51

その日依織は、いつもより少し早い時間に目を覚ました。
外はまだ太陽が昇り始めたばかりで、町を白んだ光が照らしている。

「いよいよ、か」

小さく呟いて、タンスから学校指定のそれとは違う自分のジャージを取り出して袖に手を通すと、少し冷えた朝の空気が素肌を刺した。
目覚まし時計は午前4時半を指している。──たまにはこんな時間に出たって良いだろう。自己完結して、彼女は同居人を起こさないように音を立てず、早朝のランニングに繰り出す。

いつものコースを走り、河川敷に掛かる橋を途中まで渡ったところで、依織はゆっくりと立ち止まった。
──今日は月山国光と、ホーリーロード本選の第1試合が行われる日だ。
何としても勝たなくては。その為には不安要素は少しでも取り除いておきたいところだが、雷門には現在進行形でひとつの蟠りがある。

狩屋と霧野。あれから昨日まで、狩屋は些細なことを積み重ね部内で信頼を集め、その一方で霧野の信頼を少しずつ削ってきた。
勿論霧野の方は出来る限り然り気無くフォローを入れてきたが、それがどれだけ彼の心を救えたかは分からない。

円堂はどこまで分かっているのだろう。依織は欄干に手を掛けて、太陽に反射する川面を眺めた。
何にせよ、問題は今日だ。サッカーの命運が掛かっているこの戦いを、どんな理由があるにせよ邪魔するようなことをされるなら──彼女も、もう黙っているつもりはない。

「……勝つんだ、絶対」

誰もいない橋に、依織の独り言がポツリと落ちる。

「約束、守ってみせるからね──」




太陽が高く昇り、雲ひとつない青い空が広がる。
部室棟を集合場所に集結した雷門イレブンは、ルーレットスタジアムに向かうべくホーリーライナー乗り場にやって来ていた。

「これに乗って会場に行くのか……」
「行き先は分かりませんけどね」

ホーリーライナーが選手たちを運ぶスタジアムはランダム。到着するまでは、どんなフィールドで戦うことになるのか分からない。

「ちゅーかドキドキだなぁ」
「まさにルーレットというわけか……」

下手を打てば、予想だにしていないような苦戦を強いられるかもしれない。
やや険しい表情でホーリーライナーを見つめる神童に対し、天馬や信助はキラキラした目でそれに乗り込んでいく。

「わくわくするね!」
「うん!」

「気楽だなぁ、お前ら」呆れたような車田の視線が、ふとガラスを挟んだ向かいの席に向かった。
対岸の入り口から、対戦チームの選手たちが続々と乗り込んでくる。──月山国光だ。

「月山国光……」
「……えっ!?」

並ぶ顔ぶれに目をやった神童が、ふいに大きな声を上げた。それに釣られ視線をやった天馬や三国たちも、思わず目を見開く。
月山国光の選手の中に、まるで当たり前のように──南沢が混じっていたのだ。

「南沢さん……!」
「どうしてお前が、月山国光に……!」

ガラスは防音製なのか、こちらの声が南沢に届いている気配はない。
しかし南沢はちらりとこちらを見ると、目を細めて少し髪を掻き上げて見せた。それはまるで、自分は動揺などしていない、こうなることは分かっていた──と言う風な、冷静な表情で。

「……同姓同名ってオチを期待してたんだけどなぁ」
「鷹栖。お前、南沢さんが月山国光にいること知ってたのか?」

やや咎めるような声音の倉間に、依織は肩を竦めて見せた。

「月山の選手たちの最新名簿が、今回唯一掴めたデータなんです。その中に南沢先輩の名前があった……けど、同じ人って確証はなかったんで」
「そうか……」

倉間は小さく返して、南沢の顔を見つめる。
その表情は、どこか好戦的でもあった。

やがて、ホーリーライナーはゆっくりと発進する。
揺れもほとんど感じず滑るように移動する車内は快適だったが、如何せん空気が重たい。

「(何で、南沢先輩が……)」
「──あ。あれじゃない? スタジアム」

複雑な表情で天馬が考え込んでいると、ふと窓の外に目をやった狩屋が呟くように言った。
見ると確かに、灰色のスタジアムが徐々に近付いてくるのが見える。
それを視認した瞬間、車内にアナウンスが流れた。

『間もなく、スタジアムに到着します。お忘れ物の無いようお気をつけ下さい──』
「──よし、お前ら。そろそろ降りる準備をしておけよ」
「はい」

ホーリーライナーが少しずつ速度を落としていく。
駅に入り、完全に停車するのをアナウンスで確認したところで、雷門イレブンは円堂たちを筆頭に下車していった。

選手たちを降ろしたホーリーライナーが駅から去っていく。対岸越しに相対する月山国光とは、もう何の隔たりもない。
月山国光の監督である、白い外套と帽子を身に付けた男──近藤が、丸い眼鏡の奥で目を細めた。

「……貴殿らが雷門か」

近藤へ、円堂は静かに小さく会釈をする。
それに対し、ついに耐えきれなくなった神童が1歩前へ出た。

「南沢さん……! 雷門と戦うって知っていて、月山国光に入ったんですか……!?」

動揺を隠しきれない神童とは対照的に、南沢はあくまで冷静な表情を保ったまま視線を返す。

「……お前たちに現実ってもんを教えてやろうかと思ってな」
「んだよ、それ……何考えてんだ!」

冷めきった物言いに、車田が声を荒げた。
南沢はそんな旧友にさえ、嘲るような笑みを向ける。

「大きな流れに逆らって叩き潰される……雷門も哀れなもんだ」
「てめぇ……!!」
「それ以上雷門をバカにしたら、許さないド!」

喧嘩っ早い車田や天城が額に青筋を立てるのを、後輩たちは止めることもままならないまま南沢を凝視する。
──元から彼は、冷めた人間だった。リアリストで、サッカーは内申書のためにやっているのだと言っていた。けれどそれでも、水森や小坂とは違い、あの日──逃げなかった仲間の1人である。
そんな彼がそんなことを言うことが、信じられなかった。

「やめいっ!!」

車田や天城の声を、一喝する大きな声が上がる。
仲間の内からではない。月山国光のゴールキーパー──キャプテンマークを付けた選手だった。

「……! 何だお前は」
「兵頭司。月山国光のキャプテンを務めている」

少し眉を顰めた車田に対し、兵藤は最低限の礼儀は心得ているのか小さく頭を下げる。
しかしその目は明らかに、雷門への敵意を灯していた。

「南沢は素晴らしいサッカーセンスを持っている。その才能は、月山国光──そしてフィフスセクターのサッカーを、更に実りあるものにするだろう」
「それは……俺たちのサッカーとは違うということか」

固い声で問い返した三国に、兵藤は答えない。
代わりに、どこまでも冷えきった笑みを返したのは南沢である。

「どっちが正しいかは、明らかだけどな」
「……っ」

かつての仲間に今の場所を蔑まれることが、こんなにも憤りを感じることだとは。
「三国さん……」歯を食い縛った三国に、信助も心苦しそうに顔をしかめる。

「どれだけ仲間を集めようが、イレギュラーを入れようが──勝つのは俺たちだ。ま、お互いベストを尽くそうぜ」

言葉の一部を1年生──特に依織や剣城に向けて、南沢はひらりと手を翻し仲間と共にスタジアムへの入り口へと姿を消した。

「くそっ!」手の平に拳を打ち付け、車田が小さく毒づく。
剣城は僅かに眉根を寄せ、依織も静かな怒りを募らせているが、3年生たちの苦渋の表情に比べれば可愛らしいものだ。

「三国先輩たち、大丈夫しょうか……」

声を押さえて天馬が神童に尋ねたが、神童の表情も冴えないままである。

「南沢さんとは、ずっと一緒だったからな……」
「ふん。南沢さんのスタイルなら分かってるし、寧ろやりやすいさ」

ただ一人、何てこと無いように言ってのけたのは倉間だった。
予想とは違う反応に、依織は一旦怒りを静め目を瞬く。

「……? 嫌じゃないんですか、南沢先輩と戦うの」
「あ? 別に、嫌じゃねーよ。逆に、あの人とはいつか正面から戦ってみたかったからな。好都合だ」

ふん、と鼻を鳴らす倉間の瞳に嘘は見えない。
どうやら、自分の心配は杞憂に終わったようだ。同じような心境だったらしい速水と浜野が、顔を見合わせ苦笑いしている。

「それより、鷹栖。さっきの南沢さんな言葉、どう思う?」
「……どうって?」
「本心かどうか、だ」

3年生たちには聞こえないよう、声を落として尋ねた神童に依織は視線を逸らした。
あの時彼の目には、様々な感情が渦巻いていたように見えた。一概に本心だったかどうかと聞かれると、簡単には頷けない程に。

「……よく、分かりません。ただ多分、今の現状を受け入れている……雷門と戦うことを嫌がってはいなかったと思います」
「そうか……」

そっと肩を落とし、神童は思案顔になって顎を摘まんだ。焦燥に駆られた3年生たちの心を少しでも宥める事が出来れば、と思い依織を頼りはしたが、どうも今回は不発に終わってしまったようだ。

「でも……」
「何を悩んでるんだ?」

言葉を濁した天馬の声を、円堂があっけらかんとした様子で遮った。見ると、彼はいつものように清々しい笑顔を浮かべている。

「どんな状況だろうが、お前たちのすることは一つだ。──ベストを尽くせ!」
「! 円堂監督……」

それは奇しくも、南沢が言ったのと同じ台詞だった。
ただし、嫌味も飾りっけもない。円堂は教え子たちの顔を見渡し、いつものように力強く彼らの背中を押す。

「そして、南沢にも分かってもらうんだ。俺たちのサッカーを!」
「……はい!!」

これでもう吹っ切れたも同然だ。天馬たちはスタジアムの入り口に目を向け、固唾を呑む。
彼らを誘うように、風がそこへ向かって吹き込んでいる気がした。