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それは快進撃を続ける今の雷門にとって、正に青天の霹靂と言える出来事だった。

「円堂監督……今、何て」

目と口を丸くして、天馬は唖然として円堂を見上げる。
それは、白恋戦から2日後──依織が部活に復帰した、翌日のこと。

「すまない。……俺は、雷門を出て行く」

雷門の監督を辞める。
部活の始まる直前、円堂が子供たちを集めて口にしたのは、自身が彼らから離れていくことだった。
冷静を保っているのは鬼道ただ1人だけで、顧問である春奈でさえ報されていなかったのか、円堂と鬼道を交互に見つめて言葉を失っている。

「雷門の監督は、鬼道に引き継いで貰う」
「そんな……監督!」

踵を返した円堂に、神童が反射的に手を伸ばす。しかし、それに対して振り返ることもなく、円堂は無言のまま荷物を持って部室を出て行ってしまった。
何故、と宙に浮かせた指先を握り締めて、頭を垂れた神童の呟きが静まりかえった部室に木霊する。

「俺は引き継ぎ作業があるので、今日は各自自主練とする」
「──えっ、あ、ちょっと有兄さん」

革靴の硬質な音を響かせて部室を出た鬼道を、我に返った依織は慌てて春奈を伴い追い掛けた。

「待って、兄さん! 私、何も聞いていないわ!」
「そうですよ、レジスタンスの方からだって何も……!」

監督たちが話し合いの場に使用する特別室の扉を前にぴたりと足を止めた鬼道は、溜息を吐いて振り返る。
険しさと厳しさを織り交ぜたようなサングラス越しの鋭い目に、2人は思わず揃ってたたらを踏んだ。

「……円堂はここ以外でやるべきことを見つけた。そしてそれは、レジスタンスの管理下にいてはやり遂げることは出来ない」
「やるべきこと……」

依織は負けじと歯を食い縛って鬼道を見上げる。それだけでは十分な説明にならない、と言う意味も込めて。

「その、やるべきことってのは?」
「……さぁな」

「俺から言えるのはここまでだ」両手をポケットに突っ込んで、鬼道は今度こそ特別室に閉じこもった。
ポカンとした依織は兄を追い掛けた春奈を見送って、ああもう、と前髪を掻き上げる。

レジスタンスにいては出来ないこと。つまりそれは、組織を危険に晒す可能性があることではないだろうか。
加えて依織にフィフスセクター側からまだ何も情報が入ってきていないと言うことは、あちらも円堂の動きに気付いていないと言うことだ。
流石に近い内に監督が変わったことは知られてしまうだろうが、フィフスセクターが円堂の動向を調べる時には既に彼は誰も知らないところにいる──と言った寸法だろう。

だとしても、だ。

「一体どうやって説明しろってんだよ……」

知りもしないことを説明するなんて、到底無茶な話だ。依織は額を掻いて、とぼとぼと1軍の部室へとんぼ返りする。
中へ入ると、そこはやはりお通夜のように沈みきった空気が充満していた。

「あっ、依織。鬼道コーチは何て?」
「何にも教えてくれなかったよ……」

円堂にはやることがある。分かったのはそれだけだが、それを天馬たちに伝えたところで「そのやることって?」と聞き返されるのは目に見えている。
依織は必要以上のことは答えず、崩れ落ちるようにソファに腰掛けた。

「……円堂監督は、フィフスセクターと戦う勇気をくれた。俺たちの、支えだった」
「神童……」

椅子に腰掛け、深く頭垂れた神童が独り言ちるように呟く。
初めて雷門に現れた時から、円堂はひたすら真っ直ぐだった。折れ掛けていた心を、バラバラになりかけていたチームを元に戻してくれたのも彼だ。
革命を成し遂げるその日まで、円堂に見守って貰えると思っていた。彼の元で、本当のサッカーが出来ると思っていた。それなのに。

「──いないものはしょうがない」
「! 何だド……」

ふいに沈黙を切り裂いたのは、いつものように低い剣城の声だった。
冷たく言い放つような彼の口振りに、小さな目を吊り上げた天城が腰を浮かせる。

「悲しめば帰ってくるとでも?」
「ッ剣城!」
「やめろ、天城!」

立ち上がって拳を握り締めた天城を、車田が制す。剣城は天城を一瞥して、足元に視線を落とした。
彼も彼なりに落ち込んでいるのだと悟った依織は、深く溜息を吐きながら改めて円堂の言葉を思い出す。

『気張ってこい、鷹栖! フィールドで待ってるぞ!』

円堂は、雷門の為に──未来のサッカー界の為に、彼らの元を去ったのだ。そんな人が、このまま選手たちを置き去りにしていくとは思えない。
彼はきっと、必ずこのチームに帰ってくる。上手く言えないが、依織にはその確信があった。

「おうおう、何だこの雰囲気は! もっと楽しくやるぜよ」

そんな折、先程とはまた違う様子で沈黙を切り裂く人がいた。
錦だ。周りの仲間を見回して、錦は高く結った黒髪を揺らしながら何を気にするでもなく「のう、神童!」とキャプテンの背中を叩いている。

「何だ何だ何だ、しょげててもしょうがないじゃろ、──あ?」

なっ、と仲間たちに同意を求める錦の頭上に影が差す。
顔を上げた錦は、次の瞬間反射的に身を竦めた。

「この、鈍感!」
「うぉわっ!」

ダン、と振り上げられた水鳥の足が、空を切って床を思い切り踏み締める。
寸でのところで水鳥の攻撃を避けた錦は、ふぅと額に浮かんだ冷や汗を拭った。

「ホント成長してねぇな、錦!」
「水鳥の足癖の悪さものう」
「何だと!」

「うぉっと!」水鳥の足がまた何もない床を踏み締める。
遠巻きにそれを眺めながら、天馬はそっと瞼を伏せた。重たい空気──まるで、いつもの雷門ではないかのようだ。

「これからどうなるんだろう……」
「どうって、…………」

何気ない天馬の呟きに、依織はハタと言葉を失う。
監督は鬼道に引き継いで貰う──円堂は確かにそう告げた。と言うことは、だ。

「(じ……地獄が始まる!!)」

突然青ざめた依織に、天馬は不思議そうに首を傾げる。




その一方。
1軍部室を離れ、特別室ではノートパソコンと向き合った鬼道が、難しい顔をしてキーボードを叩いていた。

『俺さ、みんなの良いトコしか見れないんだよな』

思い返すのは、昨日の夕方の出来事。
円堂から監督を降りる話を聞いた際、鬼道も初めはそれ疑問に思った。本戦も順調に勝ち進み、雷門は軌道に乗っている。
そんな時に監督が替われば、選手たちの間には動揺しか生まれないだろう。
それでも円堂は行くと言った。フィフスセクターの本当の目的は、サッカーを管理することだけではないのかもしれない──そんな意味深な言葉を残して。
今雷門を託せるのは、鬼道しかいないのだと言った。

「……全く、いつまでも困ったキャプテンだ」

苦笑に近い笑みを漏らし、鬼道は手を揉み解す。
数十分後、ノートパソコンには画面一杯に所狭しと文字が並んでいた。




そして、その翌日。
依織の予想は、悲しいことに現実となる。

「今日から練習メニューを変更する」

放課後の始まり、いつも円堂が立っていたはずの場所にいたのは、鬼道だった。
やはり円堂はいないのだと改めて思い知らされ、落ち込んだのは束の間のこと。言い渡されたメニューに、選手たちは眉を顰めることとなる。

「この練習メニュー……ボール、使ってない」
「ああ……サッカーの練習だってのにな」

鬼道の有無を言わさぬ視線に逆らうことも出来ず仕方なしに練習を始めた選手たちに、マネージャーたちも怪訝そうに首を傾げた。
春奈のクリップボードに挟まれたメニューには、腹筋、背筋、スクワットの筋力トレーニングに始まり、バランスを養う練習、ロープで括ったタイヤを引き摺りながらの校庭内周と、並んでいるのは基礎的なトレーニングばかりで、ボールに触れる機会が一切ない。

「……西園! お前は倍の高さを跳べ」
「えっ」

ハードル練習をしている最中、鬼道が選手たちを見回して声を上げる。
「何で僕だけ?」問いに答えない新監督に戸惑いながらハードルを1段上げる信助に、横で練習をしていた狩屋が何となしにこう答えた。

「サッカー部を辞めて欲しいんじゃないの?」
「え?」

何てことない、狩屋のいつもの戯れ言。いつもなら流せるはずのそれが、今回に限って心に小さな棘を残す。

それから同じようなことが、その1日だけで何度も起きた。
鬼道が不意に名指しした選手は、何故か1人練習メニューをより難易度の高いものへと変更させられる。理由を聞いても答えは返ってこない。ただただ、課せられたメニューをこなすだけの時間が過ぎていく。

そして、一番初めに根を上げたのは──

「……練習は以上とする」

鬼道が選手たちを解放したのは、日もとっぷりと暮れて辺りが暗くなり始めた頃のことだった。
必要以上のことを口にせず、ただ一言告げてその場を立ち去った鬼道を、僅かに顔を顰めた春奈が追い掛けていく。

「何か……納得いかないド……!」

荒い呼吸を繰り返し、地面に巨体を投げ出したまま天城が遠離っていく鬼道の黒い背中を睨み付ける。
先程のランニングで、彼は他よりも2つ多いタイヤを引き摺ってようやくノルマを終えたところだった。

「これが鬼道監督のやり方なのか……?」

神童が息を整えながら依織を振り返ったが、当の依織はベンチに俯せたままぴくりとも動かない。
神童はまさか気絶しているのではないかと疑ったが、次の瞬間彼女はひどく緩慢な動きでベンチから降りた(落ちたと言っても過言ではない)。

「……すんません……私……行かなくちゃ……」
「行くって、どこへ……?」
「ていこく……」

ゾンビのような足取りで、依織は荷物を引き摺り1人校庭を後にする。
帝国へ行く、と彼女の言葉を理解したのはその数秒後のことだった。

「──どう言うつもりなの兄さん! あれじゃみんなが潰れてしまうわ」

どうにか階段を登り切り、部室棟まであと少しと言ったところで聞こえてきた声に、依織はのろのろと顔を上げる。
見ると、部室棟の階段を前に春奈が鬼道に噛み付いている少々珍しい光景がそこにはあった。

「……雷門を勝たせる。それが俺の役目だ」
「兄さん……!」

妹が次の言葉を続けるよりも先に、鬼道は靴音を響かせ部室棟へと姿を消す。
額を抱えた春奈は溜息を吐くと、そこでようやく依織の存在に気付いたのか振り向き様に苦笑を浮かべた。

「依織ちゃん。大丈夫なの?」
「……はい。ぎりぎり」

返ってきた答えに、春奈は眉根を寄せる。先程の自分が兄に言った言葉を思い出したのだろう。

「春奈姉さん、今何時ですか?」
「え? ええと……6時25分よ」

「時間がどうかした?」首を傾げた春奈に、依織は顎の先を抱えるようにしながら電車が、と呟いた。

「電車……? 依織ちゃんって、電車通学だったかしら?」
「あ、いえ……これから次郎兄さんの所に行かなきゃならなくて」

春奈は余計に訝しむように顔をしかめた。彼女が以前、化身を発現させる為の特訓の一環で帝国まで赴いていたことは、春奈も鬼道から聞いている。
しかし依織は既に化身使いとして覚醒している。その上、今日はいつも以上にハードな練習だったのだ。いくら慣れているからとは言え、兄はこれ以上彼女に何を課そうとしているのだろう。

「依織ちゃん……無理しなくても良いのよ? いくら強くなる為でも、体を壊したら意味がないんだから」
「大丈夫ですよ、春奈姉さん。……私の選手としての限界は、私自身よりも、有兄さんの方が分かってる」

こんな小さい時から見て貰ってましたから、と彼女は自分の脛の辺りを指さして、いつものようにへらへらと口角を上げた。

「心配はいりませんから──春奈姉さんも、指導者としての有兄さんを、信じてあげて下さいね」
「あっ、依織ちゃ……」

言うだけ言って、依織は疲れているだろうにあっと言う間に階段を駆け上っていってしまう。
春奈は中途半端に空けた口を閉ざして、心の中で彼女の言葉を反芻した。

「(指導者としての、兄さんを……)」