依織が今のサッカーに違和感を感じたのは、それこそ初めからだった。
1年前、長期休みを利用し従姉の家へ遊びに来た晩にテレビで放送されていた、ホーリーロードの特集番組。
それを観た依織は、呟くようにこう言ったのである。
『何かこの試合……気持ち悪い』
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「私も姉さんみたいにサッカーに観察力を使えれば、もっと楽に特訓出来たかもしれないのに……」
「まぁまぁ、そう言わないの。今でも立派に役立ってるじゃない」
それに、自分のことは自分じゃ見えないこともあるんだから──そう言いながら、従姉は依織の足下で踊る古びたサッカーボールを眺めた。
ぼん、ぼんと壁にぶつけては蹴り返し、ぶつけては蹴り返し。一度その繰り返しを中断し、依織は首筋を伝う汗を拭う。
「でも、サッカーじゃ役に立ちませんよ。他人が嘘ついてるかどうか分かるなんて」
「そう? 使い方によっては十分強みになると思うよ」
ニコニコと笑う彼女に、依織は溜息を吐きそうになった。
家庭の事情で一時期叔母一家の家に厄介になっていたのはもう6年も前のことだ。
元来母方の血筋が観察力に優れた家系だったのか、それとも従妹の影響を受けたのかは知らないが、依織は4歳にしてその才能を開花させたのである。
──しかしである。
「昨日なんて、危うくあだ名が嘘発見器になりかけたんですよ……」
「良いじゃない、クラスに馴染んだ証拠だもの。……でも確かに、そのあだ名はちょっと嫌かもね」
依織の観察力が、従姉のようにサッカーに活用されることはなかった。
その代わり彼女が長けたのは、他人の感情を読みとる力。特に、嘘をついているか否かを見抜く観察力。
直感と言っても良いかもしれない。目を見ると、何となく相手の感情を感じ取ることが出来るのだ。
これはこれで確かに便利な力ではある。しかし、従姉に憧れる依織としてはあまり面白くない。
「……でも、姉さんがそこまで言うなら諦めます」
「はいはい」
依織が今度こそ溜め息混じりに呟いたその時、リビングから電話の呼び鈴が鳴り響いた。
「? 誰だろう」
「有兄さんからのラブコールですかね」
「からかわないの!」口を尖らせてそんなことを言う依織を、従姉は少し顔を赤らめて小突く。
パタパタと電話に走る従姉を見送り、依織は時計に目を向けた。
「……あ、やっべ。姉さん、私そろそろいってきます」
「はーい、いってらっしゃい」
慌てて鞄を担いで玄関を飛び出していった依織を見送り、彼女は改めて受話器を手に取る。
「はい、もしもし……」電話口から聞こえた声に、彼女は花が咲くように頬を綻ばた。
「──はい。おはようございます、有人さん」
教室に滑り込んだ瞬間、鳴り響くチャイムの音。
息を切らしながら席に着いた依織に、隣の席の葵が苦笑した。
「またギリギリだね、依織。毎朝、何してるの?」
「ん、あー……体力作り?」
「何で疑問系なのよ」小首を傾げる葵に、さあね、と適当に返した依織は大きな欠伸をする。
体力作りというのは間違っていない。ただ、従姉の指導の元サッカーの特訓をしていることは、来年起きることのためになるべく内密にしたいのだ。
「そういえば、また天馬が膨れてたわよ。依織がサッカーの相手してくれないって言ってさ」
「ええ……面倒だなぁ、もう」
「やっぱりどうしても諦めきれないんだって。ここ数年学校で天馬のサッカーの相手まともにしたの、依織が初めてだったし尚更かもね」
教科書を出しながら、葵は小さく笑う。昼休みになれば、また天馬が教室に飛び込んでくるだろう。
依織、今日こそ練習に付き合って!──彼のその台詞を聞いたのも、もう何回目だろうか。
依織が転校してきてから既に1ヶ月近く経っていたが、天馬は休み時間になる度に依織をサッカーに誘い、その度に断られていた。
1回目の誘いを断った時の天馬の顔の酷いこと。それはもう言葉では言い表せない程だった。
「それにしても、何だか変な感じ。来年の今頃には、私たちって中学生になってるんだよ」
「時間が過ぎれば歳もとる。自然のせつりってやつだろ」
「依織って結構ドライよね……」
顔をしかめた葵の言葉に、依織はぐっと背伸びしながら呻き声を返す。
お前もたまにはもっと子供らしいことを言えば良いのに──と昔一番上の従兄が言っていたのを思い出した依織は、眉間に皺を寄せて鼻を鳴らした。
「言っとくけど葵……情熱的な私とか、多分物凄い気持ち悪いぞ」
「……そ、それもそうね」
真剣な表情で同意され、そこは否定してくれよ、と僅かに顔をしかめた依織に葵は小さく吹き出す。
ふと、廊下からペタペタと担任のものと思しき室内靴の音が聞こえてきて、教室のざわめきが少し小さくなった。
案の定、次の瞬間引き戸をがらりと開けたのは担任で、「みんな席つけー」という少し気怠い声に、教室に椅子を引く音が溢れかえる。
「(中学生、ねぇ……)」
くるりとシャーペンを回しながら、依織は担任の声に耳を傾けるのも程々に、小さく欠伸をした。
葵も、そして天馬も。今のサッカー界の水面下に潜むものを知らない。知らぬが仏とは言うが、2人のことだ。いつしか真実を知ることになるだろう。
サッカーのことも、依織の役割も。
「(なぁんでこんな面倒臭いことになったのやら)」
そんなことは、今のサッカー界を牛耳る人間に訊くしかない。
だけどそれは、大人の役目だ。自分はただ、自分の信じるサッカーをすれば良いだけ。
そうすれば道は開ける──そんなことを言っていたのは、誰だっただろうか。悪人染みた笑顔を思い出した依織は、苦虫を噛み潰したような顔になった。
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──それから春は過ぎ、夏が来て秋が訪れ、冬を越す。
月日は流れ、依織が天馬や葵と友人になって早いもので丸1年が経った。
「じゃあ、いってきます」
真新しい革靴に足をつっこみ、依織はあの頃より少し長くなった髪を靡かせ玄関を振り向く。
しかしその先には誰もいない。従姉は既に新しい仕事≠フ為に家を出発していた。
「……いざ戦場へ」
なんちゃって。真顔でそんなことを呟いて、依織は扉の鍵を閉める。
小さな庭に転がるのは、使い古したサッカーボール。あれとも少しの間お別れだ。
「さてと……行くとしますか」
能力も体力も、この1年でかなり成長したと従姉も言ってくれた。彼女のお墨付きなら間違いない。
爪先で地面を蹴り上げ、凪いだ髪が揺れる。耳元で騒ぐ風は、依織の心を自然と逸らせた。
「──あっ! おーい、依織ー!!」
「ん?」
こうして彼女の物語は、そよ風と共に幕を上げる。