17

暗闇の中、デスクに置いたタブレットがメールの着信を知らせてランプを点滅させる。
それを見てメールの受信画面を開いたタブレットの主は、ツイと画面をスライドさせて文面に目を通す。そうして一通り内容を頭に入れた彼女は、そのメールに短い質素な返信を送った。

『了解しました。手筈の通りに実行します』




試合から一夜明け、月曜日。
依織はゆっくりと、少しだけ重たい足取りで通学路を歩いていた。思い出すのは、昨日の帰り道──久遠と電話で交わした会話である。

『私は、雷門を離れることになった』

通話に応じるなり、そう切り出してきた久遠に、依織はさして驚かなかった。
元々理事長たちから散々煙たがられていた彼である。あの試合を機に彼らが久遠を雷門から追い出そうと考えたことは明白だ。

問題は後任の監督だ。
協力者たちが情報を操作してフィフスセクターからの後任を違う人間に登録したことは知っているが、それを誰にしたかまでは依織は聞いていなかったのである。

「(んで、聞いても明日分かる≠フ一点張りだもんな……)」

久遠が言葉少なな人物だということは十分理解していたつもりだが、だからといって言っておいた方が良いことだってあるだろう──苦々しい顔で、依織はひとつ溜め息を吐いた。

閑話休題。
とにかく、今日から雷門には新しい監督が来る。昨日の今日だから、天馬たちの耳にもその話は届いているだろう。
と、そこで校門を潜った依織は、「おっ」と視線を変えた。

「噂をすれば、ってか」

グラウンドに、朝練中の雷門イレブンの姿が見える。
そう言えば昨日先輩たちに喧嘩売っちまったな、まぁ良いか──なんてことをチラリと考えて、依織はベンチへ近寄った。

「あーおいっ」
「わっ!? ……あ、依織。もう、驚かせないでよ」

ごめんごめん、と軽い調子で詫びる友人に、葵は小さく溜め息を吐く。
依織の姿を見つけ、水鳥が長いスカートを靡かせこちらへやって来た。

「よぅ、どうした依織。情けないサッカー部は見たくなかったんじゃないのかー?」

嫌味ではなく、単にからかうような口調で水鳥は依織の肩を叩く。
依織は少し痛そうに顔をしかめながらも、「ただの見学ですよ」と返した。

「……チッ」

ふと、刺すような視線を感じて顔を上げると、不愉快そうに舌打ちした倉間と目が合う。
倉間はふいと視線を背けると、速水や浜野の元へ駆けて行った。

「──んだよ、あの1年。昨日あんなこと言ってきたくせに、堂々とベンチに座りやがって」
「まぁまぁ。別にいいんじゃねーの、特に邪魔してるわけでもないし」

依織に剥き出しの敵意を向けている倉間に対し、浜野は穏やかである。
昨日の彼女の言葉が、刺はあれど真実だと割りきっているからかもしれない。速水は大きな白ぶちの眼鏡を世話しなく持ち上げ、ちらちらと依織を窺っている。

「あの……彼女、もしかして2人目のシードってことはありませんよね?」
「はぁ?」

そんなことを言い出した速水に、倉間はすこぶる嫌そうに声を上げた。
浜野は少し目を丸くして、「何でそう思うのさ」と尋ねている。

「何でって、そりゃあ昨日の件もあるんですけど……俺、1回見たことあるんですよ」
「見たって、何を」
「彼女が、……つ、剣城くんにちょっかいをかけているところをです」

速水は恐る恐る、神妙な顔で答えた。
倉間と浜野は顔を合わせ、複雑そうな表情をする。

「……同じクラスなんじゃねーの?」
「ででででも、入学初日にあんな騒ぎを起こした剣城くんに一介の女子が絡めるとは思えません!」
「それは、まぁ…」

いたらそれは余程の勇者か、単なる馬鹿かといったところか。
当の依織は、ベンチでのんびりとマネージャーたちと喋っている。

「──そういや、あの人……キャプテンは?」
「神サマ、今日はお休み……」

尋ねた依織に答えたのは、声のトーンを落とした茜だ。愛用のピンク色のカメラを撫でながら、彼女は物憂げに溜め息を吐いた。

「昨日の試合終わってから、神サマずっと元気なかった……」
「……ああ」

確かに控え室から出てきた神童は、端から見ても明らかに意気消沈としていた。
あの時、天馬のパスに応えたことがフィフスセクターの指示に逆らい、学校を廃校の危機に晒してしまったという罪悪感が、余程精神に来たのだろう。
おまけに監督までいなくなっちまってよぅ、と大きく息を吐いた水鳥が、足を組み変えた。

「──ねぇ、依織」
「うん?」

ふいに、葵が窺うような声色で名前を呼ぶ。
そちらを振り向くと、葵は不安そうな表情で依織を見つめていた。

「依織は……知ってるの? その、フィフスセクターのこと…色々」
「…………」

にわかに明らかになった首筋の視線を感じながら、依織は目を細めた。誰がこちらを見ているかなど、振り向かなくても分かる。
剣城は、テクニカルエリアから少し離れた場所に佇んでいた。依織が来るよりも早くそこにいたのは、名目上部員として──シードの任務であるサッカー部の監視をする為だろう。

剣城はどうやら、昨日の一件で依織を敵と見なしたようだった。
多分、教室で挨拶しようがちょっかいを掛けようが、もう反応してくれないだろう。
つまんねーの。心の中で舌打ちし、依織は声を落として葵にそっと言った。

「……さて、どうだろう?」
「もう、依織! 私は真剣なのよ」

唇を尖らせた葵を宥めながら、依織は視線を変える。
マネージャーたちから少し離れた場所に座っている春奈は、我関せずといった風にこちらを見ない。

学校では身内と言うことはしばらく内緒にしておいてほしい──そう頼んだのは、依織本人だった。
頼みを聞いた以上、それを反故にするわけにはいかない。しかしやはり気になることはあるのだろう、ちらちらと依織の方に視線を送っている。
その時、丁度天馬と信助がボールの入った籠を押してベンチに戻ってくる。天馬は依織に気がつくなり、あれっと声を上げた。

「依織、何でここに?」
「別に? ただの見学っつーか、暇潰し」

ひらひらと手を振り答えると、天馬はいまいち納得いかないように首を捻る(声が聞こえたらしい倉間がギロリと彼女を睨んだ)。
休憩時間に差し掛かったのか、次々と戻ってくるイレブンに、葵と茜がジャグを抱えて立ち上がった。

「ん、どうした依織。行くのか?」
「はい」

ゆっくりと腰を上げた依織に、水鳥が小首を傾げる。
小さく答えた依織は春奈に軽く会釈をすると、剣城のすぐ脇を通って階段を登っていった。
鋭い視線が、最後まで突き刺さる。

「……つまんねーの」

今度は口に出して呟き、依織は校舎へ向かった。目的地は職員室だ。




「(久遠さんの机って、どの辺だったかな)」

職員室を覗き込み、依織は室内を見回す。
この時間帯ならすでに、新しい監督が入っているはずだ。それなら久遠の机に新監督の荷物なりなんなり置いてあると踏んだのだが、肝心の久遠の机がわからない。
そう言えば、入学してから一度も職員室に入ったことなかった──凡ミスに舌打ちした時である。

「職員室に何か用か?」
「うわっ」

ぽん、と背後から肩を叩かれ、依織は飛び上がった。
見つかった!──反射的に苦い顔になりながら振り返った依織は、次の瞬間目を丸くした。

「あ、え……円堂、さん?」
「ん? ……あれっ? お前、昨日試合観に来てたヤツか?」

「雷門生だったんだな!」目をしばたいた彼は、ニカッと笑う。
そこには、昨日観客席で知り合った円堂守が立っていた。

「円堂さん、何でここに……」
「ああ。俺、今日からここのサッカー部の監督になったんだ」

うっかり上げそうになったらしくない大きな声を、依織は寸でのところで飲み込む。
まさか、話にあった後任は円堂だったと言うのか。良い人選だと言えば確かに否定はしないが、作戦が上手くいったか確かめるようにと頼まれてもいる。
依織は顎に手をやりながら、職員室から背を背けた。

「──そうだったんすか、頑張って下さい。じゃあ、私はこれで……」
「おう。……あっ、そうだ。聞くの忘れてた」

「お前、名前は?」遠ざかる依織の背中に、円堂は大きな声で尋ねる。

「鷹栖依織です!」

頭だけ振り返った依織は、そのまま3階へ続く階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。
人がいないことを確認し、3階に辿り着いた依織はそっと理事長室の扉に耳をくっつける。

「どういうことですか!」

途端、ドンと何か叩いたような激しい音に、依織は思わず身を竦めた。
どうやら、金山理事長が机を叩いたらしい。

「送られてきた監督のデータと違うなんて……」
「は、はい。今、確認を取っています」

少し慌てたような声で、冬海校長が答える。
すぐ後に小さく携帯の着信音がしたかと思うと、少し間を空けて「えっ!?」と彼がしどろもどろし始めたのが分かった。

「……円堂守の監督就任は、正式に承認されたそうです……」
「何ですと!?」

ドン、と再び机を叩く音。一方で依織は、小さくガッツポーズする。作戦の第一段階は、滞ることなく成功したのだ。

「あいつが監督なんて……フィフスセクターが派遣するような男とは思えませんが。どういたしましょうか?」
「どうもするも何も、フィフスセクターが承認したんです。従うしかないでしょう」

苦々しく呟き、金山が溜息を吐いたのが聞こえる。
それにしても聖帝は何をお考えなのか──金山の嘆きを最後に、依織は聞き耳を止める。誰もいない屋上へ足早に向かいながら、彼女は携帯を取り出した。

ワンコール、ツーコール。
3回目の音が鳴る前に、電話が繋がる。

『──やぁ、鷹栖くん。作戦の方はどうだい』
「完璧でしたよ。無事に、円堂さんがフィフスセクターに承認されたみたいです」

それは良かった。電話の相手は、ほっとしたように溜め息を吐いた。

『……ああ、そうだ。ちょっと電話を変わるよ』
「はい?」

遠ざかる声に、依織は首を傾げる。
数秒開け、聞こえたきたのは低い嗄れ声だった。

『──もしもし、俺だ』
「……! お久し振りです、響木さん」

反射的に、彼女は姿勢を正す。
「そう固くなるな」カラカラと笑った響木は、一転して真面目な声で言った。

『これから、お前も本格的に忙しくなるぞ。久遠からの伝言は聞いてるな?』
「伝言……ああ、明日、目金さんの所に行く件ですか」

電話の向こうで響木が頷いた気がする。
依織は、目金の元で何をすれば良いのか結局久遠から聞かずじまいだったことを思い出した。

『久遠も今夜から合流することになっている。鷹栖、お前もしっかりやれよ』
「いえっさー、響木さん」

ぷつり──糸が切れたように、声は聞こえなくなる。
携帯をポケットに突っ込んだ次の瞬間、ホームルームの開始を告げる余鈴が鳴り響いた。