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「あ──あれ?」

巻き上がる土埃に身を隠し、パーフェクトカスケイドとの戦闘から離脱した天馬たちは、ハタと異変に気付いた。
先程までボコボコとした岩山の間を縫うようにして逃げていたはずなのに、瞬きの間に切り立った崖の亀裂になっている部分に立っていたのだ。

「こ、これは……」
「ほっほ、危ないところじゃったの」

困惑しながら辺りを見回していると、視界の端に先程までいなかったはずのアルノが唐突に現れる。

「アルノ博士が転移させてくれたんですね」
「あのまま走り続けたところで、逃げ切れないのは目に見えておったからのう」

このまま道なりに進めばトーブたちの住居の近くじゃ、と指差された方向を見てみると、岩壁に挟まれて細く青空が見えた。

「ありがとうございます、アルノ博士……あれ」

ホッとしながら神童が礼を言う頃には、既に彼の姿は影も残っていなかった。いい加減この展開にも慣れてきたとは言え、いなくなる前に一言掛けてくれても良いのに、と霧野がやれやれとかぶりを振る。

「あの……とりあえず広いとこに出ません……?」

絞り出すような声で提案するのは依織である。先程から錦に米俵よろしく肩に担がれていた彼女は、すっかりグロッキーになっていた。






「んっ……! つ、剣城、もうちょっと優しく……」
「わ、悪い。じゃあ、こう……」
「……いだだだだだ!」

ギチギチと音を立てて、依織に巻き付いたワイヤーが時間を掛け力尽くで解かれる。
くっきりと後の残る手足を擦る彼女を横目に、信助が溜息交じりに呟いた。

「それにしても、危なかったね。アルノ博士が助けてくれなかったら、あのままマインドコントロールを受けてたかも……」
「ワシら化身使いには、マインドコントロールは効かないんじゃなかったがか?」

首を傾げる錦に、そうとは限らない、とない首を横に振るのはワンダバである。

「ヤツらも生半可なマインドコントロール波は化身使いに効かないことはもう分かっている筈だからな。その上で仕掛けてきたと言うことは……」
「化身使いも洗脳できるほど、強化されたマインドコントロール波を放つつもりだった……てことだろうね」

深刻そうな顔でワンダバの話の続きを引き継いだフェイに、ひえ、と信助は震え上がった。大差を付けて敗北を喫され、依織も捕まりかけ、今回は正真正銘の崖っぷちに立たされていたのだ。

「パーフェクトカスケイド……あんなに差を着けられるなんて」
「やっぱり無理なのかな、あんな奴らと戦うなんて……」
「いーや! オラは燃えてきたぞ!!」

ぽつぽつと漏れる弱音を掻き消すように、トーブが大きな声を上げる。俯いていた天馬たちは、驚いてそちらを見た。

「あんなつえーヤツら倒せたら、すげーウホウホだと思うんだ。な、天馬! オラもっともっと強くなりてえ! そんでぜってー勝つぞ、あいつらに!」
「トーブ……」

あんなに歯が立たなかったのに、トーブは全くへこたれている様子がない。
勿論、まだサッカーに対する知識が最低限しかないからこそというのはあるだろう。けれど天馬たちは、トーブの諦めない姿勢に感銘を受けていた。

「あの気持ち、俺たちも見習わないとな」

笑みを浮かべて言う神童に、天馬はぐっと拳を握り締める。

「そうだよ……パーフェクトカスケイドに勝てなきゃ、サッカーは取り戻せないんだ。ここで諦めるもんか!」
「それに、まだ8番目のミキシマックスも出来ていない……」
「8の力……太古の力を宿し牙の力は海を割る! ダイナミックMF、やんね!」

硬い声で呟くフェイに、黄名子が大きく頷いた。

「まだまだ僕らは強くなれるはずだ!」
「うん! みんな、特訓だ!!」

トーブの言葉で目が覚めた雷門イレブンは更なる力を付けるため、まずは練習するのに平らで広い場所を目指すことにする。パーフェクトカスケイドに探されている以上、さっきまで使っていた場所には戻らない方が良いだろう。
トーブの案内で丁度良い広場に辿り着いた一行は、ボールを蹴る前にまずは練習の目標を立てることにした。

「パーフェクトカスケイドに勝つためには、まずあのスピードにどう対抗するかだな。しかし一体どうすれば……」

自然と輪のように集まった雷門イレブンの中心で、腕を組みワンダバが思案する。
彼らの動きを十分に目で追えるほどの動体視力や反射神経は勿論、脚力だって必要だ。だが、ここはトレーニング機材も練習相手も存在しない恐竜たちの時代。頭を散々捻っても、これだと言う案は出てこない。

「……ん?」

唸るワンダバの呟きを、ふとけたたましい獣の声と激しい足音が遮った。
振り返ると、遠くから黒っぽい小型の恐竜が猛スピードでこちらに向かってきているのが見える。

「な……何!?」

恐竜たちは一気に距離を詰めると、天馬たちをぐるりと囲むようにして立ち止まった。
飛び掛かってくる様子ではないが、ぐるると喉の辺りが鳴り、涎がはたはたと落ちて地面に黒い染みを作っているのを見ると安心は出来ない。

「すっごーい!! トロウドンがこんなにたくさん!!」
「感動してる場合じゃねえだろ!? 囲まれたんだぞ!」

嬉しそうに目を輝かせる信助に冷や汗を掻いた水鳥が怒鳴ると、あ、と声を上げてトーブが前に進み出る。

「心配すんな、こいつらはオラのトモダチだ! みんな、どうしたんだ?」

首を傾げたトーブがトロウドンの鼻先を撫でてやっていると、頭上に影が差してずっと空を滑空していたらしいトーチャンが降下してくる。
地面に降り立ったトーチャンと何か言葉──らしきものを交わしたトーブは、ハッと目を見開いた。

「……えっ、ホントか!?」
「何て言ったの?」

目を丸くしているトーブに、天馬はおっかなびっくり尋ねる。

「オラたちのトックンに協力するって言ってるぞ!」
「特訓て……恐竜とか?」

剣城は信じられないものを見る目で周囲の恐竜たちを一瞥する。ちょっと待って、と手を挙げて会話を制するのは信助だ。

「ねえ、トロウドンて肉食だよね?」
「に、肉食!?」
「気を抜くと食われっぞ! それが万物の掟だ!」
「な、何だよそれ……」
「ビビったらダメだ、ますます狙われっぞ」

怯える雷門イレブンに厳しい声でトーブが注意する背後で、トロウドンたちが鋭い目つきでこちらを見ている。
それはまるで、彼の言う通り一時でも油断しようものなら頭から齧り付いてやろうという思惑が見て取れる──ような、気がしなくもない。

「めちゃくちゃ過ぎるぜ! ていうか、恐竜にサッカーなんて出来んのかよ!?」
「だいじょーぶだ! ほらっ」

顔を青くした狩屋が尤もな疑問をぶつけると、トーブは天馬から受け取ったボールをトロウドンに投げ付けた。
驚くことにトロウドンたちは器用にそれを尻尾で受け止めて、あろう事か爪でボールを割らないように気をつけながら仲間たちの間でパスを始める。

「ぱ、パスしてる……しかも早い……!!」
「何か頭痛くなってきたな……」

ここまで来たらもう何も驚くことはないだろうと踏んでいたのに、と依織は疲れた顔で眉間を指で押さえる。

「こいつら、さっきのオラたちの試合見てたみたいだぞ」
「見様見真似でここまで……!?」
「トロウドンは体の大きさに対して脳が大きいんです。中生代で一番頭が良い動物って言われてます」

驚く霧野に、信助の丁寧な解説が入る。要するに、彼らにとってはサッカーの練習相手をするなど造作もないということらしい。

「よし……やろう、みんな!」
「すごいなぁ、恐竜とサッカー出来る日が来るなんて!!」

既に天馬と信助はやる気に満ち溢れている。仲間たちはそれぞれ天を仰ぎ項垂れてから、諦めてそれを承諾した。

斯くして、前代未聞の恐竜とのサッカーが幕を開ける。
トーブや信助の言う通り、トロウドンたちは随分と頭が良かった。こちらのパスをカットし、またそれを奪われる前にボールを回す知能があるのだ。

「ああもうっ、怖すぎるだろこの練習! 依織ちゃん、あいつらの考えてること読めねーの!?」
「恐竜相手に感情読むもへったくれもあるかよ!」

転がるようにトロウドンの突進を避けつつ悲鳴を上げる狩屋に、依織は叫ぶように言い返した。
容赦なく突っ込んでくる恐竜たちを避け、時に勢い余って振りかざされる爪から逃げつつ、天馬たちは野生の獣相手に予想以上に苦戦を強いられる。

「やっぱり、危険すぎるんじゃ……」
「だが、この特訓を乗り切ればパーフェクトカスケイドとの戦いで必要なスピードと瞬発力がもっともっと上がるはず……頑張れ、みんなぁ!!」

選手たちを心配する葵の心情を汲みながら、これ以上に最適な特訓が思いつかないワンダバは精一杯声援を上げた。

「ミキシトランス、『ティラノ』!!」

目には目を、恐竜には恐竜を──と、ミキシマックスをしたフェイが勝負を仕掛けに行く。
けれどトロウドンは全く意にも介さず、すれ違い様に彼からボールを奪い去っていった。

「っミキシマックスしているのに……!」
「……っ」

あまりに容易くボールを奪われ動揺するフェイを一瞥した黄名子は、単身トロウドンに突っ込んで行く。ボールを奪うには至らないものの、小さい体を捻じ込むようにして黄名子はしつこくボールを追い掛ける。

「行ッくよーー!!」

その瞬間──気合いの雄叫びを上げた彼女の背中に、見慣れた光が迸った。

「あれは……!」
「化身!?」

しなった尻尾に押し退けられて霧散してしまったが、今のは確かに化身の光だった。勢い余って前のめりに転んだ黄名子は、「諦めないやんね!」と髪を振り乱し立ち上がる。

「どりゃああっ!!」

その一方で響くのはトーブの気合いの声だ。愚直にパスコースに猛進し続けていたトーブは、雄叫びと共にとうとうボールをカットする。

「うははっ! 止めたぞー!!」
「すごいよ、トーブ!」

飛び跳ねて喜ぶトーブに、天馬は自分のことのように嬉しそうにガッツポーズした。

「見る見る上達している……凄まじい運動神経だ」
「一体どうすりゃあんなに早く……」
「いや……速さだけじゃない。トーブには迷いがないんだ」

自分で発した言葉に、神童は一拍置いて閃きにハッと目を見開いた。

「そうか……みんな、一瞬でも迷うな! 0コンマ1秒でも、早く判断するんだ!」
「0コンマ1秒でも……」

神童の言葉に、天馬はごくりと唾を飲む。一瞬でも迷わない、と言う行動を意識してとるのは中々簡単なことではないだろう。
だがあのパーフェクトカスケイドからボールを奪う瞬発力を身に付けるには、確かにそれが一番確実だ。

ほんの一瞬の思考の差で勝負が決まる。それを心に留め、天馬たちは練習を再開する。
常に仲間の位置を確認しながら、どこへボールを回すのが一番最善かを一瞬で判断するのは、やはり骨の折れることではあった。
けれどそれを何度も何度も繰り返す内に、不思議なもので体は慣れてくる。
頭の回転を上げるほどに体の動きが少しずつそれに着いていけるようになるのを実感しながら、これならば、と天馬は唇を引き結んだ。

「よぉし、オラだって! 行くぞっ、《ジャガウォック》!!」

化身を発動させたトーブは果敢にトロウドンに飛び掛かり、ボールを奪っていく。
続けざまに進路に飛び出してきた2体を相手取ろうとするも、やはりまだ化身使いとしては未熟なのだろう、容赦のない体当たりにジャガウォックは光と消え、ボールはあっという間に奪い返されてしまう。

「むぐっ……まだまだぁ!!」

それからも血気盛んにボールを奪いに行くトーブだったが、トロウドンたちの統制の取れた動きに翻弄された彼は敢えなく地面に叩き付けられた。

「と、トーブ!」

苦しげに呻いて動かなくなってしまったトーブに、天馬がギョッと声を上げる。慌てて駆け寄ろうとした彼を止めたのは、トーチャンの一際険しい嘶きだった。
その目は手を貸すなと、トーブに再び立ち上がれと語りかけているようにも見える。

「これ以上は無理だ、少し休ませないと……!」

それを察したフェイが焦った声を上げるが、トーチャンは首を横に振るだけだ。
──意識の朦朧とするトーブの耳に、ビッグの悲痛な鳴き声が聞こえる。

「……ビッグには……情けねえとこ、見せらんねえぞ……」
「! トーブ……!」

絞り出すように呟いて、トーブが立ち上がった。
散々走り回ったところに化身も発動し、もう体力は底を尽きかけているだろうに、彼の目にはまだ闘志が宿っている。

「あいつには、早く元気になってほしいんだ……そのためにはオラ、何だってするんだ!!」

天を仰ぎ、トーブは気合いの咆哮を上げる。瞳に輝きを取り戻すトーブに、トーチャンは満足そうに頷いた。

「──優しく見守るだけじゃ、ダメなんだね」
「え?」

ふと、傍らの黄名子が小さく何かを呟くのを聞いた依織は、手の甲で汗を拭いながらそちらを見た。

「黄名子、いま何か言った?」
「ううん、何でもないやんねっ! ……今度こそ行くよ!!」

言うや否や、黄名子はドリブルしてきたトロウドンに突っ込んだ。呼吸を整え、集中して、闘気を練り上げ、一気に解き放つ。

「《暁の巫女 アマテラス》!!」

顕現されたのは、長弓を携えた半神半人の女性型の化身だった。
その勢いのまま加速した黄名子は、ついにトロウドンからボールを奪い取ってみせる。

「やった……成功やんね!!」
「すごいよ、黄名子!」
「見事な化身だ……!」

太陽のような神々しい光を放つ化身を見上げ、仲間たちは感嘆の声を上げた。その場でぴょこぴょこ飛び跳ね、黄名子は依織に抱きついていく。

「ありがとう、依織ちゃんっ! これも依織ちゃんのおかげやんね!」
「何言ってんだ、全部お前の努力の成果だろ?」

ふっと口角を上げて言う依織に、黄名子は丸い頬を喜びで紅潮させながらウフウフと笑う。
そんな様子を、フェイは1人どことなく硬い表情で見つめていた。




「──え。依織、黄名子の特訓に付き合ってたの?」
「夜中にコソコソ起き出すから、気になってさ」

日もとっぷり暮れて、辺りが星明かりだけになった時間帯。食事を摂る傍ら談笑していると、黄名子の化身の話題になった。
果物を文字通り満腹になるまで食べたトーブは、既に鼾を掻いて眠っている。余程疲れていたのだろう。

「化身の共鳴現象のことは知ってたから、ウチも1人で頑張るよりも依織ちゃんに手伝ってもらった方が上手くいくかもって思って……」
「鷹栖……お前、狙われてる身でまたそんな……」
「うっ。さ、最近は直接狙われる機会がなかったから油断してたんだよ……」

呆れ混じりのジト目を剣城に向けられて、依織は気まずそうに手に持った果物の種を指で摘まみ出した。

「確かに、ザナークは俺たちを倒すことばかりで、鷹栖のことは眼中にない感じだったな」
「ザナークは結局、エルドラドの非正規メンバーだったようだから……多分、依織の捕獲任務のこと自体、知らなかったんじゃないかな」

そう呟く神童にフェイが言えば、依織は「あいつ相手にしてる方が都合が良かったな」とぼやく。

とは言え、過ぎたことを今更引き摺っても仕方がない。
夕食を終えて仲間たちが寝静まった後も、依織は1人洞穴の天井を見つめ眠れずにいた。

「(パーフェクトカスケイドか……あいつら、徹底して感情が読めなくて不気味なんだよな)」

瞳孔、視線、瞬きの数、手指の微かな動きや僅かな重心の移動。人間は思考すれば必ず体のどこかに変化が訪れるものだ。
だが、彼らにはそれが全くと言っていいほど無い。まるで人間ではないような、そんな気味の悪さを依織は感じていた。

「(……ほんとに人間じゃなかったりして)」

そんなバカな、と自嘲して依織は上体を起こす。少し夜風に当たれば眠れるかもしれない。
洞穴から抜け出すと、崖の方で男子たちが健やかに眠っているのが見える。
剣城に注意されたばかりだし、あまり遠くには行かない方が良いだろう──と反対方向に足を向けたところで、依織は目を瞬いた。

「……ビッグ?」

月明かりに照らされて、小さな──それでも依織よりは一回りは大きな影が、その場を彷徨いている。
依織に気が付いたらしいビッグは、ぴぃ、と小さく一鳴きして彼女に近寄ってきた。

「お前も眠れないの……?」

仲間たちを起こさないように小さく声を掛け、そろりと手を伸ばすと、ビッグは鼻先を掌にそっとすり寄せてきた。ざらざらと固い、不思議な感触がする。
ぴすぴすと鼻を鳴らすその音に水が混じっている気がして、そうか、と依織は目を細めた。

「お母さんいなくなって、寂しいもんな。……分かるよ」

覚束なくも優しい手付きで顎の辺りを撫でられると、ビッグはクルル、と心地よさそうに喉を鳴らす。
そしてふいに、彼は何かを気にするように背後を振り返った。

「……? そっちに何かあるの?」

ビッグの背中越しにそちらを覗き込むと、少し離れた崖の上に見覚えのあるシルエットが座り込んでいるのが見える。
一瞬の逡巡の後、依織はビッグを連れてそこへ歩いて行った。

「──フェイ」
「! 依織……」

流れ落ちる水の流れを見つめ、膝を抱えていたフェイが振り返る。
こんなところで何してんだ、と隣に立つと、フェイは曖昧に微笑んだ。

「依織こそ、何でビッグと一緒に?」
「少し風に当たりたくて……ビッグも、何か寂しそうにしてたからさ」

ぴい、と小さく鳴いてビッグはフェイの隣に座り込んだ。どうやら彼に懐いているらしい。

「そっか……でも、今日は泣いていないんだね、ビッグ。えらいぞ」
「泣く?」
「昨日は、夜に泣いていたんだ。急に独りぼっちになってしまったから……」

囁くように言って、フェイはビッグの頭を撫でる。
依織はフェイのどこか寂しげな横顔を一瞥し、頭上で輝く満月を見上げた。

「寂しくなったら、不安で眠れなくなるのは人も動物も同じだな。……でもいつか、1人で眠れる日は必ず来るよ」

時間の流れは全てに平等に、優しく厳しい。忘れたい記憶も忘れたくない記憶も、いつかは薄れていく。
そして思い出そうとすると、必ずどこかほつれた部分が自分の思い込みで繕われていくのだ。思い出と言うのは、そうやって作られていく。

「依織にも、眠れない時期があったの?」
「……知ってるんじゃないのか?」

質問に質問に返せば、フェイは目を瞬いて少しだけ、とぎこちなく頷く。

「でも、君の口から直接聞いたことはなかったし、そこまで詳しいことを調べたわけではないから……どうだったのかな、って」
「……そんなに、楽しい話じゃないぞ」

フェイやビッグよりも少し後ろに腰を落ち着かせて、依織はぽつぽつと幼少期のことを語り始めた。
病弱だった母が、自分を産んだことでそれに拍車が掛かりその数年後に亡くなったこと。母を喪った父が心を病み、その間依織は御鏡の家に預けられたこと。
日中は賑やかな従兄弟たちや近所に住んでいた太陽と疲れ果てるまで遊んで、寂しさは紛れたが──それでも、夜にベッドに入るとふいに不安が押し寄せてきて、眠れなくなるのだ。
二度と会えない母のことは勿論、もしかしたら父ともこのまま会えなくなってしまうのではないかと思うと、怖くて仕方がなくて。
なので依織は母が亡くなってしばらくの間、織乃と一緒に寝てもらっていた。温かい腕に抱かれていると少しだけ不安が和らいで、何とか眠ることが出来たから。

「結局、1人で眠れるようになったのは、お父さんとまた一緒に暮らすって決まってからだったかな……」
「……お父さんと一緒にいれば、寂しくなくなるから?」
「いや……お母さんが亡くなる前から、ほっとくと仕事のことばっか考えるような人だったから、多分私がしっかりしないとって気持ちが寂しさを上回ったんだと思う」

世話の掛かる父親だろ、と依織は苦笑する。
そして小学校に上がると同時に、回復した父と稲妻町を遠く離れ、一緒に暮らし始めたのは良いものの──上手く行かないことだらけだった。

「人間は言葉を尽くして、それがダメなら行動で表して、それでも解り合えないことがあるんだ。……だから私は、結局力尽くで『解らせた』」

1人で稲妻町に戻ることを伝えた時の父の顔は、今でもハッキリと思い出せる。
切れ長の目を丸く見開いた後に、元々深い眉間の皺が更に濃くなって、父は語気を強めて──しかし決して怒鳴らずに、依織の言葉を拒否した。そして依織はそうなることが分かりきっていたから、先んじて外堀を埋めに埋めて事を仕掛けたのである。

「親子なのにどうしてこんなに遠回りしないと行けないんだろうって思ってたけど、当たり前だよな。血が繋がってようがいまいが、1人の、別の人間なんだもん……」
「言葉を尽くして……」

ぼんやりと反芻し、フェイは依織と同じように月を見上げる。

「……僕も、そうやって解り合う努力をしていたら、独りぼっちにならずに済んだのかな……」
「え?」

はつ、とゆっくり瞬きをして、依織はフェイを見た。
フェイは彼女を一瞥して視線を戻した後、しばし悩んでから口を開いた。

「小さい頃……僕の親は、僕を捨てて出ていった」
「捨てたって、何で……」
「分からない……多分、僕のことが嫌いだったんだと思う」

予想外に出てきた重たい話に、依織は面食らったように眉を顰める。
フェイは怪訝そうな依織の反応には気付かなかったようで、そのまま落ち着いた声で続けた。

「だけど、僕は1人だって寂しくなかった。僕にはサッカーがあったから……」

ぴぃ、とビッグが小さく鳴いた。ぐい、と鼻先を顔に押しつけてくる彼に少し微笑んで、フェイはビッグを撫でながら語る。

「だから前に進むって決めたんだ。……ビッグ、君も進んでほしい。君の前に続く道を、一歩一歩、前に向かって……」

喉を鳴らし、ビッグは目を伏せる。依織の目には、不思議とその表情がフェイの言葉を噛み締めているように見えた。

「……なぁ、フェイ」
「ん?」
「お前は親に嫌われたんだろうって言ったけど……直接そう言われたわけじゃないんだろ?」

微かに眉を上げて、うん、とフェイは掠れた声で頷く。

「だったら、もしいつか親とまた会えたらさ……1回ちゃんと、話し合うのもありなんじゃないかな」
「どうして……?」
「だってお前、独りぼっちにされたこと、諦めはしても納得はしてないんだろ」

その問いに、フェイは俯いて頷かない。しかし依織には、その無言が肯定だと分かっていた。

「だったら言葉でもいい、行動でも良い。ちゃんとそれをぶつけて、喧嘩の1つでもしておけよ。そうしたら、少しはスッキリするかもしれない」
「……それでもダメだったら?」
「……拳で語り合うとか……」

ぱか、開いた口から一拍置き明らかな思いつきを返されて、「乱暴だなぁ」とフェイは思わず小さく笑う。
依織はこの夜に初めて、彼の本音を垣間見た気がしていた。

月が空の天辺へ登り、淡い光に照らされた闇色の影が地面に濃く映る。
その様子を、離れた所から物陰に隠れた黄名子が見守っていることに、2人と1匹が気付くことはなかった。