「うなぎ頭……うなぎ頭……」
頭に入れたキーワードを呪文のように繰り返しながら、依織はローマの街を走っていた。
染岡の弟子を探してこいとルカに無茶ぶりをされ、協会を飛び出したは良いが、やはり自分が無謀なことをしているようにしか思えない。
「くっそ、これも有兄さんのせいだ」
誰か1人に元凶を絞らなくてはやっていられず、依織は走りながら歯を食い縛った。
既にまだ見ぬ弟子とやらを探し始めて20分近くが経過しているが、見つかる気配は一向にない。
「──じゃから、わしは何もしとらんと言っとるやいか!」
その時だ。ふと、聞き馴れたら──とは一概に言いにくい日本語を耳が拾い、依織は反射的にそちらを振り向く。
車道を挟んだ対岸の歩道にいたのは、正に自分の探していただろう弁髪のような長髪の少年だった。
しかし、問題はその状況である。
少年は明らかに困った顔をしており、その前にはこれでもかと言うほど眉間に皺を寄せた人相の悪い男が彼を睨み付けていたのだ。
「……ほんと、冗談きつい」
思わず力無く呟いた依織は、泣く泣く彼を救出すべく対岸へ渡った。
「こんちわーっす。お兄さん、あんた染岡さんのお弟子さんですか?」
「ん?」
あえて空気を読まずに、自分なりにフランクに。
どうせ彼の相手をしているのは外国人だ、日本語は分からないだろうと、いつもより言葉を崩し気味にして依織は彼に声をかける。
すると少年は染岡の名前に反応したのか、振り向くなりパッと笑顔になった。
「そうじゃが、おんし師匠の知り合いか?」
「知り合いってほどじゃないけど、あんたを探してきてくれって頼まれました」
間違ったことは言っていない。
「さぁさぁ行きましょう」と依織は男の存在を無視して少年を引っ張ったが、そう上手くは行かなかった。
「Puo aspettare e lei e una giovane. Quel individuo e la Sua conoscenza?(待ちな嬢ちゃん。あんたはこいつの知り合いか?)」
「は?」
眉根を寄せた男に引き留められ、口がひん曲がるのを感じながら依織は彼を見上げる。
ルカのそれと比べると、随分拙いイタリア語だ。依織は少し声を落として、傍らの少年に尋ねた。
「知り合いっすか?」
「いんや。この男、急にぶつかってきたと思ったら、わしが自分の財布をスッたと騒ぎだしたんぜよ」
どうりで、周囲の視線が痛いわけだ。依織は腹にたまった苛立ちを溜め息にして大きく吐き出す。
とにかく、これ以上騒ぎになるのは不味い。
「走る準備してください」と少年に小さく言って、依織は男を見上げた。
意地の悪そうな濁った目だ。依織は精一杯──覚えたてのイタリア語を駆使して──言い放つ。
「La frode puo essere fatta altrove!(詐欺なら他所でやれ!)」
「逃げますよ!」突然の暴言に男が呆気に取られている間に、依織は少年を伴って走り出した。
少年は一瞬の出来事だったにも関わらず、「おう!」と頷き彼女と並走する。
一拍置き、遥か後ろから男の怒声と足音が追いかけてきたが、流石に現役スポーツ少年少女の脚力には叶わなかったのだろう。ものの3分もしない内にそれは耳に届かなくなった。
「はぁー! 中々強引な手を使うのう、おんし!」
「仕方ないっしょ、当たり屋には歯向かわずに逃げるのが得策です」
息を整えながら答えると、「当たり屋?」と少年はキョトンと首を傾げる。
依織は呑気な様子に思わずそのペロンと伸びた長い髪を引っこ抜きたくなった。
「あれ多分、現地の人じゃないです。イタリア語、下手だったし……スられたとか、どう見ても嘘ついてましたから」
だって財布なんて、盗んでないでしょう?
振り向き様に言うと、少年は心外だとでも言いたげに大きく頷く。
「当然、わしは潔白じゃ!脱いでも良い!」
「脱がなくて良いです」
軽く頭痛を覚えながら、依織は米神を押さえた。これでは標的になるはずだ。彼はあまりに素直すぎる。
本日何度目かになる溜め息を吐き出した依織は、そこでようやく自分の目的を思い出した。
「って、そうだよ忘れてた。お兄さん、染岡さんが心配してますよ。協会に行きましょう」
「おう! 悪いのう、見ず知らずの女子に世話になるとは。おんし、名前はなんじゃ?」
「鷹栖です」
「鷹栖か! 中々気が強いヤツじゃ、気に入ったぜよ!」
からからと笑いながら背中をばしばし叩いてきた少年に、依織はふと、何故か水鳥と知り合った時のことを思い出す。
それと同時に、まだ少年の名前を聞いていないことに気が付いた。
「そういやお兄さん、名前は?」
「わしか? わしは錦龍馬じゃ! よろしく頼むぞ、鷹栖!」
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端的に言うと、錦は決して迷子になったわけではなかったそうだ。
転んで足を痛めた老人を負ぶさって家まで送り届け、道に迷った子供を助け、いざ協会に戻ろうとしたところで例の当たり屋に遭遇したらしい。
それなら予定より遥かに帰りが遅くなるわけである。
「それならそうと連絡すれば良いものを……!」
「すっ、すんません師匠〜!」
携帯は道中川に落として使えなくなってしまったのだと、染岡に頭頂部を拳で押さえつけられながら錦は痛そうな声で言明した。
一方の依織はと言うと、ルカの背に隠れて説教シーンを高みの見物中である。
「まぁ結果的に、イオリを迎えに行かせて正解だったってわけダネ。……ところでイオリ」
「はい?」
突然こちらを見たルカに、まさか自分まで説教されるのではと依織は身構えた。
しかしルカにその気はさらさらなかったようで、ただ不思議そうな顔で小首を傾げてくる。
「何で君は、その男が嘘つきだって分かったの?」
「え? ……聞いてませんか?」
何を?とルカは首を捻った。どうも依織の詳細を全て鬼道から聞いていたわけではないらしい。
「えーっと……私の特技なんですよ。人の嘘を見破る、みたいな。まぁサッカーには役立ちませんが」
「ふぅん?」
興味深げに返したルカは、顎に手を添えて何か考え込む。
そしてしばらくすると、面白いことを思い付いた──とでも言いたげな笑みを浮かべる。
「……うん。イオリ、それは君にとって最大の武器になりそうダネ」
「はい?」
思わず怪訝な顔をしていると、ルカはそんなことにはお構いなしに「おーいソメオカ!」と未だ説教を続ける染岡に声をかけた。
「その辺でオセッキョウは終わりにしてさ。どう? 僕らのデシ同士をバトルさせてみないかい?」
「はぁ?」
何をいきなり、と染岡はすっとんきょうな声を上げる。
依織からすれば、「私いつルカさんの弟子になったんだ?」と首を傾げたい気持ちで一杯だ。
しかし当の弟子の片割れ──錦はと言うと、今の今まで説教を受けていたことも忘れ、輝くような笑顔で依織を振り向く。
「何じゃ鷹栖! おんしもサッカー出来るなが!?」
「……彼は乗り気みたいダネ」
明らかにわくわくとしている錦にルカはにっこり笑って依織の肩を抱いた。
依織は拒否権を施行することも諦め、呆れた顔で彼を見上げる。
「ルカさん……どういうつもりですか?」
「言っただろ? 僕の読みが正しければ、君の特技は大きな武器になる」
君の目なら、足元のボールじゃなく未来のボールが見えるはずだよ、イオリ。
ルカはそう微笑むと、渋る依織の背中を押した。
「……まぁ、別に構いやしねえか。錦、ボールはそこのを使え」
「はい!」
頷き、ボールを取りに行く様はさながら大型犬のようだ。
丁度ボールがセンターサークルに収まったのを確認して、ルカが言った。
「そうだな……お互いボールから距離を取ってスタート。先に1点入れた方が勝ちってことでどう?」
「分かったぜよ!」
「うっす」
ボールを中心に佇んだ2人に、「何か懐かしい光景だな」と染岡が小さく笑う。
ホイッスルの代わりにルカが高らかに吹き鳴らした指笛を合図に、2人は同時に走り出した。
コンパスの関係か、先にボールに辿り着いたのは錦である。
そのままゴールに突っ走ろうとした彼に、依織も負けじと食らいついた。
「おっ、やるな鷹栖!」
「そりゃどーもっ」
よくよく思い出してみると、対人のサッカーは依織も久しぶりである。
加えて、直前のルカの言葉が妙に耳に残っていた。
「(ボールの未来とか、何だよそれ)」
前後左右、足が絡まりそうになるほどボールの奪い合いは熾烈を極める。
ボールを見逃さないように──と思ったところで、依織はふと顔を上げた。
ボールを奪い合う最中によそ見をするなど、普段は滅多にしない。依織はルカの言葉の真意を探す内、ほぼ無意識に視線をボールから──錦へ移した。
「──!」
「うぉっ!?」
瞬間、ズパッと小気味良い音と共に、依織の足がボールを浚う。
バランスを崩して転倒した錦に目もくれず、呆気に取られる染岡や笑顔を浮かべるルカの目の前で、依織の打ったシュートは無人のゴールを揺らした。
「……E meraviglioso! この勝負、イオリの勝ちみたいだね」
「錦ィ! お前相手が相手だからって手ぇ抜いてねえだろうな!」
「誤解じゃ師匠! わしは本気じゃった!」
再び錦が染岡に説教を受け始めたのを横目に、依織はコロコロと転がったボールをじっと見つめる。
そんな彼女の肩を、ルカがポンと叩いた。
「分かった? 僕の言ったコト」
「……はい。バッチリ」
今まで、あんな特技はサッカーに役立たないとばかり思っていた。事実、従姉もそれに同意していたのだ。
しかし、視点を少し変えてやれば、それは飛んでもない勘違いだったことに気が付く。
確かにこれは、依織の武器だ。
場合によっては、相手の力を自分の物に変えることすら可能になる。
「さて。鍛えるものが分かった以上、テストの日までもっとミッチリ特訓する必要がありそうダネ?」
そう言ったルカの表情は爽やかな笑顔だったが、依織は何故か少し戦慄を覚えながら頷いたのだった。