57

「依織、もう一度だ!!」
「はい!!」

午前7時40分。雷門中学校のサッカーグラウンドに、鬼道の厳しい声が響く。
それに大きく答えて、この朝何度目かも分からないシュートを無人のゴールに打ち込むのは依織だ。

彼女がこうして鬼道のスパルタな特訓を受けているのには訳がある。
天馬たちはそれを遠目から見守りながら──事の発端となった、1枚の写真を見下ろした。

「依織が、化身を……」

呟いた天馬の手にあるのは、先日の月山国光戦の際、茜が撮った写真の1枚である。
写真に写った依織の背にあるのは、不思議な色を放つ小さな光の翼。試合の終盤、南沢を抜いた瞬間を激写したものだった。

「剣城は、天馬の時みたいに協力しないの?」
「……今は必要ない。そう言われた」

リフティングしていた足を止め、剣城は信助の問いにぶっきらぼうに答える。
剣城の協力を蹴ったのは、依織本人──ではなく、鬼道だった。

「依織はあれで負けず嫌いだからな。共鳴現象を使って力を引っ張り出す──と言うのは最終手段にしたいところだろう」

──と鬼道の言った通り、彼女は剣城や天馬、そして神童の化身使いに頼ろうという素振りは全く見せない。
限界を越えるギリギリまで、自分の力で頑張りたい。もし彼女がもう少し素直だったら、そう答えていただろう。

その努力と意地の甲斐あってか、依織の体から溢れる闘気が驚異的な早さで濃く強くなっていくのを、化身使いたちはひしひしと感じていた。

「──ふむ。佐久間や俺の特訓も無駄ではなかった、と言うことか」
「ったり前、でしょう」

何を今更、と言った表情に隠しきれない汗を滲ませ、呟いた鬼道に依織は彼のそれによく似たニタリ笑いを浮かべて見せる。

「──……」

ふと、その顔から笑みが引っ込んだのは数瞬後のことだった。
「どうしたの、依織?」突然明後日の方向を睨み付け、明らかに様子の変わった依織に、天馬たちが駆け寄っていく。

「いや……何か、視線を感じて」
「え、依織も?」

真っ先に声を上げたのは天馬だった。
も? と、怪訝そうな顔をした依織に、天馬は神妙に頷く。

「俺もさ、今朝グラウンドに出てからチラホラ視線を感じて……」
「熱心なファンでもいるんじゃねーの?」

からかうような声音で口を挟んだのは、スパイクの裏でボールを転がしていた狩屋だ。
「ファン!?」冗談を言われたことにも気付かず天馬と信助は上気した顔を見合わせる。

「…………」
「そんなに気になるのか」

狩屋の言葉は聞こえなかったのか、校舎側の雑木林を食い入るように見つめる依織に、ぼそりと剣城が訊ねた。
依織はしばらく雑木林を凝視したまま静止した後、いや、と首を振る。

「ただの気のせいかも知れないし。……それに今は、んなこと気にしてる場合でもねーしな」

そう答えてボールを抱えた依織の目には、爛々とした炎が燃え盛っていた。
本人の言う通り、今はサッカー以外──化身を出すこと以外に、気を割く余裕はないのだろう。
そうか、と剣城は小さく答え、彼女から目線を外した。

「──よぉし、朝練終わり!」
「はい!」

しばらくして、腕時計を覗き込んだ円堂の声を合図に雷門イレブンたちはぞろぞろとサッカー棟へ戻って行く。
その様子を──依織の見つめていた雑木林の影から窺う、藤色の頭があった。




その日の放課後のことである。

「入部希望?」
「はいっ! サッカー部に入りたいんです!」

練習を始める直前、恐る恐るといった様子で1人の生徒が部室を訪ねてきた。
彼は円堂の目に留まるなり、目を輝かせながらサッカー部に入りたいのだと元気良く言って頭を下げる。

「名前は?」
「輝です!」
「輝くんね。名字は?」

春奈からの問いに、彼──輝は、ギクリとした様子で唇を引き結ぶ。
入部するのであれば、選手登録する時などフルネームは必要不可欠だ。

「名字、は……それは、あの、えーっと……」
「?」

だと言うのに、輝は名字を名乗るのに何を戸惑うことがあるのか、周囲からの疑問の視線を一身に受けながら円堂たちを見つめ返す。
そしてしばらくして、輝はようやっと覚悟を決めたのか、上擦り気味な声で答えた。

「かっ……影山です。影山、輝です!!」

そうか、影山か──と、神童たちの視線が緩んだのは束の間。ガチャン、と聞こえた小さな音に、彼らは一斉にそれに注目する。
春奈の手から、書類を挟んだクリップボードが滑り落ちたのだ。

しかし春奈は、見開いた目で輝を凝視したまま動かない。円堂と鬼道もまた然り。
「か……影山!?」円堂は我が耳を疑うような形相で、輝を見つめ返した。

「影山って、まさか……」
「……はい……影山零二は、僕の叔父です」

輝は足元に目を落として、それでもしっかりと答える。
「……そうか」気遣うような春奈の視線を受けてか、鬼道はややあって笑みにも似た表情を浮かべた。

「ちゅーか、カゲヤマレイジって誰ッスか?」
「知らないド」

一方で、状況に着いていけないのが雷門イレブンである。大人たちからもどうしてか聞き出せない雰囲気が漂っており、互いに顔を見合わせるしかない。
「依織、何か知ってる?」何か考え込むように顎を摘まんでいた依織に葵が尋ねると、彼女は眉間に皺を寄せたまま首を捻った。

「名前だけなら、有兄さんから何度か聞いたことがある。亡くなった恩師、みたいな……でも、それ以上のことは」

恩師だと言うなら、鬼道たちが輝の名字に反応したのも頷ける。
しかし、雷門イレブンはその驚き方に違和感を覚えた。円堂たちの反応は、恩師に対する驚きとだけとは到底思えなかったのだ。

「だが、何故隠そうとした?」
「! それは……」

鬼道からの問いは当然のことだったが、輝はこれにも躊躇して口を噤む。
輝はやがて隠しきれないと判断したか、訥々とその理由を語った。

「叔父は、雷門サッカー部に色々ご迷惑をお掛けしたと聞いています。だから、名前を言うと入部は許されないと思って…」

言いながら、輝の表情がどんどん暗くなっていく。
「やっぱりダメですよね!」一度から笑いをした彼は、円堂たちの視線から逃れるように俯いた。

「……じゃあ、お騒がせしました……」
「あ、ちょっと……!」

天馬たちの間をすり抜け、輝は覚束無い足取りで出口へ向かおうとする。
しかしそれを止めたのは、円堂だった。

「待て」
「へ?」

まさか呼び止められるとは毛ほども思っていなかったのだろう、輝は間の抜けた声を上げ振り返る。

「影山輝。サッカー好きか」

円堂は彼を見下ろし、問いかけた。狩屋が入部した時と同じ問いかけだ。
輝は驚いたように目をしばたいた後、やがてしっかりと力強く頷く。

「……はい!!」
「──だったら、迷うことはない」

その答えに満足した円堂は、穏やかに微笑んだ。
ちらりと後ろを窺った彼に応えるように、鬼道がゆっくりと輝の元へ歩み寄る。

「確かに、影山零二が雷門サッカー部にしたことは許されることではない。だが、本当は心からサッカーを愛していた」

俺たちと同じくらいにな──昔を懐かしむ兄の声色に、春奈もほっとしたように表情を緩めた。
鬼道は輝の肩を叩いて、続ける。

「何も恥じることはない。あの人が行き着けなかったところまで、……お前が行って見せるんだ」

それは、彼の心からの望みだった。
かつての恩師であり、敵であり、──彼女の恩人でもあった影山零二と言う男への、弔いを込めた思いを、託す。
目に光の宿った輝に、円堂は改めて弾けるような笑顔を向けた。

「影山輝。今日からお前は、雷門サッカー部の一員だ!」
「あっ……ありがとうございます!!」

がば、と前のめりにならんばかりの勢いで輝は円堂たちに頭を下げる。
そして振り返り、天馬たちにもまた同じように頭を下げた。今度は、フルネームも一緒に。

「影山輝です! よろしくお願いします!!」
「こっちこそ、よろしく輝!」
「よろしくね!」

真っ先に嬉しそうに答えたのは、当然ながら天馬と信助だ。
それに水を差し──本人にはそんな意思はないのだろうが──今までの様子を静観していた剣城が輝に尋ねた。

「……で? どのくらいサッカー出来るんだ」
「ど、どのくらい、と言われても……」

ギクリと身を竦ませ、輝は何かを指折り数えながらつっかえつっかえ答える。

「ボール蹴りはじめてまだ2ヶ月なので……自分じゃよく分からないんです」
「え!?」
「たった2ヶ月ですか!?」

天馬たちを押し退け、速水が身を乗り出した。
鬼道たちの恩師の甥と言うこともあって、経験者だと思っていたのだろう。

「なぁんだ、初心者かよ」
「誰だって最初は初心者だぞ」

ぼやいた狩屋に、叱りつけるように霧野が言った。
輝は喜んだり慌てたり、先程からクルクルと忙しく表情を変えている。

「あ、でも、ドリブルで駆け抜けたり、カッコ良くシュートを決める……そんな選手になりたいです!」
「うんうん!」

「じゃあポジションはFWだな」ちらりと神童が、依織や倉間を見た。
依織の表情は相変わらず読めないが、倉間は諦めたように肩を竦めて見せる。

「あ、あの──僕、ホントは明日から正式に雷門に転校することになってて。今日は朝から見学に来てたんです」
「あら、そうなの?」

そこで首を傾げたのは春奈だった。
どうりで見たことのない顔だ、と納得したのだろう。

「だから今朝も、いつ声を掛けるべきかってず〜っと迷いながら朝練を見てて……」
「じゃあひょっとして、俺が朝から感じてた視線って輝?」

はたと気付いた天馬に、輝は気恥ずかしそうに頷いた。
曰く、ホーリーロードの試合はテレビ中継で観戦しており、1回戦から1年ながら活躍の多かった天馬に自然と視線が向かっていたらしい。

「ファンじゃなかったんだね」
「うん……でも、仲間が増える方が良いや! 俺、松風天馬。改めてよろしく!」

「うん!」差し伸ばされた天馬の手を、輝は嬉しそうににっこり笑って握り返す。
周りに倣い自己紹介をした後──ふと依織は、自分の認識に違和感を覚えた。

「(なら、私の感じた視線は何だったんだ?)」

今朝から、と言った輝の目に嘘は見えない。嘘を吐く必要さえ無いはずだ。しかし、それならひとつだけ疑問が出てくる。
依織の感じていた視線は、今朝どころの話でなく、月山国光戦を終えた翌日──昨日の朝から続いていたものだったのだ。




「確かに初心者だね……」

そうして輝を交えて始まった部活動。
ドリブルもままならず、ボールに遊ばれている輝に信助が呟く。
ボールは輝の足元から離れ、コート外で休憩する狩屋の元まで転がっていっていた。

「あれじゃあ戦力になりそうにないな」

冷静に呟き、剣城はボールを片手にさっさと輝から視線を外し自身のシュート練習に行ってしまう。
その途中──朝と同じように、鬼道相手に化身を出そうと特訓する依織を一瞥し、目を細めた。

「(……まさかな)」
「ふぎゅうっ」

息を吐き出した矢先、背後で聞こえた鈍い音に剣城は思わず振り返る。
輝がゴールポストに顔面から激突していた。

「大丈夫か!?」
「は、はい……」

顔を押さえる輝に、誰かが大笑いする声が聞こえる。
まさか、と霧野が振り向いた先には、腹を抱えて笑い転げる狩屋がいた。恐らく彼が輝に余計なことを言ったのだろう。

「狩屋、お前またやったな!? ──影山、ドリブルをする時は前を向くんだ。下を向いていたら、周りが見えないだろう?」
「ああ、なるほど……!」

ぶつけた額を押さえながら、輝は頷いた。
涙目になっているところからして、余程思い切りぶつかったのだろう。額にはゴールポストの汚れが移ってしまっている。

「教えるだけ無駄でしょ? どうせ使えねー奴なんだし」
「狩屋!」
「も、もう一度やってみます!」

性懲りもなく意地の悪いことを言う狩屋を霧野が叱り飛ばし、輝はめげずに立ち上がった。
下ばかり見ずに、前を。教えてもらったことを反復し、走り始めた輝は飲み込みが早いのか、先程とは全く違うしっかりとした足取りでボールを運ぶ。
それを見てドリブルはもう大丈夫だと判断したのだろう、三国がゴールで叫んだ。

「よぉし、打ってこい影山!」
「ええ!?」
「シュートだよ、シュート!」

「シュート、って……!」何か手本が欲しいのか、輝はドリブルしながら辺りを見渡す。
そこで、ある1点に目を留めた。

「よし、もう1回!」
「はい!!」

サイドのライン際で、鬼道にしごかれる依織の姿だ。前を跳ねるボールに向け、足を振り抜く。その瞬間を、輝は頭にインプットさせる。

「っシュートは、こうやって──こう!」
「!」

どしゅ、と輝の打ったシュートは予想外のスピードとパワーで三国の手に飛び込んだ。
その出来上がりに、ボールを受け取った三国はおろか、様子に気が付いて振り向いた依織も、それを見守っていた一同も、呆然と輝を見つめる。

「……やるじゃないか影山!」
「ほ、本当ですか!?」

我に返った三国が言うと、輝は嬉しそうにはにかんだ。
ゴールと彼を見比べた円堂が、彼を呼ぶ。

「輝、もう一度打ってみろ」
「へっ? あ、はいっ! ……あれっ」

三国から投げ渡されたボールは、輝の足の間をすり抜けて依織の元まで転がって行った。
それを拾い上げながら、依織は額の汗を乱雑に拭う。

「やっぱまだ初心者だな。ほら、ちゃんと体も使って受け止めろ」
「わ、っと……! あ、ありがとうございますっ」

「なぁ、輝」何とかボールをトラップした輝に、依織は声を掛けた。やはり、どうしても気になることがあったのだ。

「お前がサッカー部を見てたのって、今朝からなんだよな? 昨日、じゃなくて……」
「? はい。僕、稲妻町には昨日越してきたから……」

そうか、と依織は肩の力を抜く。昨日からの視線は自分の思い違いだったのだろう、と安堵して。

「……なら良いんだ。ほら、頑張ってこい」
「はい!」

元気良く頷いて、輝は再びドリブルでゴール前に駆け戻って行った。