白魚のようなすべやかな手がマウスを操る。
極力音を立てないようにと気を付けていても、周囲を警戒している中ではどんな小さな音でも耳に届く。慎重にマウスを動かす手が、僅かに強張った。
クリック音と共に現れた数字の羅列は、パスワードをいくつか入力するとあっさり姿を消していく。
ほっと小さく息を吐いた彼女は、あとはデータベースを転送して履歴を消去するだけだ、とある1つのファイルを開いた。
「! これは──……」
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暑い日差しが照りつける。
ホーリーロード地区大会決勝まで、残り2日を切った。対戦相手が決まったのは3日前のことだ。
海王学園。それが雷門が次に倒さなければならない相手の名である。
「うわぁッ!」
どしん、とフィールドの隅で天馬が強かに体を打ち付けた。
対峙した剣城は風で乱れに乱れた髪を撫で付けながら、えっちらおっちら起き上がる天馬を険しい目付きで窺う。
あれから毎日練習の度天馬に付き添っているが、変わらず天馬の化身が発現する兆しは見えない。
「(あれは、化身じゃなかったのか……?)」
考え込んでいる中、円堂が腕時計をちらりと見てホイッスルを吹き鳴らした。
どうやら集中している間にかなりの時間が過ぎていたらしい。時計の針は17時を指している。
「よーし、今日の練習は終わり! 戻ってこい!」
「みんなしっかり水分補給してくださいね〜!」
やっとこさ、と言った風に息を吐き出した選手たちはマネージャーからジャグとタオルを受けとると、各々ゆったりとベンチに腰を下ろした。
そんな中、突然ピリリ──と鋭い電子音が空気を裂く。
「ん? 誰の携帯だ?」
「……すいません、私です」
片手をヒラリと上げのは依織だ。
「活動中はマナーモードが原則だぞ」と神童が渋い顔をしたが、鞄からオレンジ色の携帯を取り出した彼女の表情は何故かそれ以上に険しい。
「今回だけ許してください、緊急なんです。──もしもし、久遠さん」
「……!?」
突然飛び出した聞き慣れた名前に、雷門イレブンたちに動揺が走る。
「何で久遠監督が?」眉を顰めた神童を目線で制しながらも、依織は口を動かすことを止めない。
「ええ、データベースの転送は成功したんですよね? ……そう、海王の。……え?」
それまで飄々としていた依織の声が、一気に固くなるのが分かった。
天馬たちが固唾を飲み見守る中、彼女は数度言葉を交わし、携帯の電源を切ると、大きく溜め息を吐いて仲間たちに居直る。
「……ちょーっと面倒なお知らせが入ってきましたよ」
「何だ?」
傍らで様子を見守っていた円堂が尋ねると、依織はちらりと彼を見上げ、もう一度仲間たちへ向き直って口を開いた。
「海王学園の生徒は、全員シードで構成されているそうです」
「ッ全員、シード……!?」
声を上げた霧野を筆頭に、それぞれの表情が水に一滴の絵の具を垂らしたように変化していく。
一気にざわめき始めたテクニカルエリアで、車田が一際大きな声を上げた。
「ってことは……全員化身使い!?」
「それは違う」
間髪入れず、否定の言葉が入る。
答えたのは、1人冷静な表情で依織の話を聞いていた剣城だった。
「そうなのか?」不思議そうに首を捻った三国に対し小さく頷いた彼は、訥々と言葉を続ける。
「そもそもシードとは、フィフスセクターが各学校に送り込む監視者のことだ」
その学校が、フィフスセクターの指示に従っているかどうか──それをサッカー部の中から監視するのが、シードの役割。
剣城がやろうとしたように、力で強制的に従わせようとするシードもいれば、帝国の御門たちのように正体を知られないよう隠密に行動し、チームを内部からコントロールするシードもいるのだ。
「つまり……相手がシードだからって、全員が化身使いじゃないってことか?」
「──だが、油断は禁物だ」
探るように尋ねた車田に、剣城は険しい──警告するような口調で続ける。
「シードはみんな、フィフスセクターで特別な訓練を受けたサッカープレーヤーだ。それぞれが恐るべき身体能力を有している」
「全員、シード……」
しん、とその場に重たい沈黙が降りた。
今まで戦ったチームにも勿論シードはいたが、それもそれぞれ片手で数えられる程度。
しかし、その少人数を押さえ込んで勝利をもぎ取るのにどれほどの苦労を費やしたかなど、彼らが一番よく知っている。
それが、11人もいると言うのか。
「……面白いんじゃね?」
沈黙を破ったのは、あまりに予想外な言葉だった。
えっ、と目を白黒させた速水が、それを言った張本人──のほほんとベンチに背もたれている浜野を凝視する。
「だって、どうせやるならそっちの方が盛り上がるじゃん?」
浜野は仲間たちの驚愕の目を物ともせず、爪先でボールを弄びながら軽い調子で言って立ち上がった。
「シード揃えてくるってことは、それだけフィフスセクターもマジってことだし……そいつら倒したら、一気に革命成功しちゃったりして! なははー」
しばし、間。
浜野の空笑いが続く中、ふとその場の空気が変わった。感化されたような、スイッチが切り替わったような。
「確かに、勢いはつくな!」
「はは──へっ?」
始めに乗ってきたのは、車田だった。
浜野としては、「何を悠長なことを」と怒号が飛んでくるのを予想していたのだろう。これを切欠に少しでも場の空気が和やかになれば御の字、と言うぐらいの気持ちで。
しかし予想とは裏腹に、完全にスイッチの入ってしまったらしい仲間たちを見回して、彼は半笑いのまま目を瞬く。
「一気に革命か……!」
「流石、浜野先輩!」
「えっ。…………ま、まぁな!」
挙げ句の果てには天馬に輝く純粋な目で見上げられ、結局その場の勢いに乗ることにしたのか、浜野は首を捻りつつもカラカラと笑った。
「よし、そうと決まれば練習だ!」
「おーっ!」
導火線に火がつけば後はその勢いで燃え上がるだけだ。一番にやる気を見せている車田を筆頭に、雷門イレブンたちは日も落ち始めているにも関わらず一斉にフィールドへ駆けていく。
──ただ1人。速水だけは、ベンチに浅く腰掛けたまま小さな膝小僧を頼りなさげに見つめ続けていた。
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「天馬、化身出せると思うか?」
日も傾いた午後18時。
日付は変わり、海王との試合まで1日を切っている。
いつの間にか依織と並んでに病院に行くことが日常と化した剣城は、ふと思い出したように話しかけてきた彼女をちらりと見た。
「……さぁな。そろそろ、あれが化身かどうかも疑わしくなってきたくらいだ」
「でも、確かに見えたんだけどな……ま、もしかしたら天馬のやり方が悪いだけかもしれないけど」
「あいつ覚えるまでの要領悪いし」さらりと吐かれた毒に、確かに、と小さく笑みが込み上げる。
一拍遅れ、それに気付いた剣城が苦虫を噛み潰したような顔をしていると、ふいに後ろから声が掛かった。
「剣城、鷹栖。お前たちもこっちだったんだな」
やや小走りに駆け寄ってきたのは、霧野と神童である。
神童の片手には、今しがた本屋から出てきたらしい書店の紙袋が抱えられていた。
「ええ、まぁ……先輩たち、寄り道っすか?」
「ん? ああ、これか。今日が発売日だったからな」
「最近すぐに売り切れてしまうから」と神童が見せてくれた紙袋には、依織もよく読んでいるサッカー雑誌が入っている。
そう言えば太陽が今月号の付録のポスターを欲しがっていたな──とどうでもいいことを思い出した依織は、2人に合わせ歩調を少し変えて歩き続けた。
「ところでキャプテン、明日はいよいよ予選決勝ですが、自信のほどは」
「何の遊びだ、それは」
手を拳にして、見えないマイクを傾けた依織に苦笑いする神童の隣で、霧野がクスクスと肩を揺らす。
──それを視界に入れながら、半歩後ろを歩いていた剣城はそっと足元に目を落とした。
「そうだな……何にせよ、やるしかないのは変わらない。──ただ、みんながみんなそう思ってるかが……」
「ああ……速水のことか?」
思い当たる節があったようで、尋ねてきた霧野に神童は小さく頷く。依織や剣城にも、速水の変化は何となくではあったが察していた。
「レジスタンス行ってから、覇気のない感じに拍車かかりましたよね。速水先輩」
「あいつのことだ、腰が引けてしまってるんだろう。速水はちょっとネガティブなところがあるから」
そうだな、と同調しながら神童は肩を落とす。
速水がネガティブなのは今に始まったことではない。しかし、今回ばかりは話の大きさが違う。腰が引けるのも分かるが──今は、弱音を吐く暇などないのだ。
「厳しいかもしれないが……今回は本人が解決するしかない」
「……どちらにせよ、ここで覚悟を決めておかないと、後が辛いだけだ」
呟くように言ったのは、今までだんまりを決め込んでいた剣城だった。
その目は相変わらず足元ばかりを見つめているが、──どこか、決意を固めたような光を宿している。
「……そうだな。だから、勝つしかない。当然、明日の海王にもな」
「そう簡単に行くと思うか?」
──ふいに、聞いたことのない声が、茜色に染まった景色に反射した。
自然と、目は前へ。声のした方向へ向く。
そこにいたのは、複数人の少年たちだった。
集団を従える髪を逆立てた少年が、逆光に輪郭を溶かしながら、にやりと──明確な敵意を持って、口角を上げる。
「お迎えに来てやったぜ、──裏切り者!」