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日本から飛行機で約12時間。
やけに広い空港のロビーで、彼女はイタリアの案内を買って出てくれた人物を待っていた。

「……その人のこと、もっとちゃんと聞いとくんだったな……」

時差のお陰で眠気はピークに差し掛かっている。
依織は自分の失態と鬼道の作ったギチギチのスケジュールを恨んだ。
せめて案内人の名前だけでも教えておいてくれれば良いものを。そう歯噛みしていると、ふと背後から影が差す。

「──君がイオリ?」
「ぅえ?」

イタリア語が飛び交う中で聞こえた流暢な日本語に、依織は驚いて振り返った。
そこには、窓から差し込む夕日を受けながら、一人の青年が立っている。
歳は鬼道や佐久間と同じくらいか。彼は手にしていた一枚の写真と依織の顔を見比べると、にっこり笑った。

「どうやら、そうみたいダネ。僕はルカ・パオロ。キドウに君の案内人を任されたんだ、よろしくね」
「あ……ども、依織です。……パオロ?」

どこかで聞いたことのあるような名前に、依織は首を傾げる。
するとルカはそれを察したのか、嬉しそうに肩を揺らした。

「名前だろ? キドウが所属してたチームの監督と同じだから。僕はその監督の息子で、チームの助監督をしてるんだ」
「あ、あー……」

ピタリとはまったピースに、依織は声を上げる。
確かに、言われてみると試合の中継で何度か画面の端に映るのを見たことがある気がする。テレビへの露出は少ないが、それでも地元からすれば有名人だ。道理で先程から周りの好奇の視線が痛いわけである。

「さぁ、行こうかイオリ。車の中で日本の話を聞かせてくれよ。もうあっちには10年近く行ってないんだ」

ルカはそう言うと、ごく自然に依織の手から荷物を取って先導した。
イタリア男性はフェミニストが多いと聞いていたが、なるほど確かに納得である。




空港を出ると、ロータリーに青い車が留まっているのが見えた。
ルカはその車のトランクをに荷物を乗せると、後部座席への扉を開いて微笑む。

「さぁどうぞ、Principessa」
「……ありがとうございます」

普段から女の子扱いなどほとんどされない分、ルカの気遣いはむず痒いを通り越してやりにくさすら感じてしまう。
しかし当然そんなことを口に出すわけにもいかず、依織は大人しく車に乗り込んだ。

「出発するよ〜」

やや間延びした声で言って、ルカはアクセルを踏む。
ゆっくりと動き出した風景を眺めていると、ハンドルを切りながらルカが思い出したように言った。

「そう言えば、君のお姉さんは元気?」
「え……姉さんのこと知ってるんですか?」

予想外の問いに思わず声を裏返して聞き返すと、ルカはカラカラと笑って続ける。

「そりゃあ、彼女はキドウのinnamorataだからね。トレーナーとしてチームに入ってもらってた時期もあるし、当然さ」
「はぁ……」

そう言えば彼女は、高校を卒業した年に鬼道とイタリアに渡ったのだったか。
従姉の経歴を思い出し、依織は気合いの抜けた声を返す。

「……姉さんは、まぁ元気です。ちょっと仕事でストレスたまってることもありますけど」
「仕事のストレスかぁ、彼女も大変だね」

しみじみと頷き、ルカはハンドルを切った。
視界に白い大きなホテルが入る。

「(……そもそも豪炎寺さんが失踪しなけりゃ、姉さんもあの仕事に就かずに済んだんだろうけど)」

溜め息を吐いて、依織は失速する車にシートベルトを緩めた。

日本代表のサッカー選手であり、円堂や鬼道の友人である豪炎寺が姿を眩ましたのは、もう3年近く前のこと。

プロとして活動している以上、そう易々と動けない鬼道と円堂の代わりに、単身調査のため日本へ帰国したのが従姉だ。
それから依織がこうして水面下で動くことになった経緯は色々とあるのだが、それはまた次の機会に語ることとする。

「──よし、着いたよ」

車が駐車場に停車した。
下車した依織はトランクからキャリーケースを下ろすと(流石に大量の東京土産は所望した本人に持ってもらった)、先を歩くルカを追いかける。
チェックインを済ませ、部屋へ行く途中でルカが言った。

「あ、そうだ。忘れない内に先に言っとくね。貴重品はポケットじゃなくて絶対に鞄に入れて、その鞄もなるべくしっかり持っておくこと。イタリアはスリとかが多いからね」
「は、はい……」

さらりと不安になることを言って、ルカは鍵穴に鍵を差し込む。
中へ足を踏み入れると、電気の付いてないせいか薄暗く、廊下から差し込む光が部屋の奥を照らしていた。

「さて、と。お腹空いてるだろ? 近くにおいしいところがあるから、食べに行こうか」
「あ、はい」

荷物を置くや否や、背伸びしながら言ったルカに依織は思わずそう返す。
正直なところ、今は眠気と戦っている状態なのだが空腹なのも事実。依織はルカの言う通りバックに貴重品をしまいこむと、先に部屋を出た彼の後を追いかけた。

「──実際に来て、どうだい? イタリアの街は」

目的地までそう距離はないらしい。
車を停めたまま歩いていくルカの隣を行きながら、依織は街を見回す。

「思うようにプレーできそう?」
「……それは、まだグラウンドを見ないことには」

眉根を寄せながら返すと、ルカはチチチと指を振った。

「グラウンドだけでなく、こういう場所の雰囲気も大切だよ? 例えば町の雰囲気がとってもギスギスしてたら、落ち着かないだろ?」
「落ち着かないですね」

アウェイで試合をするのと同じだよ、とルカは言いながら、「こっちだよ」と曲がり角を指差す。

「でも──そこがどんな場所だろうと、勝利を目指して戦うのがサッカープレーヤーだよネ。ああ、着いた着いた」

最後に真剣な眼差しで言い添えて、ルカは小さなレストランに入って行った。
まばたきを数回繰り返し、依織もそれに続く。
席へ着き、適当な物を注文して一息吐いたルカは、ふと窓の外を指差した。

「ほら、あそこにクリーム色の建物が見えるだろ? あれが、イタリアのサッカー協会本部だよ」
「え?」

水の入ったコップをひっくり返しそうになりながら、依織はそれに食いつく。
ルカの指差す先、少し汚れた窓の向こうにやや離れた場所に立派な建物があるのが見えた。

「テストがあるのは実質来週だけど、明日から君はしばらくあそこに通うことになってる。一応日本語が出来る人もいるけど、用心するに越したことはないよね」
「はい、……何すか、それ」

返事をしかけて、依織は口元をひきつらせてルカが懐から取り出した小さな本を見た。
日本語で伊語会話と書かれているように見えるのは、──気のせいだと思いたい。

「ここのレストラン、料理は美味しいけど運ばれるのが遅いんだよネ。それまでにまずは、日常会話が出来るレベルになっておこうか?」
「…………無理じゃないっすか?」
「さ〜て、頑張ってねイオリ!」

どうやら拒否権はないらしい。
にこやかに本を開いたルカに、依織は渋い顔で重たい溜め息を吐いた。