「おかえり、依織ちゃん」
柔らかな空気を孕む彼女の微笑みは、幼い頃の記憶に僅かに残る母のものとよく似ている。
「──友達、出来ました」
時刻は午後7時を回っている。ふとニュース番組を流すテレビを何となく眺めながら、依織は思い出したように口を開いた。
「そう、良かった」夕飯のカレーをスプーンで掬いながらホッとしたように微笑むのは、依織の正面に座った20代半ばの女性である。
「依織ちゃんはしっかり意思表示が出来る子だもんね」
「いしひょうじ?」
自分の意見をちゃんと言えること、と注釈を加えた彼女に、依織はふぅんと頷く。
11歳年の離れた彼女は、依織の従姉である。先日九州から上京した依織は、今は訳あって彼女と同居していた。
「私が依織ちゃん同じ年頃の時は、あんまりそういうの出来なかったから大変だったんだよ」
「……いしひょうじが出来ない姉さんなんて、想像できない」
人参を細かく砕きながら呟く依織に、彼女は小さく笑う。
幼い頃から従姉のしっかり者の面しか見る機会のなかった依織にとって、彼女にそんな子供時代があったとは想像しがたい。
「……ああ、そうだ。その友達とサッカーもしたんです。やっぱりすぐバテちゃったけど」
「サッカーを?」
コップを傾けた従姉の視線が、自然と電話機の脇に置いてある写真立てへ投げかけられた。
9年前に撮ったというその写真は、まるで昨日撮ったばかりのように色褪せずそこにある。
「うん──だから、また私も体力作り始めようと思って。今はうるさく言うお父さんもいないし」
「もう、そんなこと言わないの。叔父さんも依織ちゃんを心配してくれてるんだから。……でも、本当に良かったの?」
お父さんに着いて行かなくて──従姉が少し声のトーンを落として尋ねると、依織はキョトンとする。
そして、「もちろんです」と戸惑いもなくあっさり言ってのけた依織に、彼女は叔父が少しだけ可哀想になった。
「だってイギリスとか遠いし、どうせお父さんもたまにしか帰ってこないだろうし……あとイギリス語? 覚えるの面倒くさいし」
「一番最後のが主な理由ね……」
溜息混じりに呟いて、彼女はがくりと肩を落とす。
依織の父親は、IT企業に勤める会社員だ。数ヶ月前に海外支社の支部長へ昇進が決定し、現在イギリスへ単身赴任中である。
「……でも、そうだね。来年のためにもやっぱり体力は付けておかなきゃ。また一緒に特訓する?」
「ううん、姉さんも忙しいし……それに、姉さんの特訓はどっちかって言うと、……うん」
言葉尻を濁した依織が言わんとすることを察したのか、彼女は苦笑いした。
自分のする訓練の内容がサッカーというより格闘技寄りだということは、彼女自身も十分承知している。
「──あ。でもだからって、有兄さんには頼まないで下さいよ?」
「…………依織ちゃん」
思わず目を細めると、依織はうっと唸って表情をひきつらせた。
溶けたじゃがいもをひとつ口に放り込み、もごもごと咀嚼しながら依織は恨み言のように低い声で呟く。
「……姉さん。私はギリギリまで、有兄さんを許さないんです」
「……」
半ば呆れたような視線を受けながらも、依織は怯まず顔を上げる。そして、構えたスプーンの先で従姉の指に輝く銀の輪を指した。
「その指輪が結婚指輪になるまでは私、有兄さんを」
「はいはい。そろそろ100回目になるかもね、その台詞も……」
綺麗に中身の無くなった皿を二人分片付けながら、従姉はさっさとキッチンへ引っ込む。
彼女にこの宣言を流されるのも、そろそろ50回を越えそうだ。依織は難しい顔で口を尖らせた。
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入浴を済ませ、ソファに深く体を沈める。
ホットレモンティーを淹れてやって来た従姉が、「ねぇ、依織ちゃん」と控えめに口火を切った。
「しつこいようだけど──本当に良かったの? 私と一緒で」
「良いんです」
テレビのリモコンのスイッチを押すと、丁度観たかったスポーツ番組が画面一杯に映し出される。
今夜は来月から始まる中学生サッカー大会──ホーリーロード地区予選を取材しているらしい。
「姉さん。私、サッカーが好きなんです。だから私は、今のサッカーが絶対に間違ってるって思う」
眉間に僅かに皺を寄せ、従姉は再び写真立てに視線をやる。輝かしい過去の栄光、素晴らしい思い出。あの時は、こんな未来が待っているなんて思いもしなかった。
依織はテレビから目を離さないまま、淡々と続ける。
「来年、私が……私たちがやることが、危険なことかもしれないって分かってます」
だけど、それでも。そこで言葉を切り、依織は少し温くなってしまったにレモンティーを呷る。
「──いや、違うか」
空になったカップの白い底を眺め、彼女は独り言のように呟いた。
「だからこそ℃рヘ姉さんについて行く。姉さんがいたから私はサッカーが好きになって、姉さんがいたから有兄さんにサッカーを教えてもらえたんだから」
彼女は、依織の深い色をした瞳を見つめる。
依織はまだ12歳にも満たないような子供だ。あの頃サッカーに出会った頃の自分より幼く、しかし──固い意志を持っている。
やがて彼女はゆっくりと息を吐き出して、分かった、と頷いた。
「そうだね……依織ちゃん、サッカー大好きだもんね」
「もちろんサッカーと同じくらい姉さんも大好きです」
「はいはい、ありがとう」
目元をキリリとさせて言う依織の頭を撫でて、彼女はテレビに目をやった。
取材をしているリポーターを始め、今のサッカー界の事情を知らない者たちは、この試合の結果が初めから決まっているなんて思いもしないことだろう。
「……そう言えば依織ちゃん」
「はい?」
「宿題は出なかったの?」
「…………あっ」