早朝、壁一面に張られた大きな窓ガラスに体を寄せ、依織はそこから見える街を眺めながらぼんやりとした足取りで廊下を歩いていた。
ビル群の隙間からは時折ブルーシートや足場に囲まれた建物が見え隠れしている。その中の全てがフェーダの襲撃を受けたものなのかどうか、依織には判別が付かなかった。
「──黄名子」
ふいに視界の先に腰まで届く明るい茶髪がゆらゆらと揺れている後ろ姿を見つけ、依織は反射的にその名前を呼ぶ。
黄名子は驚いたように肩を揺らして、ゆっくりと振り向いた。
「わ、依織ちゃん。早起きやんね、朝の散歩?」
「ん。目が覚めちゃってさ」
「そっか……」
今日が最終戦だもんね、と黄名子は神妙な顔で頷く。
いつもと明らかに違う様子の黄名子に、依織は首の後ろをカシカシと掻いて彼女に言った。
「……少し外の空気でも吸いに行こうと思ってたんだ。一緒に行くか?」
「! うんっ」
それを聞くと、少しだけ黄名子の表情に色が戻る。跳ねる足取りで一歩前を歩く彼女に、依織はしばし思案した後思い切って尋ねた。
「なぁ、黄名子」
「なーに?」
「お前さ、……フェイのこと、前から知ってたりした? 勿論、あいつがフェーダだったことは抜きにして」
ピタ、と黄名子の足が止まる。
ゆっくりと振り向いて依織を見上げた瞳は、どこまでも深く澄んで見えた。
「……どして、そう思うやんね?」
「黄名子がフェイを見る時の目」
瞼を伏せがちにして、依織はこれまでのことを思い返す。
いつだって、黄名子はフェイのことを気遣っていた。気にしていた、という方が近いかもしれない。
距離感を測りつつも、フェイのそばに寄り添うという感情を、依織は黄名子から感じ取っていた。
最初は、もしかすると『そういうこと』なのかもしれないと思ったこともある。
元々彼女は歴史が捻じ曲がって現れたイレギュラーなのだ。自分たちの預かり知らぬ歴史の隙間で、そういった感情を抱くに至る出来事があったのかもしれない、と。
しかしフェイを見る彼女の目が少しだけ、けれど明確に変わったのは、恐竜時代へタイムスリップしてからだった。
それは依織が天馬や葵を守ろうとする時の友愛を含んだものとも、剣城へ向ける押し殺し気味の恋情とも、かといって従姉や鬼道が依織に注いでくれる庇護の感情ともまた少し違うもの。
自分が失って等しい、記憶の片隅にあるものによく似ている気がするのだ。
「──依織ちゃんは、運命とかって信じる?」
「、ん?」
突然の脈絡のない質問に、依織は面食らって顔を顰めてしまった。依織の問いの答えにもなっていない。
だが、黄名子の目は至って真剣で、茶化して答えをはぐらかそうとしている風にも思えない。唇に指先を置き、一拍空けて依織は口を開く。
「信じない」
「神様に『ある』って言われても?」
「信じない。誰に何言われたって、私は自分の意思で道を選んで生きてんだ。そんな鬱陶しい神様なんざ蹴ッ飛ばしてやる」
眉根を寄せ、鼻を鳴らして依織が言うと、ふは、と黄名子は小さく吹き出した。
「依織ちゃんらしいやんね。……でも、ウチもそう。誰かに言われたからじゃない、ウチは自分の意思で、あの子を守るって決めたの」
「……黄名子?」
独り言のように呟かれた言葉に、依織は怪訝な目を黄名子へ向ける。
やはりおかしい、その言い方ではまるで──その言葉の続きを声に出そうとした瞬間、黄名子はピッチに繋がるスタッフ通用口の扉を押し開いた。
早朝特有の少し冷たい空気が一気に流れ込み、肌が粟立つ。それに少し目を細めている間に、黄名子は止める間もなく外へ出ていってしまった。
「おい。黄名子──」
「しーっ」
黄名子を追って大股でピッチへ出ると、黄名子はすぐに振り向いて人差し指を口の前に持っていく。思わず口を噤む依織に、黄名子はちょいちょいと観客席の方を指さした。
そこには、見覚えのある天然パーマと青いクマのぬいぐるみが並んで座っている。天馬とワンダバだ。
依織は黄名子と顔を見合わせて、示し合わせたわけでもないのに揃ってそろりと壁際に背もたれて耳を澄ませた。
「──やはり、フェイのことが気にかかるか」
「うん……」
いつになく重たい声のワンダバに、天馬の落ち込んだ様子が伝わってくる。黄名子の横顔が微かに曇った。
「ワタシがフェイと行動を共にしてきたのは、アルノ博士にお目付け役を頼まれたからだが……それだけではない」
「え?」
依織はちらりと観客席の方に視線をやった。ワンダバの黒い鼻先が朝日を反射して煌めいているのが見える。
「彼が好きだったからだ……フェイは、ワタシに対しても普通の友達のように接してくれたんだ。初めて出会ったアンドロイド相手に、一緒にサッカーをしないか、と」
「そうだったんだ……」
初めてフェイと出会った時のことを思い出したのだろう、受け答えする天馬の声が少しだけ丸くなった。
天馬と出会う前から、フェイはずっとサッカーが大好きな優しい少年だったのだ。2日前の、あの瞬間まで。
「……頼むぞ、天馬。お前のサッカーで、フェイの目を覚ましてやってくれ……!」
いつになく真剣な様子で懇願するワンダバに、天馬は一瞬目を瞬いてから項垂れる。
「……うん。俺もフェイとまた、一緒にサッカーをしたい。けど……」
──僕は、僕らを認めない奴らと戦わなきゃならない。それが僕たちの宿命なんだ。
脳裏に冷たく突き放したフェイの声が蘇る。あの時のフェイは、見たこともない顔をしていた。無機質な中にも怒りと義務感の入り混じる、戦地に赴く歴戦の兵士のような目。
「出来るかな、俺に。フェイの目を覚ますことが……」
「天馬……」
「──出来るやんね!!」
唐突に張り上げられた声に、天馬とワンダバはギョッとして椅子から跳ね上がる。
堪えきれずに二人の視界に飛び出して行った黄名子に、依織は目を丸くしてからヤレヤレと肩を竦めて後に続いた。
「出来るやんね、キャプテンなら!! フェイと一緒に色んな試練を乗り越えてきたキャプテンなら出来る。ウチが保証するやんね!!」
「き、黄名子。それに依織も……いつからそこにいたの?」
「フェイの話をし始めたあたりかな」
依織が間延びした声で答えると、ほぼ最初からじゃん、天馬は複雑そうな顔をする。
そんな天馬の反応に構わず、黄名子は鼻息荒く続けた。
「フェイもキャプテンやワンダバの思いに気付くはずやんね。みんなを見てきたウチにはよぉく分かる。フェイ、あなたは一人じゃない。こ〜んなにもあなたを思ってくれる仲間がここにいるやんね!」
黄名子は太陽に向かって、大きく両手を広げて宣言する。その様子はまるで、フェイが自分の目の前にいて、彼に語りかけているかのようにも見えた。
「──うん。俺、今日の試合頑張るよ!」
それを見て元気が出たのだろう、天馬はささやかではあるが笑顔になって、大きく頷いた。
得意げになった黄名子の横顔を見て、依織もまた溜息混じりに微笑む。どうにも、質問の続きをする気分にはなれなかった。
§
時計は進み、日中。スタジアムの廊下には、外の歓声が微かに届いている。
そんな中、天馬たちのいる控室の前には二つの人影があった。
「──神童先輩。やっぱり俺はやめておきます」
「え……どうして」
まさにこの瞬間扉を開けようとしていた神童は、ここに来て消極的な剣城にキョトンとした顔で振り向く。
自分も天馬たちがしてくれたように試合前に激励に行こうと思っている、良ければ剣城も一緒に──そう誘った時、確かに一瞬尻込みしていそうな顔はしていたけれど。こうして大人しく着いてきた以上、てっきり反対する意思はないと思っていたのだ。
「わざわざ応援っていうのも柄じゃありませんし……神童先輩一人でも、あいつらには十分かと」
「はは、柄じゃないって言うのはそうかもな。でも、天馬たちはそんなこと気にしないさ」
ほんの少し眉を歪めて進言する剣城に、神童は軽く笑いながら言って容赦なく扉の開閉ボタンを押した。
「ちょっ……」
「──あ! 神童先輩、剣城!」
扉が開き切った直後、いの一番に二人に気が付いた天馬は嬉しそうにソファから立ち上がる。
神童は剣城にホラな、と言いたげな笑みをやって、駆け寄ってきた天馬や信助たちに向き直った。
「ラグナロクは2戦を終えて1勝1敗……今日の第3戦、この最終戦で全てが決まる。頼んだぞ、天馬」
「はい! 必ず勝ってサッカーを……円堂監督を取り戻してみせます!」
力強く頷いて、グッと握り拳を固める天馬に神童はその意気だ、と微笑む。
そこでふと、神童は控室を見回して目を瞬いた。
「……天馬。鷹栖は?」
同じことに気がついたらしい剣城が、視線だけ周囲に配りながら尋ねる。
ああ、と頷いた天馬は控室の奥にある扉を指さした。
「依織ならあっちの部屋で着替えてると思うよ。声掛けてこようか?」
「いや、大丈夫だ」
天馬の提案に首を振り、数秒空けて剣城は「先輩、そろそろ行かないと」と神童に話しかける。
「ああ、そうだな。それじゃあお前たち、頑張れよ!」
「はいっ、ありがとうございます!」
元気良く礼を言う天馬たちに軽く手を上げて、神童は剣城を伴って控室を後にした。
それにしても、と神童は改めて一歩後ろを歩く剣城の様子を伺う。
先程応援に行くのを躊躇っていたのと言い、やけに早めに控室を去ろうとしたことと言い、まるであのチームに顔を合わせたくない人間でもいそうな反応だ。
「なぁ剣城、お前──ん?」
「!」
口を開いた途端、遠くから聞こえてきた忙しない足音に神童は思わず背後を振り向いた。剣城も同じく後ろを振り返り──ギク、と肩を竦める。
控室のある方角から依織が大股でこちらにやって来ていたのだ。それも、随分と不満を全面に押し出した形相をして。
二人に追いついた依織は、ふぅ、と息を整え改めて顔を顰める。
「酷いじゃないですか、二人とも。私だけ仲間外れにするなんて」
「す、すまない、丁度着替え中だと聞いたから。鷹栖も試合、負けるなよ」
「ええ、勿論です」
やや勢いに気圧されつつも神童が激励すると、依織はいくらか満足した顔になって胸を聳やかす。しかし、こんな事を気にするような奴だっただろうか──神童が首を傾げていると、彼女はふいに口角をにっこりと持ち上げて、剣城の肩を掴んで言った。
「ところで、ちょっとコイツ借りても良いですか?」
「え」
「あ、ああ……俺は別に構わないが」
依織の発するただならぬ気配に、神童はそっと剣城の顔色を盗み見る。そして彼が気まずそうに依織から目を逸らしているのを見て、神童は何故剣城があんな態度をとっていたのかを理解した。
「……お前たち、喧嘩でもしているのか?」
「いや、全然」
「そう言うわけではないです……」
首を振る依織に同調こそするが、剣城の声には覇気がない。本人がそう言うならこれ以上言及するわけにもいくまい、と神童は気を取り直す。
「じゃあ。俺は02の応援席に行くから。……その、何だ。喧嘩はするなよ?」
「しませんって!」
迷いを振り切るように神童は二人に背を向けてその場を去っていく。その足音が聞こえなくなったところで、さて、と依織は剣城に向き直った。神童に向けた張り付いた笑顔ではなく、下から睨みつける剣呑な目だ。
「大事な試合の前だからさ、気になることは一つでも潰しとこうと思って。……お前、この前の試合からやけに私のこと避けてるよな?」
「う……」
剣城はバツが悪そうに顔を顰め、依織から目を逸らす。どうやら図星だったらしい。
ここ数日、おかしいとは思っていたのだ。
黄名子や錦、他の01の選手たちは宿舎の外でも見かけるのに、剣城だけが見当たらない。昨日たまたま練習エリアで見かけた三国に「剣城見かけてません?」と訊くと。
『ん? さっきまであそこにいたと思うんだが……』
と返され、おかしいなと思いつつ次にメインエントランスで雑談をしていた太陽と輝に同じことを問うと。
『今まで一緒に話してたんだけど……』
『依織の姿が見えた途端、どこか行っちゃったよ』
などと言われ、予感は早くも確信に変わったというわけである。
「一体何なんだよ。今回は別に、こう……お前に避けられるようなこと、した覚えないんだけど?」
首を曲げ、依織は不満と──少しばかりの不安を織り交ぜて、剣城を睨んだ。
前回の”喧嘩“は確かに依織にも比があった。だが今回は本当に身に覚えがない。それなのにこんな露骨な態度を取られれば、流石に不安に駆られもする。
「そ、それは……」
「まさか、試合に負けて格好が付かないから顔を合わせにくかったなんて、そんな理由じゃないだろうな?」
ぱっ、と剣城の顔が勢いをつけて依織を向いた。
微かに見開かれた目が右手のブレスレットを確認するのを見て、依織はポカンと口を開ける。
「……え、本当に?」
「……」
別に心を読まれたわけではないと察したのか、剣城は苦虫を噛み潰したような顔になって再びそっぽを向いてしまった。
「……あんな一方的に甚振られたとこ見せたら、顔も合わせにくくなる」
「でも……でも、剣城たちは1点取ってくれたじゃんか」
剣城は首を振り、拳を強く握り締める。
あれが価値のある負けだったというのは頭では理解している。ああすることでしか後の神童や天馬たちに希望を残せなかったとも、無理やり自分を納得させた。
ただ、それでも。
「お前に格好悪い姿、見せたくなかった」
避けたのは悪かった──ツンと拗ねたような顔のまま、剣城はボソボソと謝罪する。
その表情と僅かに赤くなった耳先を見て、依織は胸の奥から何とも筆舌に尽くし難い感情が一気に噴き上がるのを感じた。
「──剣城」
「!」
こちらを呼ぶ声に、足元を睨みつけていた剣城の顔が持ち上がる。
「何だ──ゔっ」
つっけんどんに返事をするや否や、剣城はどしっと体に走った衝撃に声を詰まらせた。
続けざまに体を密着させて背中に両腕を回すと、剣城の体がカチンと硬直する。
「え、……な、……っ!?」
眼下で揺れる見慣れた髪色と青いリボン。依織に抱きしめられていることを理解したらしい剣城の体が急激に熱くなって、じわりと汗を掻くのが分かった。
「っ、鷹栖……!?」
「──お前の」
微かに香る整髪料と制汗スプレーの匂い。早鐘を打つ心臓の音が、どちらのものかは分からない。
依織は剣城の肩口に顔を埋めたまま、語気を強めて言った。
「お前の腹の立つ気持ちも悔しい気持ちも、私がもう一回フィールドに持っていく。剣城たちが繋げてくれた1点に、必ず応えてみせるから」
「……鷹栖……」
少しだけ剣城の声が柔らかくなり、緊張の解れてきたらしい体が身動ぎする。依織は堪えきれず、そこでぐいっと剣城の肩を押し返すようにして離れた。
「っだから、湿気たツラで応援なんかするなよ!」
剣城の胸元に人差し指を突き付け、顔を林檎のように真っ赤にしながら叫ぶように言った依織は、剣城が呆気に取られている間に勢い良く踵を返して足音荒く立ち去っていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで呆然と見送った剣城は、行場のなくなった手を見つめた後、薄く唇を開いた。
「──は」
喉の奥から苦笑にも似た音が漏れる。
依織に抱きしめられていたあの数十秒間だけ、腹の底で燻っていた怒りも悔しさも本当に綺麗さっぱり忘れていたことに気付いたのだ。
我ながら現金なものだ、と思う反面、別れ際の真っ赤な顔と真剣な瞳を思い出すと、気持ちが引き締まる。
──いま自分に出来るのは、彼女たちが勝利することを願うだけだ。
まだ少し温もりの残る胸元に掌を当てて呼吸を落ち着けた後、剣城は表情を引き締めて観客席へと戻るのだった。