と言わんばかりに目を輝かせて兄の方を見る。
笑顔で小さく頷いた優一に、京介は良いことを思い付いたとばかりに更に嬉しそうに笑った。
「だったらさ、依織! おれとけっこんすればいいじゃん!」
「え?」
「えっ」
弟の口から飛び出した思わぬ言葉に、優一は思わず目を丸くした。けっこん、とキョトンとする依織に、京介は自信満々な様子で頷く。
「おれとけっこんしたら、にいちゃんが依織のにいちゃんにもなれるし、おれたちずっといっしょにいられるだろ? ね、にいちゃん!」
「え? あ、ああうん、そうだな」
いつの間にそんな知識を蓄えたのだろうか、と優一が困惑を交えつつも曖昧に頷くと、「ほら!」と京介は依織を見返した。
「だから依織、おれのおよめさんになれよ! そしたらさみしくないだろ?」
「……きょうすけのおよめさん?」
「そう。……いやなのか?」
そこで弟は少ししょんぼりとした声になった。優一がハラハラしながら事の成り行きを見守る中、依織はポッと丸い頬を薔薇色にして笑顔で頷く。
「うん……わたし、おおきくなったらきょうすけのおよめさんになる!」
「やった! じゃあきまりな!」
指切りげんまん、と幼い2人の拙い歌が砂場に響く。周囲にもそのやり取りが聞こえたのだろう、赤ん坊連れの母親たちが、こちらを見てニコニコと笑っている。
優一はその様子に気恥ずかしさを覚えはしたが、弟たちの可愛らしい約束に立ち会ったことが何故だか嬉しかった。
尚、このエピソードが数年経っても定期的に剣城家を賑わす鉄板ネタになるなど、当時の京介は思いもしなかっただろうが。
いつか、大人になったら結婚する。
子供同士の他愛ない口約束ではあったが、優一は漠然とその約束が果たされるように感じていた。
白いタキシードに身を包んだ弟の隣に、美しく成長したドレス姿の依織が並ぶ。きっと何よりも輝かしい光景になるだろう。
そんな未来を、願っていた。
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:
「……入院?」
「うん……」
それから数年が経ったある日のことだった。
学校から戻ってくるなり弟は随分としょげ返っていて、理由を問いただした優一は怪訝そうに眉根を寄せる。
聞くに、依織が病気でしばらく入院することになってしまったらしい。
彼女が入院すること自体はこれが初めてではない。小さな頃から定期的に体調を崩しては数日入院するのはよくあることで、依織も自身の体の弱さを嫌と言うほど自覚していたのを兄弟は知っている。
けれど、いつ退院出来るか分からない、と言うのはこれが初めてのことだった。
「そうか……心配だな」
「うん……」
小学校に入学してから、それぞれ友達が増えたためか依織と京介が話す回数はグッと減っていた。
けれどそれは学校だけの話で、放課後はよく互いの家に遊びに行っていることを優一は知っている。同級生の中には2人の仲をからかう子供もいたようだが、幸いなことに京介も依織もそれしきのことで相手を突き放すような精神力はしておらず、相変わらずの仲の良さを貫いていた。
閑話休題。
京介は俯きがちに兄に言う。
「あの、兄さん……」
「分かってるよ、お見舞いに行きたいんだろ?」
貯金箱を握り締めた弟に、「花も買っていこうか」と優一は苦笑した。
「京介、優一お兄ちゃん。来てくれたの?」
病室の白いベッドに収まった依織は、思いの外元気そうだった。それまでぼんやりと読むでもなくただ眺めていただけだったらしい雑誌を伏せ、依織は笑顔で2人を出迎える。
「やぁ、依織ちゃん。具合はどう?」
「全然平気。最近気温の差が激しいから体調を崩したんだろうって先生には言われたんだけど」
「絶対大袈裟に言ってるよね?」とは呆れたように肩を竦める依織に、優一は内心ホッとした。入院期間が分からないと聞いて、まさか重い病気に掛かったのではと心配していたのだ。
そこで依織は、ところで、と話を切り替える。
「京介、何でそんなこそこそしてんの?」
「こ、こそこそなんか……」
半身を兄の後ろに隠すようにしていた京介が、依織の言葉を受け居心地悪そうに顔をしかめた。
大方自分と同じような心配をしていたのだろう──弟の考えを読んだ優一は、小さく笑って促すようにその肩を叩く。
「……依織、これ」
「え? わぁ、どうしたのこれ!」
「お、お見舞いに……」
慣れないことをしている自覚があるのだろう、京介は照れ隠しにつっけんどんな態度を取っていたが、依織はそんなことはお構いなしだった。
子供2人がお小遣いを出し合い買った小さな花束は、簡素ながら依織を喜ばすには十分足りたようである。
「あ、あのさ……俺、毎日花持って見舞いに来てやるから! だから早く退院しろよな!」
「毎日はいらないよ、病室が花で埋まっちゃう」
たまにタンポポを摘んでくるくらいでも十分嬉しいよ。
そう言って依織は満足そうに笑った。
──今思えば、あの時点で彼女は自分の運命を悟っていたのではないだろうかと思う。
それを確認する術は、2つの意味でもう無いのだけれど。
それから京介は、宣言通り──花は流石にもう買わなかったが、ほぼ毎日依織の見舞いに赴いた。
時おり手土産に持ってくる野花は病院に缶詰された依織にとっても外の様子を知るための重要なツールと化し、京介も次は何を持っていってやろうかと一人図鑑を開いてうんうんと迷っていたことを優一は知っている。
そして、彼女が入院して1年近くが経とうとしたある日。
「ねぇ、京介。小さい頃にした約束、覚えてる?」
いつものように依織の見舞いにやって来た優一は、扉越しに聞こえてきた声についノックしようと伸ばした手を止める。
どうやら京介は既に病室に入っているらしい。優一は若干の悪戯心と罪悪感を覚えつつ、そっと音を立てないように扉の隙間を開けて中を窺うと、ベッド際に置いた椅子に腰かけた弟の背中が見えた。
「約束……?」
「そう。大人になったら、私をお嫁さんにしてくれる約束」
恥じらいもせず、楽しそうに言った依織に京介は少なからず動揺したらしい。ガタガタと椅子を鳴らし、京介は背中を丸める。
「おっ、覚えてねーよ……そんな小さい頃の話」
「ええ? ひっどいなぁ、京介から振ってきた話だったのに」
嘘だな。と、優一は瞬時に思う。弟は記憶力が良いのだ。その上、幼い頃から大事にしている依織との約束を忘れるはずがない。単純に気恥ずかしいから忘れた振りをしているだけだろう。
そして依織も恐らくそれを分かっている。ひどい、と言いながらもこれっぽっちも傷付いていなさそうな声に、優一は思わず苦笑する。
「……でもまぁ、忘れてるならそれで良いや。そのまま、……本当に、忘れて良いよ」
「は?」
何だよそれ、と若干荒らげられた声を、扉がガラリと開く大きな音が遮る。優一は驚いて振り返った2人に、にっこりと微笑み掛けた。
「──ごめん、少し部活が長引いてさ。2人とも、喧嘩してないかい?」
「ぜーんぜん。いつも通りの仲。ね、京介?」
依織がそう答えて小首を傾げれば、京介はどこか拗ねたようにそっぽを向く。
ふと優一がサイドボードを一瞥すると、そこには黒と白の混じった小さな粒がぱらぱらと散乱していた。
「依織ちゃん、それは……?」
「ああ、これ? 京介が持ってきてくれた向日葵の種」
「今日、学校で貰ったんだよ」
答え、細い指が種を一粒摘まむ。
その五指の繋がる手も腕も、この1年で随分と細くなってしまった。
日の下に出る機会の減った頬がすっかり色白くなってしまったのに対し、唇だけがいやに血色が良い。
あんまり顔色が悪いと京介が心配するから。そう言って依織が家政婦に頼み、色つきの薬用リップを買ってきてもらった場面に遭遇したことは記憶に新しい。
「今度元気な日に、看護婦さんにお願いして一緒に中庭に植えるんだ」
「……早く退院して、家の庭にでも植えれば良いだろ」
低い声でぼやくように言った京介に、依織は「それもそうだね」と軽やかに笑う。
けれど結局、その向日葵の種はどこの庭に植えられることもなく。
──そこからの記憶は混濁している。
小さな箱、サッカーボール、俯いた弟の横顔、立ち去っていく寂しげな後ろ姿、握り締められた花の種。そんな記憶の端々が断ち切られたフィルムのように混在しているのだ。
きっとこれが、自分がバグ≠ゥら生まれた所以なのだと優一は思っている。
入り交じった記憶はどれも本物ではない。それを知ったとき絶望もしたが、それ以上に安心した。
本物の弟と彼女は今も2人並んで存在している。出会いの経緯こそ違うようだが、離別もせず、先に延びていく未来まで。
その為に偽りの存在である自分が消えなければならないと言うなら、拒否する理由はない。
勿論存在しなくなるという恐怖がないわけではないが、あくまで今までの記憶がなくなるだけ。本当の優一に戻るだけだ。
「(まさか、あの子とサッカー出来る日が来るなんて思いもしなかった)」
光に包まれる視界で、目を見開いた依織が自分を見つめているのが分かる。
力強くサッカーをする姿は、優一の記憶には存在しなかったもの。本来の彼女そのものだ。
──後悔はない。きっと本来の世界で、今度こそ自分の夢見た未来が叶うと信じているから。
笑みを湛えた優一は、そっとそこで瞼を閉じた。
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そよぐ風に瞼を開けると、白いカーテンが小さく揺れていた。どうやら窓を閉め忘れていたらしい。
「いつの間に寝てたんだろう、俺……」
小さく独り言ちて目を擦る。軽く体を伸ばすと、爪先が僅かに痺れた。
優一は担当医が予想していたよりも早い期間で体力をつけ、海外での手術を無事終わらせた。長らく世話になっているこの病室に戻ってきてから約2週間が経つ。
何年もまともに動くことのなかった足も、リハビリの甲斐あって少しずつだが自力で動かせるようになってきた。リハビリの後は毎回疲れきって泥のように眠ってしまうのが難点だが、それも必要なことだろう。
何となく膝を撫でていると、ふと病室にノックの音が響く。
はい、と答えると、開いた扉から弟が顔を覗かせた。
「兄さん、具合はどう?」
「ああ、良い調子だよ」
答えると、引き締まっていた弟の頬が小さく緩む。そして彼はふと自分の後ろを見て、「何こそこそしてるんだ」と首を傾げた。
すると、その言葉を受けてか弟の背中の陰から見慣れた少女が顔を出す。
「依織ちゃん! いつの間に帰ってきてたんだ?」
「つい最近……お久しぶりです、優一さん」
そう言って、彼女はどこかぎこちなく微笑んだ。
久しぶりに会うから、緊張でもしているのだろうか──優一はそう思ったが、ふいに胸につっかえた違和感に目を瞬いた。
「? どうかしたのか、兄さん」
「いや……依織ちゃんと会うのは2か月ぶりの筈なんだけど、何でかな……あまり、久しぶりって感じがしないんだ」
どうしてだろう、と首を捻った優一に、依織は一瞬だけ目を見開いて。
「……奇遇ですね。私もですよ」
──そう言って、眉をくしゃりと拉げて笑った。