26

今この場に、静寂なんてものは無い。
聞こえるのは、耳元の風の音と歓声だけだ。

「行くぞ!」
「はい!」

神童の声に、天馬と信助が答える。
キックオフは万能坂からだ。ホイッスルの瞬間、万能坂の2トップが駆け上がって来た。

止めなければ! ──神童たちが足を踏み出した瞬間である。
トップに立っていた剣城が、相手との擦れ違い様にその足元からボールを浚った。
彼の行動に目を疑ったのは雷門だけではない。
目を見開き歯軋りした磯崎は軽く跳躍すると、勢い付けて剣城にタックルをかます。

「どういうつもりだ、剣城……!」
「……ッ」

背中でタックルを受け止めた剣城が煩わしそうに顔をしかめた。
押してくる磯崎を受け流し競り合いを避けた彼は、くるりと体勢を直して自分の後ろ──雷門陣内に鋭い球を打ち込む。

「何ッ!?」

一瞬バックパスにも見えたボールが、神童と天馬の動きを鈍らせ2人の間を通り抜けた。
「三国さん!!」そして呆気にとられる暇もなく、剣城の打ったボールはそのまま三国ごとゴールネットを揺らす。
先取点はオウンゴール──いきなりの展開に、観客席がにわかに色めき立った。
ポニーテールを靡かせ、剣城は雷門陣内を睨むような目で振り返る。

「俺が、雷門を潰す……!」
「くっ……」

攻撃的につり上がった目に、神童は顔をしかめた。
フォローに間に合わなかった信助が、三国を助け起こしながら呻く。

「邪魔してくるとは思ってたけど、まさかここまでしてくるなんて……!」
「ああ……少し、油断していた」

ぐっと手の具合を確かめるように拳を作り、三国は剣城の背中を睨んだ。
エースナンバーの10番。本来誇らしいはずの番号は、今やその影もない。

「剣城は敵……! 味方の中に、敵がいるってことか」
「こうなるってことは見えてたけどな……」

歯噛みした霧野に、車田が憎々しげに呟く。いくらフィフスセクターの指示に従うと決めていても、悔しいものは悔しいのだ。
神童はちらりとベンチでフィールドを見つめる円堂を一瞥する。

「(監督だって、この展開は予想できた筈だ。なのにどうして、あの人は剣城を試合に……)」

考えても分かる筈もない。
ふわりとした髪を揺らして頭を振った神童の背中に、倉間がゆっくりと近付く。

「神童、諦めんなら今だぞ。今なら指示通り、1対0で負けることが出来る」
「……いや。俺は決めたんだ。ホーリーロードで優勝して、本来のサッカーを取り戻す!」

前を見据えたまま言った倉間に、神童は強い口調で返して天馬と目配せした。
ここまで来たら、もう後戻りするつもりはない。ホイッスルが鳴り響き、神童は一瞬剣城に視線を投げ掛けると、素早く天馬にバックパスを出した。

「行けーっ、天馬!」
「天馬、頑張って!」

ベンチから水鳥と葵の声援が飛ぶ。
ドリブルで上がって行った天馬は、ボールをキープしたまま万能坂陣内に切り込んだ。

「(そうだ──俺は決めたんだ。勝ち続けて、サッカーを取り戻すって!!)」

「もらったぁ!」相手DFのスライディングがボールを狙う。
天馬はグッと強く踏み込み、加速した。

「そよかぜ、ステップ!!」

風を纏い味方にして、軽やかな動きで天馬は妨害を潜り抜ける。
しかし、そう簡単に進撃を許す相手ではない。
「行かせるかよッ!」フォローに入った磯崎が天馬の目の前に飛び出して、素早くボールをカットする。

「あっ──!」
「へへっ……甘いんだよ!」

ニタリと口許を歪ませ、磯崎は雷門陣内に飛び込んだ。
「白都ォ!」サイドを上がってきた仲間に合わせひどく鋭いパスを出す。そして──

「えっ!?」

寸前に曲線を描いて軌道を変えたボールは、突然のことに目を見開いた浜野に直撃した。
「ぐぁっ……!」痛々しい呻き声と共に、ボールに吹き飛ばされた浜野は患部を押さえ倒れ込む。

「浜野!!」
「浜野先輩!?」

神童と天馬、そして我に返った他の仲間たちが駆け寄ると、彼は息を整えながらゆっくり上体を起こした。

「大丈夫か、浜野……!?」
「いてて……いやぁ、あんまり正面に来たからびっくりしちゃって」

苦笑を浮かべた浜野を車田が引っ張り起こすと、ベンチは安堵の溜め息に包まれる。
それにしても、と険しい表情でコート外に転がったボールを見やったのは霧野だ。

「今のボール……単なるパスとは思えない威力だったな」
「ああ……」

短く返した神童は、少し離れたところに集合した万能坂の選手たちに視線をやる。
ふと、視線に気付いた磯崎が振り返った。
視線が交差し、ニタリとせせら笑って見せた彼に、神童は戦慄を覚える。

「(まさか、あいつら……!)」

自分の予感を確かめる間もなく、試合再開のホイッスルが鳴り響いた。
ボールは浜野にぶつかった為、万能坂の物だ。スローイン体勢に入った相手選手に、神童は注意深く注目する。

「──潮!」

ボールが投げ渡された。
「行かせない!」潮と呼ばれた万能坂選手に、天馬が果敢に向かっていく。

「くっ、……」

その瞬間、天馬は見た。
顔を歪めたかに見えた潮が、ニタリと笑ったのを。

「──!? がはッ!」

天馬が目を見開いたのも束の間、潮の打ったボールがアッパーのように天馬に直撃する。
「天馬!!」水鳥や葵が叫ぶ中、天馬はどしゃりとフィールド上に転がった。

「(今の動き……間違いない!)」

それを見た神童は、予感を確信に変える。
彼は髪を振り乱し、仲間たちを振り返って叫んだ。

「みんな、気を付けろ! あいつらは俺たちを潰すつもりだ!!」
「潰す……!?」

神童の叫びは、歓声に遮られ観客席には届かない。
にやにやと笑みを張り付けこちらを見る磯崎たちに、神童は歯を食い縛った。

「そうだ……あの時≠ンたいに……!」

思い起こす、入学式の日のこと。
突如として現れたシード──剣城は、たった一人でサッカー部を壊滅寸前までに追いやった。
その悪夢が、再び場所を変えて訪れたのだ。

「それであんなキックを……!」

ちらりと浜野を一瞥した霧野が、整った顔を怒りに歪める。
故意的に見えたあのパスは、やはり浜野を狙ったものだったのだ。

「ま、今頃気付いても遅いけどな」

ニヤリと笑った磯崎の足がボールを掬う。
「止めるぞ!」そのまま雷門陣内に潜入してきた万能坂イレブンに、神童が吠えた。

「行かせないぞ!!」

小さな手足を必死に動かした信助が、相手FWを追う。
彼──毒島はそちらを見下ろすと、躊躇なく肘を降り下ろした。

「い゙ッ──!」

ゴッ、と鈍い音と共に、信助はその場に転がる。
「信助!」思わず叫んだ天馬は、バッと審判を振り返った。しかし、笛は鳴らない。

「審判どこ見てんだよ! 反則じゃねーか今の!!」
「……審判から見えないように、味方が隠したのね……!」

拳を振りかざして怒りを露にする水鳥に対し、葵は静かに唇を噛み締める。
「隠した?」すっとんきょうな声で言った水鳥に、葵はフィールドを指差した。
審判の回りには、不自然にならない程度に常にがたいの良い選手が張り付いている。万能坂のイエローカードになるラフプレーが、全て審判の死角になるようにしているのだ。

「どんなに荒いプレーをしても、審判から見えなければ反則にしようがありません……!」
「くっ……あいつら、潰しのプロか!」

悔しげに顔をしかめた水鳥が地団駄を踏む。
これがもっと大きな大会ならば、主催側のカメラがリプレイを再生して万能坂の反則は露見するだろう。
しかし、これはまだただの地区大会。しかも主催側は雷門にとっては宿敵だ。観客席上部に据えられたカメラでは、細かいプレーは見えないだろう。

「よくも信助を!」

ベンチ陣が憤っている間にも試合は進む。
猛スピードで追いかけてきた天馬に、毒島はニタリと笑って振り返った。

「そんなとこにいたら危ないぜ!!」
「ぐあッ!!」

一度ならず二度までも、万能坂のボールが天馬を襲う。
「天馬!」悲鳴を上げた葵が口を押さえた。
その後も万能坂中の蹂躙は止まらない。1人、また1人と、雷門イレブンは傷付いていく。

「うわッ!」

3度目の攻撃を受けた霧野の足が、着地の瞬間嫌な音を立てた。
「うぐ……!」くぐもった声を上げた霧野に、葵が思わず救急箱を持って立ち上がりかける。

そしてとうとうフィールドに立っている雷門の選手は、何とか攻撃から逃げおおせた速水と──敵≠ナある剣城だけになった。

「くそっ……見てられないぜ!」

歯を食い縛った三国が、ついにゴール前から飛び出す。
フィフスセクターからの指示は1対0。ならばもうゴールを狙われることはない。

「みんな!」キーパーの役割さえ投げ出して仲間たちの元へ駆け寄ろうとした三国の意思を、──彼らはいとも容易く踏みにじる。

「あんたは引っ込んでな!!」

振り向き様、磯崎のシュートが三国を襲った。
必殺技にも引けをとらないシュートに吹き飛ばされた三国の体が、そのままゴールポストに叩きつける。

「三国先輩……!」
「お、おしまいだ……だからフィフスセクターに逆らうなんてやめた方が良いって言ったんですよぉ……!」

無惨にフィールドに倒れた仲間たちを見回し、唯一無事な速水は冷や汗を垂らした。
その時、ポン──と彼に向かって、ボールが緩やかに放物線を描く。

「ほらよ、──今度はお前の番だ」
「ッ!」

剣城の言葉は速水に向けたものか、それともその背後に近付いていた毒島に向けたものか。
次の瞬間、速水もまた仲間たちと同じようにフィールドに叩きつけられた。

「速水ィ!!」

喉が枯れんばかりに叫んだ神童の眼前で、速水はボールの直撃した鳩尾を押さえ呻いている。
まともに立っているのは敵だけだ。神童は唇を噛み締めて俯く。

「(俺のせいだ……俺が、勝つなんて言ったばかりに……!)」

自分の不甲斐なさに涙が滲みそうになったその時、頭上から影が射した。
それが、救いの手であるわけがない。

「あばよ」
「……!」

磯崎の足が、自分目掛けて振り抜かれる。
「神サマ!」傾く視界をまるでスローモーションのように見ながら、神童の視界に息を詰めて顔を覆う茜の姿が見えた。