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容赦なく吹き付けてくる冷気に、走り回って暖まっていた体が少しずつ冷やされていく。
0対2。依織はスコアボードを見上げ、僅かに顔をしかめた。

「──何を迷っている、依織」
「!」

ふいに背後から忍び寄るような声音で言われ、依織はつい肩を揺らす。
視線をそちらに向けると、鬼道がいつもと変わらぬ表情でそこに立っていた。

「お前が化身を出せるようになるまで、恐らくあと1歩。成すべき事も、分かっているはずだ」
「……分かって、ます」

なのに、何故その1歩を進もうとしない。目で問われ、依織は眉根を寄せて鬼道から視線を逸らす。

彼女自身も分かってはいるのだ。自分が次のステージに進むことを戸惑っていることに。だが、その理由が分からない。
自分の使命は、革命軍として、雷門イレブンとして、鬼道たちの時代にあった正しいサッカーを取り戻すこと。きちんと理解して、覚悟も充分に出来ている筈なのに。

このまま何の突破口も無いまま後半に入ってしまえば、なし崩しに雷門は負けてしまうだろう。
しかし、頼みの綱だったダブルウィングはここに来て未完成であると発覚してしまった。現状は手詰まりのままだ。
それでも、やるしかないのだ。ここで立ち止まっていては、どうにもならない。

ハーフタイム終了の時間が迫る。
俯いていた顔を上げた神童が、行くぞ、と仲間たちを振り返った瞬間だった。

「おーい! ちっくとまっとうせえ!!」

突然、寒さを物ともしない大きな声が、ピッチまで響いてくる。
「あーっ!」と髪を振り乱して真っ先にそちらを振り向いたのは水鳥だ。

「錦!!」
「間に合ったか……!」

高く結われた黒髪を揺らし、氷のフィールドには不似合いな下駄がカコカコと音を鳴らす。
ふう、と息を整えて額の汗を拭った彼は、仲間たちに向かってニカッと笑って見せた。

「遅れてすまんきに! 錦龍馬、ただいま参上ぜよ!」

日に焼けた肌、独特の喋り方。何ひとつ1年生の頃から変わっていない風貌の錦に、神童は密かに安堵を覚える。
そこにいるだけで場を騒がしく──もとい明るく出来るのは、錦の長所だった。

「いやぁ、おまんらが何ちゃあ革命じゃ言うて、苦しい戦いしちょると聞いてのう。いてもたってもいられんようなったがじゃ!」

「おまんも久しぶりじゃの、鷹栖!」唐突に話を振られ、依織は少しばかり目を見開く。
錦と再会した際には、てっきり何でお前がここにいるんだと驚かれるとばかり思っていたのだ。

「錦さん、知ってたんですか? 私が雷門イレブンに入ったって」
「あっちを発つ前に、ルカさんから聞いたがじゃ! あん人も鷹栖に会いたがっとったぜよ」

私はあまり会いたくない、と依織は苦虫を噛みつぶしたような微妙な表情になる。
まぁともかく、と錦は仲間たちにカラリとした笑みを振りまいた。

「ワシが帰ってきたからには、もう大丈夫じゃきに! ドーンと大船に乗ったつもりでおったらええぜよ!」

そして豪快に笑い声を上げる錦は、相変わらずだな、と呟いた水鳥にちょっかいを出しに行く。互いに名前で呼び合うほどだ、きっと仲が良いのだろう(ニヤリとした浜野は何か言う前に水鳥の拳骨を食らった)。

「この人が錦先輩……何か、頼もしい感じだね!」
「うん!」

この人となら、もしかしたら。期待に満ちた目で錦の横顔を見つめる信助に頷いた天馬は、神童に視線を投げ掛けた。
神童は直ぐさまその意図を汲み、水鳥をからかう錦の元へ向かう。

「錦。帰ってきて早々だが、お前に仕事だ」
「おう、何じゃ?」

神童は剣城を手招きして、3人額を突き合わせた。
2、3言、言葉を交わしてふ数度相槌を打った錦は、やがて分かった、と力強く頷く。

「よし──行こう!」

深呼吸を1つ、気持ちを入れ替えた神童に続き、雷門イレブンは再びフィールドに足を踏み入れた。
両チームが所定のポジションに着いたことを確認した審判が、一呼吸置いてホイッスルを吹き鳴らす。

「頼むぞ、錦……! ダブルウィングだ!!」
「おうよ!!」

間髪入れず、敵の懐に飛び込んだ倉間がボールを奪い、神童がパスを受け取る。頷いた錦は、直ぐさま先程神童に言われた通り行動した。
剣城と距離を空け、並走しながら交互にパスを繰り返す。3人1組、左右に分かれ白恋陣内へ特攻する。

今度こそ。展開された絶対障壁へ立ち向かうダブルウィングの後ろを走りながら、天馬は拳を握った──が。

「……右だ」

真狩が小さく言う。次の瞬間、瞬時に移動した障壁に激突した錦たちは、無様に氷の上に転がった。
「そんな……!?」これなら行けると思ったのに、と神童たちは目を見開いて錦の元へ駆け寄っていく。

「あちゃあ〜……やっぱりFWじゃ勝手が違うぜよ……」
「えっ??」

──駆け寄ったところで、錦が仰向けになったままそんなことを独り言ちた。
神童と天馬は顔を見合わせる。依織は嫌な予感がして眉をひしゃげた。反動を付けて起き上がった錦は、頭の後ろを掻きながら苦笑してみせる。

「みんな、すまんぜよ。実はのう、ワシゃ向こうでMFに転向したがじゃ」
「えぇー!?」

「転向って……」神童は米神を押さえてふらりと蹌踉めいた。頼みの綱が、たった今切れた気がする。
天馬は急いで、片手で顔を覆う依織に確認する。

「依織も知らなかったの!?」
「うん……錦さんとは、そんなしょっちゅう顔合わせてたわけじゃなかったし」

依織も毎日ルカのスパルタな特訓で忙しくしていたこともあり、数にすれば初対面を合わせて3回程度だろう。錦の師が彼であることも相俟って、てっきりFWだと思い込んでいたのだ。

「どうやらワシゃFWよりMFの方が向いとるらしいんじゃ。向こうでそう言われたきに」
「マジかよ……」

まことぜよ、と錦は半眼になった倉間に潔く頷く。
万事休すだ。テクニカルエリアでその様子を見ていた円堂は、僅かに眉間に皺を寄せる。
どうやら錦はMFに転向する際体幹とバランス感覚を中心に鍛えたらしく、去年よりもパワーが落ちているようだ。
天馬ではパスのスピードが足りないし、仮に今から違う相手──例えば剣城と息の合いやすい依織に変えたところで、きっと今度はパワーが足りなくなる。

「このままでは難しいな……」

では、どうすれば良いのか。険しい顔で呟いたその時だった。

「あの……円堂監督」
「! 何だ、輝」

いつの間にか傍らに寄ってきた輝が、円堂を見上げてくる。
輝はフィールドの錦たちと円堂を数度見比べて、確かめるような声音で言った。

「僕……あれ、出来そうな気がします」
「あれって……」
「あのポジション、僕にやれないでしょうか」

円堂は目をしばたく。しかし、輝は前言を撤回する素振りは見せない。
そこで円堂は思い出した。輝はまだプレイヤーとして荒削りな部分が目立つが、人のプレーを観察して吸収することに長けている。シュートだって、精度に目を瞑れば三国が認めるほど強力なものだった。

「鬼道。やらせてみよう」
「……影山のキック力なら、パスのスピードも上がる」

同じようなことを考えていたのだろう、鬼道は一考して頷く。
円堂は輝の小さな背中をフィールドへ押した。

「──行け、輝」
「っはい!」




「影山がダブルウィングを?」

天城と交代でフィールドに入ってきた輝に、神童は僅かに瞠目する。
輝はまだまだ初心者だ。足場の悪さもさることながら、いきなり必殺タクティクスの要に組み込むことに不安を感じざるを得ない。

しかし天馬はそんなことを気にならないようで、緊張した面持ちで駆け寄ってきた輝を歓迎した。

「頑張ろう、輝!」
「うんっ! ──あ、あと、依織ちゃんに鬼道コーチから伝言があるんだけど……」
「……有兄さんから?」

依織は怪訝そうに眉根を寄せる。鬼道のことだ、きっと小言を送りつけてきたに違いない。
しかし次に輝の口が紡いだのは、思いの外シンプルな言葉だった。

「もっと自分の気持ちに素直になれ、って」
「……へ?」

そんな恋する乙女に対するアドバイスみたいな。思わず呆けた声を上げた依織は、ベンチに座る鬼道を見る。
そしてふと背後から視線を感じて、振り向いた。

「……何だよ、その目」
「別に」

何か言いたげなじっとりとした目をこちらに向けていた剣城は、直ぐさま依織から視線を逸らす。内心、もっと言ってやってくれと思いながら。

「行くぜよ!」

錦のスローインで、試合が再開される。
ボールを受け取った輝は、足下に気をつけながらゆっくりと進み出した。そして徐々に、走るスピードを上げていく。

「あいつ……いきなりのフィールドのコツを掴んでる……!」

やはり円堂たちの判断は正しかったらしい。神童は拭い去られた不安に、仲間たちに向かって腕を薙いだ。

「行くぞ、影山! ダブルウィングだ!!」
「はい!!」

輝は天馬や錦のプレイを思い出しながら、剣城と距離を空け並走した。
今自分が出せる限りのパワーとスピードを出して、交互にパスを繰り返す。3人1組、左右に分かれ白恋陣内へ特攻する。

「何度やっても同じだ! やれ!!」

ほくそ笑んだ白咲に応え、真狩の号令を合図に絶対障壁が目の前に広がった。
しかし、左右を行き交うボールを見つめ、真狩は先程までのダブルウィングと迫ってくるそれのパスのスピードが、全く違うことに気が付く。それこそ、目で追いつけない程に。

「(ボールはどっちだ……!?)」

ダブルウィングは目と鼻の先まで迫っている。マフラーの下で歯噛みして、真狩はほぼ勘を頼りに声を上げた。

「ッ右だ!!」

直ぐさま障壁が右サイドへ移動する。
障壁に阻まれた剣城たちは後退りして体勢を立て直したが、それと同時に障壁も氷の粒になって砕け散った。そして剣城の足下に、ボールはない。

「こっちだッ!!」
「!!」

唖然と目を見開く白恋イレブンの横を、輝たち3人がすり抜けていく。ボールは輝の足下だ──しかし、気付いたところでもう遅い。

「うっぎいいいい!!」

小動物が威嚇するかの如く、叫び声を上げながら輝がボールを蹴る。
しゅるる、と空気を切り裂いたシュートは、茫然と棒立ちになった白咲の脇を潜り、白恋のゴールネットに突き刺さった。

すぱん、と小気味良い音がする。それは、雷門イレブンがこの状況を切り開いた音でもあった。

「やった!!」

「スゴいよ、輝!」天馬や信助が大急ぎで輝の傍に駆け寄り、肩で息をするその背中を叩く。
輝は目を丸くしながら、ゴールに転がったボールと自分の足を見比べて、唇を震わせた。

「僕、ゴール……ゴール、したんだ……っ!」

やったあ、と輝の叫ぶ声は、スタジアムの歓声に掻き消されていく。
あの見るからに素人なプレイヤーに得点を許した。無敵の筈の絶対障壁も破られた。仲間が、互いに互いを信じ合い点をもぎ取った──雪村は、言い様のない悔しさに奥歯を噛み締める。

「雪村……これが、雷門のサッカーなんだ」

教え子の横顔を見つめ、吹雪は呟く。どうか、この試合を通して分かって欲しい。雷門のサッカーこそが、かつて彼が雪村に教えようとしていたサッカーなのだと。

ダブルウィングを成功させたことで、雷門はいつもの調子を取り戻していく。
勢いを付けた雷門に白恋は押され、それまで鉄壁のタクティクスだった絶対障壁も、完全に攻略されてしまった。

そして、2対2。
絶対障壁は再び打ち破られ、剣城の化身・ランスロットのロストエンジェルが決まり、雷門はようやく白恋と同点に追いつく。

「ぐ、ぬぬぅ……!!」

白恋のベンチで、フィフスセクターから派遣された監督である巨漢の男──熊崎は、苛立ちを隠すこと無く貧乏揺すりをした。
雷門に通じる必殺タクティクスがない今、正に絶体絶命だ。このままでは──

「このままでは、負けてしまうのでは?」
「っく、黒木さん……!?」

背後から降って沸いたような声が聞こえ、熊崎はギョッとしながら振り返る。
そこには一体いつからいたのか、黒いスーツに身を包み同色の山高帽を被った黒木が佇んでいた。

「くそっ……分かっとります! 絶対に負けません……!!」
「ほう?」

静かに圧力を掛けてくる黒木に対し、熊崎は膝を叩いて立ち上がる。
そして、ベンチの端へ向かって吠えた。

「石岩ィ!!」
「うす……」

短く答え、のそりと立ち上がったのは体の大きな選手。白咲と共に白恋に派遣されたシード、石岩である。
のろのろと緩慢な動きでこちらにやってきた石岩に、熊崎は声を潜めて2、3言告げた。

「……分かったな?」
「……うす」

離れた2人は、にやりとほくそ笑む。
フィールドへ足を向けた石岩の目は、獲物を狩る獣のそれと同じ光を宿していた。