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時計の秒針の音が、静かに部屋に鳴り響く。
そんな中、携帯に鬼道からの電話が来たのは、夕飯を終えた午後7時半のことだった。

「はい、依織ですけど」

自分の携帯がチカチカ点滅していることに気が付いた依織は、慌ててヘッドフォンを耳から外して通話に応じる。
「俺だ」ただ一言、そう聞こえた鬼道の声は少し疲れが含まれている気がした。

『依織、お前の所に吹雪は来ていないか?』
「は??」

思いも寄らない質問に、依織は素っ頓狂な声を上げて首を捻る。
来てないみたいだな、と依織の反応から察したらしい鬼道は、電話越しに溜息を吐いた。

確かに吹雪は雷門に来て臨時コーチのようなことをしてくれているし、それなりに知った仲にもなった。だが、それとこれとが直接関係するとは思えない。

「何かあったんですか? 吹雪さんに」
『あった、と言うか……どうも、まだホテルに戻っていないらしくてな。あいつも一応お前の事情を知っているから、もしかしたらと思ったんだが』

二度目の溜息を吐いた鬼道が、額を押さえる気配がする。
曰く、フィフスセクターは既に吹雪の動向を掴んでいるらしい。けれど彼が雷門に来て数日経っていることを考えると、今更どうこうしようと企んでいるとは考えにくい。
鬼道は珍しく申し訳なさそうな声で続けた。

『夜のジョギングはまだだろう? 悪いが、そのついでにでも少し、吹雪を探してみてくれないか』
「……了解でーす」

一瞬口籠もりそうになって、寸でのところで思いとどまる。
先日の件以来、依織は日課だった夜のジョギングを控えている。だが鬼道たち大人にはその理由をまだ教えていない──こちらの事情は知らないのだ。
鬼道は今依織を頼っている。ならば、これを断る理由はない。例え、暗闇にあの時の恐怖を思い出したとしても。

依織は通話を切ると、携帯と懐中電灯──それから念のため、防犯ブザーと従兄から貰った護身用スタンガンを持って、薄暗い外へ出掛けた。

「また迷ってるだけってオチだったらどうしよう……」

懐中電灯で道をゆらゆら照らしながら、依織は辺りを見回す。
しかし吹雪は昨日まで、ちゃんと(人より少し時間を掛けて)自力でホテルに戻っていた筈だ。それが今日になっていきなり道が分からなくなったとは思えない。

20分程掛けて、依織は学校の前へやって来た。何となくいつもの通学路を辿ってきただけではあったが、薄暗い校舎を見上げてみると不思議と吹雪がここに居るような気がした。

窓越しに緑色の非常灯が灯っているのが見える校舎は、特に何かが潜んでいるわけでもないのにそこはかとなく不気味な物を感じる。
依織はごくりと息を飲み込んで、懐中電灯を消して閉ざされた裏門をよじ登りこっそり中へと侵入した。

ざり、と自分が地面を踏む音でさえ、恐ろしく感じる。依織は唇を噛み締めて、じりじりとグラウンドの方へ歩く。
だから、グラウンドにぽつりと佇んでいる吹雪を見つけた瞬間、その場にへたり込みそうになる程安心した。

「吹雪さ──」

瞬間、依織は声を掛けるのを反射的に止めた。物陰から、2つの人影が吹雪に近付いていくのが見える。
どうもフィフスセクターの制服ではないようだ。依織は生垣に身を潜め、じっとグラウンドの様子を窺った。

「探しましたよ、吹雪コーチ」
「! 白咲……!」

足音に振り返った吹雪は、対面した少年に眉根を寄せる。
白咲──その名前に、依織は目を細め少年の姿を見つめた。精悍そうな顔つき、平均よりもやや高い身長。確か、今≠フ白恋のキャプテンを務めている選手。つまり、シード。
北海道にいる筈の彼が何故ここに。依織が見つめる先で、吹雪は白咲に対して警戒を解かない。

「……僕に、何の用だ」
「挨拶に来たんですよ。大切な試合の前に」

軽やかな笑みを浮かべ、白咲は指を鳴らす。
すると、それまで彼の背中に隠されるように立っていたもうひとつの人影が、吹雪の前へ姿を現した。

「……!!」

薄く口を開き、吹雪が絶句するのが分かる。
白咲はそんな反応を楽しむかのようにクツクツと喉の奥で笑った。

「我が白恋中のエース……雪村豹牙です。彼は俺たちシードも認める、素晴らしい選手に成長した。その力、試合で存分にお見せしましょう」
「そんな、まさか」

現れたのは、自分が1番目を掛け──別れる間際には教えた必殺技を自分の物に昇華するまでに成長を果たした、かつての教え子。
信じられないものを見るように頭を振り、吹雪は雪村に手を伸ばす。

「雪村……君も、フィフスセクターに……!」
「──触るな!」

ぱん、と乾いた音が響く。雪村が吹雪の手を振り払った音だ。
吹雪は目を見開いて、雪村を見つめた。指先を握り締めた雪村は、憎しみにも似た感情を込めて吹雪を睨み付けている。

「あんたは白恋中を裏切り……俺を裏切った! 今のあんたは、倒すべき敵だ……!!」
「その通りだ、雪村。フィフスセクターは、決して君を裏切ったりしない」

白咲は楽しげに雪村の肩に手を置き、囁く。それはまるで悪魔の囁きのようだった。
少し息を整えた雪村が、踵を返す。それを追いすがら、白咲は最後に吹雪に向かって冷ややかな笑みを投げ掛ける。

「では、後日フィールドで……」

闇夜に溶けるように、2人は静かに吹雪の前から姿を消した。
「雪村……」俯き肩を落とす吹雪の元へ、依織は意を決して近付いていく。

「吹雪さん──」
「っ! あ、ああ。依織ちゃんか……どうしたんだい、こんな時間に」

どうしたもこうしたも、と依織は先程まで白咲や雪村がいたことも忘れて呆れ返った。
吹雪はその表情で悟ったのか、申し訳なさそうに眉を下げる。

「心配掛けちゃったみたいだね……ごめんね、ありがとう」
「いえ……それより」

そこで依織は、チラリと雪村たちの消えた方角に視線を投げる。
その視線を追い、理解した吹雪は、ああ、と声を返す。少しだけ、空虚な声音だった。

「見てたんだね、さっきの……」
「……ええ」

依織は俯きがちな吹雪の顔を見上げる。
彼女が聞いていたのは、吹雪がフィフスセクターにより白恋のコーチを解任され、学校からも追放されてしまったと言う一連のこと。
今までそこまで気に留めなかったが、白恋にもきっと吹雪を信じてフィフスセクターの意に逆らう選手が何人もいたのだろう。そしてきっと、かつては雪村も吹雪を信じていたに違いない。

「何の説明も出来ないまま、白恋を離れてしまったからね。……裏切ったと思われても、仕方がないのかもしれない」
「でも、だからってフィフスセクターを信じる理由にもならないでしょ」

吹雪は静かに依織を見つめ返す。
依織は腹立たしかった。雪村の吹雪への猜疑心を逆手に取って洗脳まがいのことをしている白咲も、目に見えることばかりで事を判断している雪村も。

「──ありがとう、依織ちゃん」

眦を釣り上げて怒りを露わにする依織に、吹雪はそっと苦笑にも似た笑みを浮かべる。
雷門にいるのは、彼女のように真っ直ぐな選手ばかりだ。吹雪は彼らが味方であることが、とても心強かった。

「さぁ、もう遅い。家まで送っていくよ」
「ありがたいですけど、吹雪さん私の家からホテルへの道分かるんですか?」
「…………やっぱり分かれ道までにしようか」




翌朝。雷門イレブンは、バスに乗ってロシアンルーレットスタジアムに向かっていた。
流れる景色を眺めていた葵が、ふと思い出したように天馬を振り返る。

「ギリギリ完成したわね、必殺タクティクス!」
「うん! これで絶対障壁なんか怖くないっ!」

ぐっと拳を握り締めて、天馬は大きく頷いた。
必殺タクティクスが完成したのは、円堂が全員を集合させるほんの10分前のこと。
まだ多少荒削りな部分はあるが、それでも絶対障壁に対抗するには十分なレベルに達していると思える。

「初めての試合……ドキドキします!」
「力みすぎて怪我すんなよー」

「はいっ!」のんびりとした依織の忠告に、輝は落ち着かない様子で答えた。
依織はそっと、前の席に座る吹雪の後頭部を見つめてみる。今朝合流した時から、吹雪は何か考え込んでいるようで、覇気がなかった。きっと昨日のことを気にしているのだろう。

「(私も結局、化身を出せなかった)」

あと1歩だと言うことは分かっているのだ。けれど、その短い距離を測りかねているような感覚。
まるで、何かに戸惑っているような。

「あ、そうだ。名前つけなくて良いのかな? 必殺タクティクスの……」
「そう言えばそうね」

そんな信助と葵の会話が聞こえてきて、依織はハッと我に返る。
天馬が席から少し身を乗り出して、後ろを振り向いた。

「狩屋、何かないの?」
「ええっ!? また俺かよ!」

うん、と天馬は事も無げに頷いてみせる。
狩屋は先日のことを思い出したのか、苦々しい表情をしながら唸り声を上げた。

「う、うーん……2人で一緒に駆け抜けるわけだから、……ら、ランランランニング、とか?」

一拍、間が空く。遠いところで、見計らったかのようにクラクションが鳴り響く。
次の瞬間、車内は爆笑に包まれた。

「だっさーーーー!!」
「だっ……!」

だから言いたくなかったんだ、と笑い転げる天馬たちに、狩屋は顔を真っ赤にして怒りを露わにする。

「だ、ださいって……!」
「ないない、絶対ない!」
「だったらどんなのが良いんだよ!?」

言えるものなら言ってみろとばかりに、声を荒げて狩屋は笑いの収まらない前の席に向かって叫ぶ。笑いは徐々に伝染して、神童まで忍び笑いをする始末だ。
ううん、と唸って案を上げたのは輝である。

「両サイドから駆け上がる疾風……ダブルウィング≠ニかどうですか!?」
「あっ、カッコいい!」
「それ! それで行こうよ!」

「ダブルウィングで決定!」わあわあと盛り上がる4人に、狩屋は舌打ちしながらふて腐れた。
会場に着くまで残り1時間。笑いに包まれるバスの遙か頭上を、飛行機が白い尾を引いて飛んでいく。




十数分後、天馬たちの向かうバスの行き先とは反対側に離陸した飛行機から、1人の少年が降り立った。

「いやぁ、流石にイタリアからは時間がかかるかて」

独り言を呟きながら長い弁髪のように結った黒髪を揺らし、キャリーバッグをゴロゴロと転がした少年は空港の外へ出ると、空を見上げて太陽の眩しさに目を細める。

「ひっさしぶりの、日本ぜよ!」