「えっ……依織、学校来てないの?」
白恋戦を終えたその翌日のこと。
昼休みを迎えるなり、依織を昼食に誘いにやって来た天馬と葵に、剣城は扉の桟に寄り掛かりながら頷いた。
「病欠だとよ」
「病欠……」
昨日無理しすぎたのかな、と心配そうに眉を下げるのは葵である。
試合のあった日はやはり休息を優先したいのか、依織は病院に行かないことが多い。昨日もその口だった為、剣城も依織のその後の動向は知らないのだ。
天馬は何を考え込んでいるのか、難しい顔をして顎に手をやっている。
「……ホントに、病欠なのかな」
「へっ?」
そしてポツリと呟かれた言葉に、葵が素っ頓狂な声を上げた。
「どう言うことだ」剣城の怪訝そうな視線を受けて、だってさ、と天馬は慌てたように手を振る。
「依織って、何かと休んだり早退することが多いけど、それって大体レジスタンスの仕事だったりするじゃない?」
「今回もそうじゃないか、ってこと?」
「あんなに体を酷使した翌日に?」さも不愉快であると言うように顔をしかめた葵に、天馬はただの予想だよ、と付け加えた。この様子では鬼道に直接文句を言いに行きかねない。
「なら、鬼道コーチに確かめれば良いだろう。あいつに仕事を任せてるのはあの人だろ?」
「鬼道コーチは今日来ないよ。スタジアムの整備も兼ねて、今日は練習も無しって今朝連絡があったじゃない?」
「音無先生なら、連絡が取れると思うけど……」
しかし、ただ憶測の為だけに教師を頼りにしていいものか。まだ彼女がレジスタンスの仕事で欠席したと決まったわけではないのだ。
悩む葵と、一貫して無関心である体を装う剣城。やがて天馬が、思いついたように口を開く。
「──直接確かめに行ってみようか。依織の家に」
「え?」
「は?」
丸くした目をこちらに向けた2人に、天馬は既に意見を変えるつもりがないのか確固とした口調で続けた。
「家にいたらそのままお見舞いに行けば良いし、いなかったら家の人に行方を聞けば良いんだよ」
「あ……そっか、そうよね!」
「珍しく冴えてるね天馬!」両手を合わせてにっこり笑った葵に、天馬は照れたように頭を掻いた後、あれ? と首を傾げる。
しかし、すっかりその気になっている2人に対し、剣城の表情は固いままだ。
「……お前ら、海王戦が終わった後のあいつの様子を覚えてるか」
「? 覚えてるけど……」
脈絡のない問いに、用事があったんだよね、と天馬と葵は顔を見合わせて首を傾げる。
剣城はゆっくりとあの時のことを思い出す。
侮辱を受けて激高し、フルパワーで戦った依織。彼女は試合が終わった直後、その反動で動けなくなった。誰にも知られないように回復を待ち、独りで乗り越えようとして──剣城に見つかった。
「鷹栖はあの時、用事なんてなかった。無理が祟って動けなくなったのを、お前らに隠そうとしただけだ」
「え……」
「今回も、仕事じゃなくて本当に昨日の無理が祟って休んだんだとしたら、あいつはお前らに会いたくないんじゃないのか?」
彼女は人に弱みを見せるのを良しとしない。2人はそれを知らないのだ。依織自身が、ずっと隠してきたことだから。
今正に剣城の告発によりその長年の努力は水泡に帰したわけだが、きっと彼の考えは当たっている。
これに対して、この幼馴染みたちはどう出るのか。先に口を開いたのは天馬だった。
「──だったら、余計会いに行かなきゃ」
「そうよね。もっと周りを頼るように、きっちり怒ってやんなきゃ!」
時間にすればほんの数秒のことだった。同じような結論を出して頷き合う2人に、剣城は一瞬目を丸くして溜息を吐く。
「……だったら好きにしろ」
「うん! じゃあ剣城、放課後校門で待ってるからな!」
「ああ、……あ?」
呼び止める間もなく、2人は廊下を走り抜けていった。
中途半端に伸ばした指先を丸め、剣城は疲れたように呟く。
「何で俺も一緒に行くことになってるんだよ……」
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午後3時半、放課後。
天馬と葵は嫌がってる風の剣城の手を引き、依織の家へと向かっていた。
と言っても、彼女がいつも帰っている方向へひたすら歩いて行っただけだ。少し大きな公園の入り口に差し掛かったところで、2人は剣城を振り返る。
「それで、依織の家ってどこにあるの? 剣城くん」
「……あ? お前ら、知らないのか」
「うん。1回も行ったことなくって」
その上神出鬼没で住んでいる地域の特定も中々難しいのだと、天馬は難しい顔をした。
まるで野生の動物扱いだな、と心の中で独り言ちながら、剣城は辺りを見回した。
今目の前にあるのは、自分が小さい頃によく優一と遊びに来ていた公園。ここから脇道に入り真っ直ぐ進んでいくと、優一や依織の幼馴染みの入院する病院が見えてくる。
記憶を辿り、剣城は先日依織を家の近くまで送ったときのことを思い出した。
「……言っておくが、俺もハッキリとした家の場所は分からないぞ」
「大丈夫、きっと近くまで行けば表札で分かるよ」
ならこっちだ、と2人を先導し始めた剣城は、「むしろ何で途中までは分かるの?」と言う葵の独り言に近い問いは聞こえなかった振りを決め込む。
自分たちの顔を見るなり苦虫を何匹も噛んだような渋い表情になる依織が目に浮かぶようだ。剣城はこっそりと溜息を吐いた。
「(確か、ここの角を曲がった先に……)」
そう、ここに丁度傾いたカーブミラーがあったのを記憶しているから、合っているはず。
曲がり角の向こうを覗き込んだ剣城に倣い、天馬と葵もその先に頭を出した。何てことの無い閑静な住宅街。足を止めた剣城に、天馬が尋ねる。
「この辺り?」
「確か、そうだった筈だが……」
「じゃ、早速表札を見ていきましょ」
張り切る2人に、剣城も半ば諦めて鷹栖の表札を探し始めた。
全国各地によくあるような名字から、あまり見ないような名字までが連なる。しかし、その中に鷹栖の名字は入っていない。
視界に入った表札をざっと調べ終わって、天馬が首を捻った。
「おっかしいな……全然見つからないよ?」
「一応、あっちにアパートもあるけど……あそこも確認してみる?」
「いや……鷹栖の家は一軒屋だった。入るところを見たから、それは間違いない」
「どうしてそんな状況になったの?」とまたもや葵の質問に聞こえなかった振りをして、剣城は再び辺りを見回す。
確かに依織はあの時、この道にあるどれかの家に入った。扉を開け、中に入るところまで見届けた。
だが、いかんせんその時は夜だったせいで辺りは暗く、厄介なことに街灯も少ないせいでどんな風な家だったかなどは愚か、あのカーブミラーからどれほどの距離に建っていたかさえよく分からなかったのである。
分からないものは仕方がない、と2人を諦めさせようと口を開いた時だった。
「──あっ。ちょっと、あの人に聞いてみない?」
「うん、それが良いかも。あのー、すいません!」
幸か不幸か、偶然向こうの曲がり角を歩いてきた女性に、天馬と葵は臆することなく駆け寄っていく。
当然、突然のことに驚く女性に、剣城は天馬たちの行動力に半ば呆れながら2人の後を追い掛けた。
「この辺りに、鷹栖さんって人の家があるの知りませんか? 」
「……鷹栖さん?」
オレンジ色のリップが引かれた唇が、戸惑うように噤まれる。歳は20代半ば──円堂たちと同じくらいだろう。大らかで柔らかい雰囲気の女性だ。
女性は数度瞬きを繰り返して、少し考え込んだように眉根を寄せる。
そして少しすると、ゆっくりと口を開いた。
「──ごめんね。この辺りに、鷹栖さんって人のお家はないの」
「え……そうなんですか」
「うん。でも、依織ちゃんの住んでいるお家はあるよ」
「そうなんですか、……えっ?」
今度は天馬たちが戸惑う番だった。それは剣城も例外ではなく、ついつい微笑む女性を凝視してしまう。
女性は小さく笑って、順に天馬たちの目を覗き込んだ。
「あなたたち、依織ちゃんのお友達でしょう? 天馬くんに葵ちゃんに……それから剣城くん」
「そう、ですけど……何で俺たちの名前まで」
「あっ!」
と、そこで葵が大きな声を上げた。「何だよ、葵」と思わず耳を塞ぎそうになった天馬に、葵は慌てた様子で答える。
「昔1回、依織にどこに住んでるか聞いたことがあったのよ。そしたら、今は親戚のところでお世話になってるって……」
しかしその時は結局、彼女はどこに住んでいるのか教えてはくれなかった。小学校6年生、秋頃の話である。
もしかして、と葵はやや興奮した面持ちで女性を見つめ返す。まるで探偵にでもなったような気分だった。
女性は一瞬キョトンとして、ゆっくりと悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「正解。私は御鏡織乃──依織ちゃんの従姉です。よろしくね」
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「はぁ……」
窓の外で、小鳥が囀っている。
DVDプレイヤーの再生と一時停止のボタンを交互に押しながら、依織はタオルケットに包まって溜息を吐いた。
暇だ。すこぶる暇だ。温くなった冷却シートを額から剥がし、ゴミ箱に放り投げてテレビを消す。
熱は昨日、家に帰り着いた時点でかなり高かったが、今では微熱程度の物だ。筋肉痛もほとんどなく、疲労も回復している。
それなのに、登校を許してもらえなかった。部活が休みになったとは言え、昨日の試合のこともあり今日こそ病院にも行こうと考えていたのに。
「姉さんも結構過保護なとこあるよなぁ……」
「誰が過保護ですか」
低くぼやいたその瞬間、閉め切っていた扉がバンと開く。
ギョッとして振り返ると、そこにはむくれた表情の従姉が仁王立ちしていた。
「お、お帰りなさい織乃姉さん……」
「ただいま。全くもう……熱が下がったのだって午後からだったんだから、今日1日くらい大人しくしてなさい」
条件反射でその場に正座した依織に、織乃は溜息を吐く。
それよりも、頭を振ると、彼女は徐に扉の前から1歩横へ移動した。
「──お友達がお見舞いに来てくれたよ、依織ちゃん」
「……!?」
その瞬間、依織は目を大きく見開いて絶句する。
半開きになった口から、震えた声が漏れた。
「おっ……お前ら何でここに……!」
「何でって……」
お見舞いに来たんだってば、と織乃の後ろから現れた天馬は少し不満そうに答える。その傍らには、同じような反応をした葵と、バツの悪そうな表情をした剣城の姿。
依織は思わず立ち上がって、織乃の袖を引っ張って小声で捲し立てた。
「ちょっと……! 良いんですか、姉さん!?」
「何が?」
「何がって、だって今までもずっと……」
「ストップ、依織ちゃん」白魚のような指が、依織の唇を押さえ込む。
何か言いたげな目でこちらを見上げる従妹に、織乃は柔らかく微笑んだ。
「ここにいる私は、依織ちゃんの従姉のお姉さん。それだけでしょ?」
「……はい……」
分かれば宜しい、と満足げに頷いた織乃は、依織の肩を叩いて踵を返す。
「今飲み物持ってくるから、ゆっくりしていってね」
そしてそう言い残すと、天馬たちが何か尋ねるよりも早く依織の部屋を後にした。
トン、トンと扉越しに足音が遠退いていく。
室内に一瞬気まずい沈黙が広がった。
「えっと……綺麗なお姉さんだね」
「……姉さんだからな。そこ、座って」
沈黙を破った葵に対し答えになってないことを言って、依織は3人に座布団を寄越す。
天馬はいそいそとそこに座って、改めて依織の部屋を見渡した。
思ったよりも綺麗に片付いている。物が少ないと言っても良いだろう。
キャビネットにちょこんと座ったウサギの縫いぐるみと傍に立て掛けられた写真立てが、シンプルなこの部屋で異彩を放っているように見えた。
「何か意外だな。依織も縫いぐるみとか飾ったりするんだ」
「……それ、昔誕生日に有兄さんから貰ったウサギ」
「……余計に意外ね……」
「見ても良い?」写真立てを指さした葵に、依織は頷く。
そっと写真立てを手に取った葵は、じっとそれを覗き込む。天馬や剣城も釣られて写真に視線を移す。
2人の男女と、女性の膝の上に小さな女の子が座っている姿を写した写真だ。
女性と女の子の顔は、よく似ている。そして今、目の前で俯く彼女にも。
「優しそうなお母さん……確か、お父さんは海外に出張してるんだよね?」
「うん。イギリスにな」
「お母さんも一緒?」
天馬の問いに、依織は一瞬唇を引き結ぶ。剣城はその様子に、そっと眉根を寄せた。
依織の様子が変わったのが分かったのだろう、天馬と葵は不安げに顔を見合わせる。
「──お母さんは、私が小さい頃に病気で死んじゃったよ。ほら、美人薄命とか言うだろ」
「そう、だったんだ」
あくまでもあっけらかんとした風に言った依織に、葵も釣られて明るく返すしかない。きっとここで食い下がっても意味はないだろう。
と、そこで「そう言えば」と天馬が口を開いた。
「俺は雷門に通うために秋ネエのアパートに住んでるけど……依織は何で、お父さんの傍から離れてお姉さんと一緒に暮らしてるの?」
「! それは」
そこで初めて、依織は問いかけに対し動揺したようだった。先程織乃が天馬たちを連れてきた時もそうだったが、それとはまた別種のようにも見える。
言い渋る依織に、ふいに低い声が響く。
「──こいつらは、お前のことを心配してここに来たんだ」
「!」
それは、今まで黙り込んでいた剣城の声だった。
顔をこちらに向けた依織に、剣城はいつものトーンで続ける。
「その気持ちに応えるくらいは、出来るだろ。それとも、お前にとってはそれも隠さなきゃならないことなのか?」
「剣城……」ここに来ることを嫌がっているように見えたが、彼なりに依織のことを心配していたのだろう。天馬と葵が自分の横顔を見つめてくるのが分かって、剣城は明後日の方向を向いた。
「……やりたいことがあったんだ。すごく、大事なこと」
「大事なこと?」
「……」
そこまで言って、依織は再び押し黙ってしまう。どう続けるべきか、考えあぐねているようだった。
天馬は膝の上に置いた拳を握り締める。言いたいことを言うのは、今だと思った。
「依織、前に約束してくれたよね。今は秘密にしてることも、いつか教えてくれるって」
「それは……」
「依織は、俺が悩んでると何だかんだで助けてくれるよね。それは、依織が俺のことをちゃんと知ってるからだ」
天馬はその場に膝立ちになり、ベッドに腰掛ける依織の顔を覗き込む。
膝に置いた拳に重なった手は、温かかった。
「俺は、依織のことをちゃんと知りたい。依織が1人で悩んでる時、少しでも力になれるように」
再び、沈黙が部屋を支配する。
それを破ったのは、小さな笑い声だった。
「はは……随分大袈裟だな、天馬。口説き文句みたいなこと言いやがって」
「ちょっと依織! 俺は真剣に──」
「良いよ」
さらりと放たれた肯定の言葉に、天馬は思わず口を中途半端に開けたまま無言になる。剣城や葵も、依織を凝視する。
依織はただ、いつものように──剣城に言わせれば何を考えているのか分からないような、人を食ったような笑みを浮かべていた。
「教えてあげる。今まで隠してた私のこと、全部」