晴れやかな空に鳩が飛び交う。
それはいつもの日々と同じ平和な光景だったが、それを見上げる依織の表情は優れなかった。
本日、日曜日──天馬たちの、初試合の日である。
「はぁぁ……」
栄都≠ニ大きく記された校門を見て、依織は大きな溜め息を吐いた。
既に観客は集まっているようで、確かにスタジアムのある方向からざわめきが微かに聞こえてきている。
このご時世、中学校にはサッカースタジアムが完備されているのが基本だが、その8割が八百長の現場になっていることなど観客たちは知る由もないのだろう。
「……とりあえず……行くか」
ショルダーバッグのベルトを肩に掛け直し、気乗りしないまま依織はスタジアムへ向かった。
歩を進めるにつれ、ざわめきが大きくなる。公式の試合ではないからチケットの購入は必要ないが、この調子では空席があるかどうかも怪しいだろう。
観客席への階段を上がる途中で、高らかにホイッスルの音が聞こえてきた。
どうやら試合開始には間に合わなかったようだ。「あ、ヤベッ」小さく呟き、階段を駆け上がる。
「っと──」
パッと差し込んだ光に、依織は思わず視界を手のひらで遮った。
目が慣れてくると、青々としたフィールドが眼下に広がる。その中で、黄色と青のユニフォームを纏った雷門の選手たちが、栄都陣内へ切り込んでいくのが見えた。
「(勝敗指示は確か3対0……しばらく互角の状態を保つ気か)」
そういう演技≠しなければ、観客の中にも違和感が生まれる。
嘘で塗り固められた勝利と、実力を押し殺した敗北。それを強いられる選手に、観客は気付かない。
「……天馬、信助」
小さく呟いて、依織はフィールドを走る天馬と信助を見つめた。まだ緊張が抜けていないのか、少しギクシャクとした走り方に見える。
久遠から電話を貰った次の日の昼、やはり天馬は嬉々として今日のことを伝えに来た。
『ずぅっと憧れだった雷門で、やっとサッカーが出来るんだ……! 依織、絶対観に来てよね!』
──そんな風に、嬉しさを隠さずに熱く語っていた天馬に、いつものように軽口が叩けていたかを依織はよく覚えていない。
天馬も葵も、まだ知り合って間もないが信助だって依織の大切な友達だ。悲しむところは、見たくない。
「(……非情だよなぁ、ホント)」
戦局が変わり始めた。
雷門の動きが少しずつ鈍くなり、栄都イレブンが水を得た魚のように生き生きとし始める。
観客席の1番上からでは選手たちの声はよく聞こえないが、電子式のスコアボードの下に、フィールドの選手たちを拡大して映す画面があった。
そこに映る雷門イレブンたちは、一様に──どこか、生気を失った目をしている。
「ちっ」
何に腹が立ったかも分からないまま、依織は小さく舌を打った。
人の嘘≠ェ見抜ける目。彼女がホーリーロードでの試合がおかしいと感じたのも、この目のお陰だ。
試合をしている選手たちの目は、いつだって輝いているものだ。
優勢に立つ選手の目は確かな勝利を得るために輝き、劣勢に立つ選手たちの目は逆転の隙を伺い炎を灯している。
しかし、ホーリーロードで仕組まれた試合に組み込まれた選手たちの目は違う。怒り、悲しみ、悔しさ、諦め。戦いに魂を燃やす人間の目ではない。かつて彼らの愛したサッカーはそこにない。
だからこそ早く、なんとかしなくちゃならないのに──
『ゴォールッ!! 先制は栄都学園で決まったァ!!』
テンションの高い実況の絶叫に、依織は飛びかけた意識をハッと戻した。
スコアボードの点が1対0になっている。我に返った依織は、改めて食い入るようにフィールドを見つめた。本当はこんな試合は見たくないが、友達の初試合なら仕方ない──そんな表情が浮かんでくる。
「──つまんなそうな顔してるな、お前」
「え」
不意に隣から聞こえてきた声に、依織は目を丸くして振り向いた。
ラフな服装、オレンジのバンダナ。そんな出で立ちの──歳は20代前半に見える──男が、顔だけこちらに向けて手すりにもたれ掛かっている。
「……あ、いや。俺、別にアヤシイ大人とかじゃないからな!」
「はぁ……」
依織の訝しげな視線をどう受け取ったのか、男は慌てたように付け足した。
ふぅ、と息を落ち着けた彼は、顔をフィールドに戻して続ける。
「サッカー、好きだから観に来てるんだよな?」
「……そうっすね。サッカーは、好きです。やるのも観るのも。……でも」
この試合は嫌いです。小さく言うと、男は少し驚いたように目をしばたいた。
そうか、と笑顔で返した彼は、再び視線を戻す。
「……これが、今の雷門なんだな」
「?」
ぼそりと呟いた男を、依織は横目で窺った。
随分と物憂げな声だ。何か、噛み締めているような──とその目をどうにか覗き込もうとした時、依織は違和感に気付いた。
「(……あれ?)」
記憶に引っ掛かる何かに、依織は眉根を寄せる。
隣にいるこの男に、どうも見覚えがある気がしたのだ。
「(誰だっけ……知り合い、ではないし……テレビ、雑誌……?)」
その瞬間、脳内の電球に光が点る。
先日、太陽の見舞いに行ったときに読んだサッカー雑誌が頭に浮かんだ。
「お兄さんもしかして、円ど──」
「!! しーっ、しぃーー!!」
途端、分かり易く焦り始めた彼は、依織の言葉を遮り口に人差し指を添えて冷や汗を掻く。
やっぱりそうなんだ、と依織が納得する一方で、彼は辺りを見回した。観客たちは試合に夢中で、こちらのことなど目も止めていない。男──円堂守は、ホッと胸を撫で下ろす。
「怪我で帰国したとか雑誌に書いてましたけど……」
「ああ、うん。左手を少しな。まぁ日常生活に支障はないから」
円堂守。10年前、フットボールフロンティアインターナショナルで優勝したイナズマジャパンのキャプテンであり、廃れた雷門サッカー部を復活させた張本人だ。
「それで──何だってあなたみたいな有名人がこんな練習試合に」
「んー?」
前半が終わり、ホイッスルが鳴らされる。
円堂はこちらを見て、ニッコリ笑った。
「一度、見ておきたかったからな。今の雷門を」
「…………」
依織は僅かに顔をしかめる。
彼は今の中学サッカー界の現状を知っているのだろうか。今フィールドにいる後輩たちが、今も悔しさを隠してサッカーをプレーしていることも。
「──だから、この試合を見て余計に思うよ。早くなんとかしてやらなきゃ、って」
円堂は、ギュッと手すりを握りしめた。
依織は少し目を見開き、彼の横顔を見つめる。
円堂の目は、未来を見据えていた。
「……あなたは──」
知ってるんですね、と。
確信めいた依織の問いかけは、後半開始のホイッスルの音に掻き消された。
フィールドは再び戦場になる。その中で1人、ポジションから動かない選手がいることに気付き、依織は目を見張った。
「天馬……?」
「うん?」
フィールドの中盤で、天馬は固まっている。
信助が声をかけたようだが、動かない。
「(──気付いたのか、天馬)」
この試合が初めから仕組まれていることを。今のサッカー界のシステムを。
だとしたら、彼は今何を思っているのだろうか。
雷門陣内へ、栄都イレブンが攻め込む。
相手FWのタックルに、天馬は弾き飛ばされ尻餅を突いた。
そのまま栄都のシュートが雷門のゴールを襲う。
画面に拡大された三国が写り、彼の顔が悔しそうに歪んだ。
『ゴォール! 栄都学園、3点目を決めたー!!』
実況の声が空気をウワンと波打たせる。
勝敗指示に追い付いた。きっとここからはまた互角の勝負に見えるように戦うのだろう。
──それが何より、腹立たしい。
「(くそ……)」
隣に円堂がいなければ、手すりを殴り付けていただろう。そんな依織を、円堂は静かに一瞥する。
あと少しで後半が終わる──その時だった。
彼≠ェ走り出したのは。