20

東京、某所──帝国学園。

1年B組、雅野麗一は仄かな明かりの灯る廊下を歩いていた。
理事長室から部室へと向かっている彼の腕には、コーチから預かったばかりの訓練メニューの書類が抱えられている。

「(それにしても佐久間コーチ、何だかやけに機嫌が良かったような……何かあったのかな?)」

チームのコーチである佐久間次郎は普段から厳しくも穏やかな性格で、監督とは違い感情が表に出やすいタイプではあるが、あんなに分かりやすく機嫌が良いところは中々見たことがない。
ぼんやりとそんなことを考えながら、曲がり角に差し掛かった次の瞬間だった。

「うわっ」
「イテッ」

廊下の向こうから突然現れた人影とぶつかり、雅野は気の緩みもあってかうっかりそこに尻餅をつく。
帝国のゴールキーパーたる人間が人にぶつかって倒れるなんて! ──雅野は頭のどこかで自分を叱咤しながら、強かに打ち付けた腰を擦る。

「す、すいません──大丈夫ですか?」
「あ」

彼はハッと顔を上げた。
見ると、自分がぶつかったのであろう女子生徒が、困った顔でこちらに手を差し伸べている。
しかしこの場合、困った顔で≠ニ言うのはあくまで、雅野が彼女の声色から察したものに過ぎない。
何せ、彼女は牛乳瓶の底を切り取ったような大きく分厚いレンズの眼鏡を掛け、表情などまるで分からなかったのだから。
その上、ピッチリと編み上げた長い三つ編みが、いかにも古風な優等生といった雰囲気を醸し出している。

雅野は軽く頭を振ると、腕からずり落ちた書類を抱え直した。

「いや……俺も、ぼんやりしていたから。ありがとう」

素直に少女の差し伸べた手に掴まり、雅野は冷たい廊下から腰を上げる。
それじゃあ、と立ち去りかけると、彼女は「あ、ちょっと!」と雅野を引き留めた。

「あの、総帥がどこにいるか知りませんか? 生徒会のことで呼び出しを受けたんですけど、見つからなくて」
「ああ──鬼道総帥なら、多分まだ理事長室だと思うけど」

少女はそれに頷き、「ありがとうございます」会釈をするとその場から駆け足気味に去っていく。
ひとつ向こうの曲がり角にその三つ編みが消えて、一拍置き雅野はハテと首を傾げた。

「……うちの生徒会に、あんな生徒いたかな?」




大きなモニターを背に、彼はパソコンのキーボードを操っていた。
その傍らでは、彼の秘書であり右腕である男が忙しなく腕時計を覗き込んでいる。彼はその様子にキーボードから手を離し、少し溜め息を吐いた。

「……佐久間。少し落ち着いたらどうだ」
「そ、そうだな。いや……でも、少し遅くないか?」

もう約束の時間を10分過ぎているぞ、と男──佐久間は眉根を寄せる。

「大方、道に迷ってるんだろう。……そら、噂をすればだ」

言いかけた彼の言葉が、来客を知らせる小さなブザーに掻き消された。
その音に佐久間は、来た、と勢い良く扉を振り返る。

パシュン──と空気が抜けるような扉の開閉音は、10年前から変わらない。
左右に開いた扉を潜り姿を現したのは、あの三つ編み瓶底眼鏡の女子生徒だった。

「やっと来たか。遅いぞ」
「遅いぞ……じゃないでしょーが! こんな朝イチで呼び出して……お陰でこっちは仮病で学校欠席ですよ!」

扉が閉まるなり、彼女は先程の面影のまるで見えない憤怒の表情になって噛み付く。
彼──鬼道は、ふっと鼻を鳴らし、座り心地の良さそうな椅子から立ち上がった。

「おまけにこんなベタな変装させて、ホントは楽しんでるんじゃないでしょうね!?」

言うと彼女──依織は乱雑に三つ編みを解き、分厚い眼鏡を外して鬼道に突きつける。
「仕方ないだろう」鬼道は特に悪びれる様子もなく、肩を竦めた。

「うちの生徒──万が一シードたちに顔を覚えられてはまずいだろう?」
「それは、……そうですけど!」
「まぁまぁ、結構似合ってたぞ」
「嬉しくないですよ、っとにもう!!」

にこにこ顔で頭を撫でてくる佐久間に歯を剥き、落ち着いたらしい彼女は溜め息を吐く。
そのタイミングを見計らったのか、鬼道は話を切り替えるように小さく咳払いをした。

「さて──依織」
「……何スか」

名前を呼ばれ、佐久間の手を退かした依織は不機嫌そうに返す。まだ言いたいことはあるんだぞ──そんな顔だ。

「今日お前を呼び出したのは、他でもない。……佐久間」

短く声を掛けられた佐久間は頷くと、すぐさま懐に入れていた手のひら大の茶封筒を依織に手渡す。
依織は受け取ったそれの中身を覗き込むと、まばたきを繰り返して鬼道を見上げた。

「……待ちくたびれましたよ」
「そう言うな。──書類審査は通った。あとは、お前が全力を出し切れば良いだけのことだ」

ゆっくりと依織に歩み寄った鬼道が、彼女の肩を叩く。大きなサングラスの向こうで、鋭い目が依織を捉えた。

「思う存分、暴れてこい」
「言われなくとも」

ニタリと、2つの怪しい笑みが交差する。
あの小さかった依織が、あんなにたくましく成長して──佐久間は一人、場違いなことを心の中で独り言ちた。

「ところで、有兄さん」
「何だ」
「これ、出発はいつなんです」
「明日の夕方だ」

さらりと鬼道は言ってのける。
一瞬真顔のまま固まった依織は、しばらく置いて口許をプルプルとひきつらせた。

「だっ……から、何でいつもそうギリギリなんですか!!」
「大人にも色々事情があってな。まぁ、諦めろ」
「納得いかねぇぇ!!」

きっとこの場に天馬や葵がいたら、全力で突っ込む依織に目を丸くするだろう。
彼女は天井を振り仰ぎ、防音の効いた帝国理事長室でしばらく叫んでいた。




「私明日から、ちょっと海外飛んでくる」

数時間後──場所は帝国学園から離れ、稲妻総合病院。
パックジュースのストローを噛み潰しながら、苦い顔でふと思い出したようにそんなことを言った依織に、太陽は一瞬思考が停止した。

「……うん?」
「土産はペナントとかで良いか」

できれば食べ物で、と言いかけた太陽はハッとして、そうじゃなくて、と枕を叩く。

「海外って……何で急に? おじさんに呼ばれたの?」
「お父さんは関係ねーよ。今回は別件」

依織の父がイギリスで働いているのは、太陽も知っていることだ。
じゃあどこへ? と彼が首を傾げると、依織は渋い顔でズココ、とジュースを吸い上げる。

「イタリア。まぁ……大体2週間近くあっちにいることになってる」
「いっ、に、……ええぇ?」

幼馴染みがそろそろ話の展開に着いていけなくなってきたことに気がついたのか、依織は「まぁ、だからさ」と空になったパックをゴミ箱に放りながら片手をヒラヒラと振った。

「そんなわけで、明日からしばらく見舞い来れねーから。私がいないからって、勉強サボんなよ」
「う……2週間かぁ……」

太陽は難しい顔になって唸り声を上げる。
「何だよ?」理由のありそうな態度を訝しむと、彼はしばらく唸った後パッと顔を上げた。

「だったら依織! イタリアに行く前に、お願いがあるんだけど……」
「? 何だよ」

首を捻ると、太陽はひとつ頷きベッドから這い出る。
サイドボードの引き出しを開けて彼が取り出したのは、いつかのサッカー雑誌だった。

「それ……お隣さんから借りたってやつじゃん。まだ返してなかったのかよ」
「しょ、しょうがないんだよ! あの人リハビリがあるし、僕だってだっそ……色々忙しくてタイミング合わなかったんだから!」
「今脱走って言いかけたなお前」

ジト目になった依織の視線を躱し、太陽は「それは置いといて」と冷や汗をかく。そして雑誌を彼女の前に突き出しながら、ガバッと頭を下げた。

「お願いっ! これ返しに行くの、着いてきて欲しいんだ!」
「…………はぁ?」

何をバカなことを、とでも言いたげに呆れた顔になった依織に、太陽も居心地悪そうに唇を結ぶ。だがそれでも彼は、頭を上げなかった。

「実はついさっき、依織が来る前にも1度返しに行こうとしたんだけど……丁度、その人の弟さんがお見舞いに来てて」
「別に良いじゃん、ちょっと挨拶してから返せば」
「弟さん不良っぽくて何か部屋に入り辛いんだよー!」

ついにワッと顔を両手で押さえ泣き落としにかかった太陽に、依織は嫌そうに口を歪める。
そして頭の後ろを掻いて、溜め息をまたひとつ。

「……ああもう、分かったよ。分かったから早くそのウソ泣きやめろ」
「あ、バレた」
「ったりめーだ、ぼけ」

「私に嘘は通じないんだっての」キツいデコピンをお見舞いし、依織は痛みに身悶えする太陽の腕から雑誌を抜き取って立ち上がった。

「そら、返しに行くんだろ。行くぞ太陽」
「う、うん!」

急かすと、太陽は少し慌てながらスリッパを履く。
しっかりとその足が地に立ったのを確認して、依織は病室から廊下へ出た。

隣の病室とはさして距離という程のものはない。せいぜい3、4歩歩けばいい程度である。
扉を見上げ、「ここだな?」と確認を取った依織は、何となく壁に掛かった患者のネームプレートを見た。

「…………あ?」
「え? どうしたの、依織」

怪訝な表情になった依織の顔を、太陽はキョトンとして覗き込む。
依織はしばしネームプレートを見上げたまま固まっていたが、ややあって「いや」と顎を引くと、脇に抱えた雑誌を太陽に渡した。

「ほら、私が持ってても仕方ないだろ」
「あ、うん」

そしてそのまま背後に回り、さあ行くぞ、と彼の背中を押す。もう1度ネームプレートを一瞥し、目を逸らす。

「(同じ名前なだけだろ、多分。……うん)」

「よし……」太陽は小さく呟くと、扉に手をかける。ゆっくりと扉を開くと、吹き抜けた風が室内のカーテンを揺らした。

「失礼しま〜す……」

聞こえるか聞こえないか──そのくらいの声量で言って、太陽はそろそろと中へ体を忍ばせる。
いっそここで待っていようかと依織はたたらを踏んだが、太陽が彼女の服の端をガッシリと掴むものだから、それも失敗に終わった。

「えっと……来客中ごめんなさい、優一さん。借りてた雑誌、返しに来ました」
「ああ、太陽くんか。そんな急がなくても良かったのに」

太陽は依織を引っ張ったまま、部屋の奥へ進む。あんなに渋っていたのが嘘のようだ。
依織は仕方なく、ベッドとベッドを遮るカーテンに身を隠すように佇む。これなら、あちらから姿は見えないだろう。

「……あれ、そこにも誰かいるのかい?」
「あ、はい。僕の幼なじみの──」

その時だった。
一際強い風が吹き、それまで依織の姿を隠していたカーテンが、大きくまくれ上がり意味を成さないものになったのは。

「──ああ、君は……この間、すれ違った娘だね」

柔らかい日差しを浴びて、ベッドに座る青年が穏やかに微笑む。
年は依織の従兄と同じくらいか。
しかし、かなしいかな。今の彼女には、そうのんびりと分析が出来るほどの余裕はない。

ガタン──乾いた音を立てて、パイプ椅子が大きく揺れる。
そちらを向いた依織は、驚きとも諦めとも取れる表情を浮かべた。

「鷹栖……!?」
「……おっす」

ギョッとしながらこちらを凝視する彼に、依織も苦笑を見せざるを得ない。
青年──優一は、依織と自分の弟を見比べて小首を傾げた。

「何だ、京介。知り合いか?」

兄の問いに、彼は──剣城京介は、否定も出来ず、ただ何故コイツがここにいるんだと言いたげな顔で、依織を見つめる。

病室のネームプレートには、剣城優一≠ニ書かれていた。