「時は──満ちた」
明かりのない聖堂に、窓から太陽の光が差し込む。
微笑みをたたえた聖母の像を背にして佇む神父の足元には、フードを深く被った男が跪いている。その表情は、暗がりに隠れ窺うことは出来ない。
「例えこの身を滅ぼすことになっても構わない。自らの信じる物の為に、私は全てを差し出し希う」
ステンドグラス越しに差し込む光が、男のイヤーカフスの装飾を煌めかした。
神父は憂いの混じる小さな瞳で男を静かに見下ろし、こう問い掛ける。
「全てを差し出す……? それほどまでに大切な願いと言うことでしょうか」
「はい。どのような犠牲を払ってでも、叶えなければなりません」
男は一切躊躇する様子を見せず、答えた。
神父は悲しげに眉根を寄せると、口髭に隠れた唇を引き結び小さく頷いてみせる。
「──そうですか……それは貴方にとっての、宿命なのですね。ではお告げなさい。貴方のその願いを」
男は、ゆっくりと立ち上がった。
漆黒の瞳の奥で、真っ赤に燃える炎がゆらりと揺らめく。
「私は──サッカーを、支配する」
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──春。
桜の花びらが風に舞い、新しく始まる生活に人々はそれぞれの思いを募らせる。
そんな中、暖かい空気に誘われるように、軽やかな足取りで春風を切って道を走る子供が2人。
「ちょっと待ってよ依織、何で逃げるんだよー!?」
「追われたら逃げる、それが生き物の本能だバカ野郎」
──正確には、軽やかとはほど遠い。
辺りに咲く蒲公英の綿毛を丸ごと持って行かんばかりの全力疾走で、2人は走っていた。1人は松風天馬。そしてその前方を走るもう1人は鷹栖依織。共に、今日から雷門中学校に通う1年生である。
「──っよし! 捕まえた!」
「ちっ、やっぱり天馬相手じゃ逃げ切るのは無理か……」
腕をがっしりと掴まれ、盛大に舌打ちする依織に天馬は気にすることなくニコニコと笑った。
中学に上がることがそれ程までに嬉しいのだろう。実際、理由はもっと他にあるのだろうが。
「それにしても、珍しいよね! 依織がこんな朝早くから登校するなんて」
楽しみで早く家を出ちゃったの?と訊ねる天馬に、「お前じゃあるまいし」と呆れながら依織は肩を竦めた。
「入学式の前に用事があるから、早く済ませようと思っただけ」
「依織も? 実はね、俺もそうなんだ!」
大はしゃぎする天馬の傍ら、依織は首を傾げる。こんなにはしゃぐ要素のある天馬の用事とやらが、彼女には思い当たらない。
「サッカー部! 入学式の前に、ビシッと入部を決めときたくて!」
「……はあ」
後から行って定員オーバーだったら困る、と拳を固めた天馬に、依織は覇気のない声を返す。
部活動の入部は、普通入学式よりも後にするものなのでは──という考えを今の彼に言うのは野暮というものだろう。
「というか、依織もサッカー部入るよね!? 小学生の時は、結局片手で数えるくらいしか相手してくれなかったし……!」
「あ? おい、天馬……」
「そうとなったら依織、一緒に行こう! 早く入部届け出さなくっちゃ!」
一度こうなってしまうと、人の話が聞こえなくなるのが天馬の悪い癖だ。
半ば引きずられるような格好で天馬に腕を引かれながら、依織は心の中で面倒なことになったと呟くと同時に、今頃登校の準備をしているであろうもう1人の友人を思った。
「(葵、助けてくれ……)」
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さわさわと風に揺られた桜が、花びらを落とす。
目の前に佇む大きな建物に、天馬は喜びで頬を紅潮させた。
「ついに来たぞ……雷門中だ! サッカー、やれるんだ!」
大きく息を吸い込んで、天馬は頭上を見上げる。
町のシンボル、そして学校の校章でもある、大きな黄色い稲妻。何年も前から憧れだった学校を前に、天馬のテンションは早朝にも関わらず絶好調だ。
「憧れの雷門マーク! やっぱこれだよなぁ……さすが名門、感動だよ……! ねっ、依織!」
「ねっ、──じゃねーよ、ボケェ!」
瞬間、浮かれる天馬の尻に依織のミドルキックが炸裂する。
「いってー!」悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ天馬に、依織は肩で息をしながら大粒の汗を額に浮かせ、顔をひきつらせている。天馬に引っ張られての全力疾走、その間十数分。
引っかかった信号の数は0だ。
「お前の全力疾走についてくことが私にとってどんだけ死活問題か分かるか天馬。あァ?」
「う……ご、ごめん」
表情は動いていないが、ドスの利いた声で顔に暗い影を落とす依織に、天馬は僅かに身震いする。怒った依織は、人が変わったのではないかと思うほど怖いのだ。
深呼吸して息を整える依織の様子を伺いながら、天馬は立ち上がる。
「ホントごめん、依織。俺、待ちきれなくってさ……」
「はぁ。もう良いよ……」
彼がこの日をどれだけ心待ちにしていたかは依織も分かっているつもりだ。平静を取り戻し溜息を吐く依織に、天馬の顔に再び光が戻ってきた。
天馬は辺りを見回して、「そうだ!」と依織に向き直る。
「ねぇ依織、入学式まで時間あるし、ちょっと中を見学してみない? 俺、サッカー部の部室、見ておきたいんだ!」
「……悪いけど、私はパス。さっきも言ったろ、用事があるって」
「あ、そっか」天馬はしょぼんと肩を落としたが、すぐ復活した。じゃあまた後で、と言い残し、天馬は元気よく風のように走り去っていく。
「……ふぅ」
ひとつ息を吐いて、依織は改めて校舎を見上げた。今日からここが学舎であり、戦場になる。目を細め、彼女は校門を潜り抜けた。
辺りをゆっくりと見回しながら、構内へと足を踏み入れる。
始めに向かうのは職員室だ。まだ入学式が始まるには大分早い時間である。廊下に人の影はほとんど見当たらない。
「……いない」
他の教員たちに気付かれぬよう、窓から室内をそっと覗いて小さく呟き、依織は職員室の扉から離れる。
ふと、2人の教師が何か話し込みながらこちらにやってきたことに気が付いて、依織は支柱の影に身を潜めた。
「──久遠さんは、また理事長たちの呼び出しみたいだな」
「完全に目を付けられてしまっているからな……気の毒に」
2人の姿が職員室に消えたのを確認して、依織は丁度すぐそばにあった校内案内図を見上げる。
理事長室はこの棟の3階にあるらしい。依織は階段を見て、ふむ、と顎を摘まんだ。
「(初日からこんな隠密行動する羽目になるとは……)」
壁沿いをゆっくりと歩きながら、依織はもう一度溜息を吐く。
音をなるべく立てないように階段を登り、廊下へ出ると一際重たそうな扉が見える。しかし、そこへ向かう途中でその足はピタリと動きを止めた。
「(またかよ、面倒だな)」
階下からドタバタと忙しなく聞こえてきた足音に舌打ちする。仕方がない、ここで見つかった時の方が面倒だ──内心そんなことを考えながら、依織は駆け足で階段を駆け上がり、4階の屋上へ続く踊場に隠れた。
死角に身を隠した次の瞬間、丁度良く息を切らしながら現れた教員であろう男が、理事長室に飛び込んで行く。
それから間を空けず、開け放した扉から聞こえてきた悲鳴のように引き攣った言葉に、依織は眉を顰めた。
「大変です!す、すぐにグラウンドへ来て下さい!サッカー部が、サッカー部が大変なことに……!」
「何ですって?」
──サッカー部が。眉根をひそめ、依織は丁度そばにあった窓から外を窺う。グラウンドでは何故か大量の砂埃が舞い、ここからでは何も見ることが出来ない。
「……おっと」
理事長室から慌ただしく出てきた人影に、依織は窓から離れ、再び素早く踊り場に隠れる。
出て来たのは先程の教員を含めて4人。その最後尾を行くのが目的の人物であることに気付いた依織は、ゆっくりとその背中に近付いて囁いた。
「──久遠さん」
「! お前か」
肩越しに一瞬こちらを振り向いた男、久遠は依織と視線を交わし直ぐさま前へと向き直る。
時が来るまで慎重に動けよ──前を見たまま小さな声で返ってきた言葉に頷いて、依織は前方の3人に気取られない内に久遠から離れる。少しずつ近付いて来た玄関からは、生徒たちのざわめく声が聞こえた。
「うわ……」
表に出た瞬間、目の当たりにした光景に依織は思わず顔をしかめる。
グラウンドは数分前の整備されていた姿は見る影もなく、戦場のように荒れ果てていた。
ボロボロになって地面に這い蹲るのは、白と黄色のユニフォームを身に纏う、サッカー部員。そしてその真ん中に──改造した学生服をマントのように靡かせた鋭い目つきの少年が1人、悠々と佇んでいる。
「──フン。この程度か」
「な、何てことを!」少年が小馬鹿にしたように鼻を鳴らして呟くと、我に返った教員が顔を青くしながら久遠を引き連れて彼に駆け寄った。
少年は慌てきった大人を見ても特に動揺する素振りは見せず、涼しげな顔で2人を見上げる。
「フフ……雷門サッカー部は、俺が破壊した」
「こ、こんなことして君! クラスと名前を言いたまえ!!」
震える声を張り上げた教員に、少年は肩を竦めて「さぁ、今日からなので」と軽い調子で答えた。
同い年かよ、と物陰に隠れた依織が呟くその一方、ここで初めて久遠が口を開いた。その表情に、少年に対する焦りはない。
「新入生か。名前は」
「──剣城京介」
あんたが久遠監督か──と、剣城は今までよりも僅かに鋭くなった視線を久遠に向ける。
ざわりとした空気がその場を支配したその時だ。
「……ん?」
依織は物陰から顔を出し、少し離れた場所を伺う。誰かがハッと息を飲む声がしたのだ。あれは、と呟く彼女の視線の先にいたのは、見知った女性教員の顔。
そして、その隣には。
「……嫌な予感しかしねぇ……」
驚いた顔でグラウンドを見下ろす、天馬の姿があった。
大急ぎでグラウンドへ駆け下りていった教員──音無春奈に天馬が慌ててついて行くのが見えて、依織は溜息を吐いて片手で顔を押さえた。
サッカーのことに事関しては熱い天馬のことだ。依織は目に見えるこの先の展開に、どうしたものかと腕を組む。
そうこうしている間に春奈は久遠に駆け寄って、剣城に向かい目尻をキッとつり上げた。
「久遠監督! ──ちょっと君、喧嘩しちゃ駄目じゃない!」
「ケンカ? ……俺ケンカなんてしたっけ」
なぁ──と、剣城は地面に倒れたサッカー部員たちを尊大に見下ろす。
その内の赤いもみあげの少年が、震える腕で体を支えながら起きあがった。その表情には隠しきれない苦悶と悔しさが浮かんでいる。
「……こいつは、一度も拳を使っていません。そのサッカーボール1個で、俺たちを……」
その瞬間、風に押されたサッカーボールがコロコロと剣城の足元へ転がる。一同の視線が、一気にそのボールへ向かった。
「何故こんなことをする……!」
「サッカーなど必要ない。だからこの俺が潰す」
僅かに語気を強めた久遠の問いに剣城が間髪入れず答えると、天馬の肩が揺れる。
生ぬるい風が、木々を揺らした。
「今日限り、サッカー部は廃部だ」
「廃部って……! そんなこと、出来ると思っているの!?」
「出来るさ。この俺にはな」
周りのギャラリーは、あまりの展開に矢継ぎ早に繰り広げられる会話を聞くだけしか出来ない。
あくまで自信を持ってのたまう剣城に、春奈は険しい表情で言葉を続けた。
「何かサッカー部に恨みでもあるの?」
「恨み? さぁな……」
ただ1つ言えることは──と指を1本伸ばし、剣城は言葉を切る。ボールを足の甲で持ち上げながら、彼は続けた。恨みの籠もった目で、焦燥の混じった声で。
「サッカーなんて下らねえモンは──必要ねぇ!!」
最後は、叫びと共に。
打ち出されたボールは天高く弧を描き──数10メートルは離れているだろう、ゴミ箱の中に落下した。
春奈はしばし動揺と驚きに目を見開いてゴミ箱を見つめていたが、我に返り怒りの籠った目で剣城を睨む。
「ッ君! サッカーを侮辱する気!?」
「侮辱? 熱くなるなよ、先生」
「何ですって……!」春奈が歯を食いしばる気配がする。
しかし彼女が何か言うより先に、それまで唖然としていた天馬が口を開いた。
「待てよ……サッカーは、サッカーは下らなくなんかない」
突然口を開いた天馬に、周囲の視線が一斉に集中する。
しかし天馬は無意識の内に口を動かしているようで、それを気にする素振りは全く見せなかった。
「サッカーは下らなくなんかないし、必要だ!!」
「あァン?」
剣城が不機嫌な声を上げたことで、天馬はそこで初めて自分が注目を浴びていることに気付く。
しどろもどろする天馬に、剣城が眉間に皺を寄せた。
「誰だ、お前」
「! ……お、俺は松風天馬。今日からサッカー部に入るんだ」
「ッハハ──」つっかえながら答えた天馬を、剣城は鼻で笑う。周りに倒れるサッカー部員たちを顎で指し示しながら、彼は言い捨てた。
「残念だったな。たった今無くなったよ──他の部にでも入るんだな」
「そ、そんな……俺、サッカーをやるためにここに来たんだ。サッカー部がなくなるなんて困るよ!」
冷たくあしらう剣城に、天馬は必死で食い下がった。その様子に、剣城は苛立ったように切れ長の目を細める。
「困る……? そうか、相当サッカーに自信があるようだな。なら見せてくれよ──お前のサッカーを」
「え…………ぐぁッ!!」
その次の瞬間、天馬の体が大きく吹き飛んだ。剣城が完全に無防備だった天馬の腹に、ボールを打ち込んだのだ。
思わず物陰から飛び出した依織は、階段の傍まで駆け寄ったところでハタとたたらを踏む。
──今、この場にいる組織の人間が剣城だけとは限らない。目を付けられれば、後々動きにくくなってしまう。それは避けなければいけない。
珍しく眉間に深い皺を刻んだ依織の視線の先で、天馬が春奈に助け起こされた。
「天馬くん、大丈夫!? ──何てことをするの!」
声を張り上げる春奈に、剣城は鼻を鳴らして胸を反らす。
「ムカつくんだよなァ。お前みてーなサッカーをろくに知りもしない奴が語るのは」
「──知ってるさ……俺だってサッカーを知ってる」
ふらつきながら足元に転がるボールを拾い上げ、天馬は剣城と対峙した。
2人は視線を交わし合い、剣城は天馬を睨めつける。
「ほう──じゃあその実力、見せてもらおうか」
「えっ……」
「ひとまず、俺と勝負するってのはどうだ」剣城はポケットに突っ込んでいた片手を抜き出して、人差し指を天馬に向かって伸ばして見せた。
「勝負……?」
「どうした。さっきの発言は撤回するのか?」
小馬鹿にしたような口調で挑発され、天馬はボールを持つ手に力を込める。
「し、しない! やるさ!」
「えっ……天馬くん!」
天馬は正義感が強い分、熱くなりやすいきらいがある。要するに、冷静さを欠きやすいのだ。依織はそれを静観しながら、ゴミ箱の中からボールを拾い上げる。
手を出すことの出来ないもどかしさを、必死に押さえつけながら。
「来な──相手になってやるよ」
喉の奥で、剣城が不敵に笑う。
澄み渡っていた青空を、暗雲が覆い始めていた。