23

『──駄目だ』

頭の中で、重たい声が響く。
これは夢だ。ふわふわと浮かぶような心地の中、依織はぼんやりと思う。
周りを見ると、生活雑貨や家電が並ぶごく普通の一般家庭が見える。そこは、彼女が稲妻町に戻って来るまでの6年間を過ごした家だった。

『依織、お前は女の子なんだ。そんなことは、認められない』

目の前で、また重苦しい声が言う。
そこにいたのは、今よりも幾分か若い父だった。元々人相が良いとは言えない顔を更に顰め、娘を見つめている。

『女の子だからとか、そんなの関係ない。私はもうずっと前から、こうするって決めてたんだ』

止めないで、お父さん。夢の中の自分の口が、勝手に動く。
しばらく父は鈍い眼で娘を見つめていたが、やがて小さく頭垂れ、唸るように言った。

『……そこまで決心が固いのなら、仕方がない。それならひとつ、条件がある』

父の指が、すっと1本突きつけられる。
依織は無意識に、小さく唾を呑んだ──




──ピピピッ、ピピピッ。

「…………んぁ?」

僅かな電子音が鼓膜を揺らす。
音の元を手探りで辿ると、それはバックの下敷きになった携帯のアラームだった。

「夢……」

ベッドから這い上がり、依織は大きな欠伸をする。
一瞬前まで頭の中で展開されていたのは、夢でもあり、過去の記憶でもあった。彼女が今ここにいる、理由の1つになった記憶。
と、そこまで思い返していたところで、依織は「ん?」と自分のいる部屋を見回す。白くて柔らかいベッド、シンプルなソファ、大きなドレッサー。どれも見覚えがない。

目に止まった窓の外、そこから見える風景に、依織はようやっとここがイタリアだと言うことを思い出した。
ついでに、昨日の夕食時のルカのスパルタぶりも。

職業柄か、ルカは依織にイタリア語を教えることに余念がなかった。
簡単な挨拶を覚えさせられたところで、運ばれてきたパスタを巻き取っては店にある物や人で簡単な例題を考えて、依織に答えさせる。それも何度も何度も繰り返し。

そのかいもあってか、依織は短時間で多くの会話が出来るようになった──が、そちらに手一杯になったせいで、彼女は食べた料理の味がほとんど分からないまま夕食を終えるはめになった。

「……うわ、思い出したら頭痛くなってきた」

眉間を押さえ、依織はよろよろと洗面台へ向かう。
冷たい水で顔を洗うと、大分頭がすっきりする。時計の時刻は7時半。ルカが迎えに来ると言った8時まで、後30分だ。

「シャワーは……良いか、時間なくなりそう」

パジャマ代わりにしていたTシャツをベッドに脱ぎ捨て、キャリーバックから今日着ていく服を探す。
動きやすそうなポロシャツを選んだところで、ふとコンコンと軽いノックの音が聞こえてきた。

「Buonglorno! 起きてたかい、イオリ!」
「きゃあッ!?」

返事をする暇もなく勢い良くドアを開けて入ってきたルカに、依織は思わず甲高い悲鳴を上げる。
そして叫ぶのと同時にルカの顔面に枕を正確に全力投球すると言う荒業をやってのけた。

「ななななな何で入って来てんですか!?」
「ごめんごめん、朝食に誘おうかと思って」

大急ぎでポロシャツを頭から被った依織に、ルカは顔を枕に埋めたままフガフガと言う。

「そうじゃなくて、か、鍵! 掛かってたでしょう!?」
「あ、このホテル実は僕の祖父が経営してるんだ。支配人に頼んでマスターキー借りて来ちゃった」
「しょっけんらんよう!!」

向けようのない怒りをベッドに拳を叩きつけて発散した依織は、しばらくゼハゼハと慣れない続けざまの突っ込みに息を切らした後、最後に大きく溜め息を吐いて落ち着いた。

「ていうか、朝食に誘おうかとって……ありがたいですけど、せめて先に連絡下さいよ」
「いやぁ、さっき電話したんだけど出なかったから、まぁいっか〜って」

「全然良くない……」疲れた声で呟きながら、依織は携帯を開く。
確かに、5分前にルカから着信が入っている──どうやら、丁度顔を洗っていた時と被ったようだ。
溜め息を吐き、ジト目でルカを見ると、彼は枕をソファに投げながらあっけらかんと笑う。

「そう言えばイオリ、意外と女の子みたいな声もだせるんダネ!」
「ハッ倒しますよ」

立場もかなぐり捨て、依織は文字通りルカを部屋から叩き出して着替えを再開した。




目覚めから朝食を終えるまでの時間が飛ぶように過ぎた後、2人は街の中心に建つイタリアサッカー協会を目指していた。

協会に近付けば近付くほど、サッカーボールを持った少年たちが視界に入る回数が増えていく。
依織は窓から視線を逸らし、運転席のルカに尋ねた。

「そう言えば、テストって具体的には何をすれば良いんですか?」
「試験官の前で5対5のミニゲームをするんだ。即席のチームで戦うから勝ち負けは問わないけど、合格するには技術と対応力が必要とされる」

ふぅん、と呟いて、依織はそれが天馬たちの入部テストに類似していることを思い出す。

即席のチームで勝利するには、よほど他の選手と馬が合うか、頭一個分秀でた指揮能力に恵まれた選手が含まれているか、どちらかの条件が必要だ。
後者にはあまり自信がないから、出来れば前者の条件が欲しい──とは思うものの、それもきっと難しいだろう。
依織の考えは勝敗から、どのようにして試験官にアピールをするかにシフトした。

「日本ほどではないけど、イタリアの協会の中にも、サッカー絶対主義の人間が少しずつ増えているんだ」

ふと、ハンドルを切ったルカが独り言のように呟く。
バックミラー越しに見えたルカは、イタリアプロリーグ助監督の目をしていた。

「だけど、幸いなことに子供たちにはまだその考えは定着していない。だから今は、日本のキドウたちがストッパーなんだ」

頼んだよ、イオリ──真剣な眼差しで言ったルカに、依織は唇を真一文字に結んで頷く。
「さて、着いたよ」ルカは声色を元の軽やかなものに戻すと、サッカー協会の駐車場に車を停車した。

「でっ、かぁ……」

車から降りた依織は改めて協会を見上げて呟く。
高さはそれほどないにしろ、その敷地はざっと見ても雷門中より大きく見えた。

こっちだよ、と誘うルカに続き、依織は協会の大きな扉を潜る。
中は案外すっきりとした造りで、無駄な装飾はされていない。目につくものと言えば、壁一面にかけられた沢山の写真であろうか。

「これって……」
「FFIの歴代イタリアチームの写真だよ。ほら、1人2人、見たことのある選手がいるだろ?」

説明してくれたルカに、依織は小さく頷いた。
少し色褪せた写真の中であどけなさを残して笑う少年たちは、今や立派な大人になってそれぞれの道を進んでいる。

「じゃあ、受付を済ませて……とりあえず中を見学しようか」

言うと、ルカはどこか名残惜しそうに写真を眺めて受付へ歩いていった。
手早く2人分の受付を済ませたルカはすぐに戻ってくると、「グラウンドはあっちだよ」と奥の扉を指差す。
扉への道すがら、辺りを見回した依織は何となしにルカに尋ねた。

「何か……人が少ないっすね。テスト受ける子供で溢れ返ってるイメージあったんですけど」
「普通はみんなもっと早い時期に受けるからね。と言うか、そもそもイオリと同じ目的の女の子もあまりいないんだよ」

「えっ」依織は思わず立ち止まってルカを見上げる。
ルカはケタケタと笑いながら扉を開けた。

「言っただろ? イタリアの子供たちには、まだサッカー至上主義が定着してない。だから、女の子たちもそこまで……アレ?」

途中で言葉を切り、グラウンドを見たルカは首を傾げる。
疑問に思ってその視線を辿ると、少し離れた場所に白いスーツの男がうろついているのが見えた。

「あれって……おーい!」
「あ?」

大きく手を振り声をかけたルカに、男が振り返る。
サングラスを掛けているため顔はよく分からないが、少なくとも強面であることに間違いはないらしい。

男はしばらく距離を保ったままルカを見ていたが、「おっ」と声を上げるとズカズカとこっちにやって来た。
その迫力たるやまるでどこぞのマフィアのようで、依織は思わずルカの背中に隠れる。

「お前、ルカじゃねーか! 何してんだ、こんなとこで」
「それはこっちの台詞ダヨ。今日、オフのはずだろ?」

楽しげに会話を交わす二人を、依織はルカの背中からそっと覗いた。
日に焼けた色黒の肌に白いスーツと揃いの帽子、そしてサングラス。日本人のようだが、どうも見覚えがあるような気がする。

すると、こっそり観察していたのが祟ったか、男が依織の存在に気付いた。

「ん……? 何だ、コイツ」
「あ、彼女は込み入った事情があって、来週のテストを受けることになってるんだ」

言うとルカは依織の背中を押して男の前に突き出す。
「は、初めまして」その声音から明らかに男の顔に腰が引けている依織に気が付いたルカは、ブハッと吹き出した。

「ソメオカ! そのカッコじゃ子供はみんな恐がっちゃうよ」
「あァ!? んだよ、ガキに怖がられるなんて慣れてるっつーの」

そう溢しながらも、彼は帽子とサングラスを取り払う。
そして依織は、ルカの呼んだ名前と現れた顔に、あ、と口を開けた。

「……イタリアプロリーグの、染岡選手……?」
「あ? 何だ、知ってんじゃねーか」

すると染岡は一転、不機嫌そうな顔から上機嫌な笑顔になって依織の頭をぐりぐりと撫でくり回す。
だが、知っているのも当然だ。プロ選手という肩書きは勿論だが、彼は雷門中OBであり、円堂たちとサッカー部を伝説にした元雷門イレブンなのだから。稲妻町の人間で、染岡の名前を知らない人間はそうそういないだろう。

「っと、それで本題に戻るけどさ……何で君、こんなところに?」
「あ? ……だっ、忘れてた!」

一瞬キョトンとした染岡はハッとして、自分の額を叩いた。
ただ事じゃなさそうな雰囲気に、ルカと依織は顔を見合わせる。

「実はなぁ、俺の弟子が街にロードワークに行ったまま帰って来ねぇんだ。大方、道に迷ってんだろうが……」
「デシ? オデンとかに使うアレかい?」
「ルカさんそれダシです」

一言突っ込んでから、依織は「どんな人ですか?」と尋ねた。

「えーっ、と……そうだな。鰻みてーな、ちょんまげっぽい頭のヤツだ」
「チョンマゲ! Giappone サムライだね!」
「ルカさん一々ボケ挟まないで下さい。……ここまで来る道では、そんな人は見かけませんでしたけど……」

第一、そんな特徴的な人間ならすぐに目に留まるはずである。
そうか、と染岡は落胆すると、ガシガシと坊主頭を掻きむしった。

「ったく、どこまで行ってんだあいつは。携帯も繋がらねーし……」
「あ、じゃあ、良い案があるよ!」

ポン、と手を打ったルカに2人の視線が集まる。
しかし何故だか依織には、昨日知り合ったばかりにも関わらず、ルカがろくでもないことを考えているようにしか見えなかった。

「イオリ。ロードワークがてら、君がそのオデシくんを探してきなさい」
「は?」

呆けた声を上げたのは染岡の方である。
当の依織には、声を出す余裕もなかった。

「いや……いやいやいや、ルカさん。私、昨日イタリア来たばっかなんですけど」
「はい、街の地図。看板も結構立ってるし、よほどのことがないと迷わないよ」

言葉尻に被せながら、ルカは依織の手に地図を持たせる。依織は諦めきれずに言い訳を絞り出した。

「……………私、実は人見知りで」
「キドウから聞いてたけど、君は物怖じも人見知りも滅多にしない子だってさ」

詰みだ。依織は日本でふんぞり返っているだろう鬼道に、つい歯軋りをした。
ポケットに地図を突っ込み、依織はやけっぱちになって走り出す。

「ちくしょう、ルカさんの鬼! きちく!!」
「やだなぁ。君のお姉さんがキレた時には負けるよ」

悲しいことに否定ができない。
依織は涙を呑んで、楽しげなルカと哀れみの視線を向ける染岡に見送られ入ってきたばかりの扉に飛び込んだ。