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元より頑丈とは言えなかった彼の堪忍袋の緒が切れたのは、鬼道が監督になり練習メニューを変えたその翌日のことだった。

「もう我慢出来ないド!!」

怒りをぶつけるようにロッカーに叩き付けられた鞄が、薄く汚れた1軍部室の床に落ちる。
それを拾うことなく、投げつけた張本人である天城は怒りが収まらないのか大きな拳を震わせた。

「落ち着け! まだ2日目だ」
「明日も同じに決まってるド!!」

苛立ち混じりの混じった声音の車田に諫められても、天城は態度を変えようとしない。
1日目はまだ良かった、我慢が出来た。けれど2日目までまともにボールに触れる機会がなくては、どうしても不満を感じざるを得ない。
加えて、選手の体に鞭打つような休む暇のない単調な基礎練習。物によっては個別に難易度を上げられたものもあり、その理由も分からず仕舞いでは苛つきは募るばかりだ。

「……僕、明日から練習に出ません!!」
「えっ」

一拍置き、天城の怒りに触発されたかのように、信助が衝撃的な宣言をした。
傍らのベンチで難しい顔をして天城を見ていた天馬は、ギョッとして信助を凝視する。

「信助、本気?」
「うん……!」

その顔を覗き込んでも、信助は揺らぐ様子を見せない。彼は本気で言っているのだ。天馬は思わず掛ける言葉を失った。

「俺もだド。なぁ、影山。お前もこんな練習イヤだド!?」
「ええっ!?」

鼻息荒くズカズカとやって来た天城は、手近にあった輝の体をぐいと引き寄せる。
当の輝はと言うと、相手が先輩である以上強くは言い出せないのかもしくはまだ状況に頭がついていけていないのか、言葉にならない不明瞭な声を発した。

「天城さん……!」
「止めても無駄だド!」
「ぼぼ僕は、あ、あのぉ……!」

そのまま部室を出て行こうとする3人(内1人は引き摺られている)に立ち上がった神童へ、天城は直ぐさま言い返す。
しかし、彼の足が更に1歩踏み出すよりも先に、目の前の扉は音を立てて開いた。

「──へぇ、ボイコットですか」

疲れた体を壁で支えるようにして現れたのは、制服に着替え終えた依織だ。話は外まで聞こえていたのだろう。声そのものはいつもより草臥れた様子ではあるものの、その瞳はいくらか鋭い光を放っている。

「成長しませんね、天城先輩」
「……好きに言えばいいド!」

棘のある言葉に顔をしかめ、天城は依織を押しのけて輝を引き摺ったままとうとう部室を出て行ってしまった。

「あっ、信助!」

天城に続き部室を後にした信助に、天馬は慌てたように鞄を背負ってそれを追い掛ける。
天馬を見送り、閉じた扉を背にして依織は溜息を吐いた。

「ホント、この部にいると飽きませんよ」
「鷹栖……お前から鬼道監督に、練習メニューを変えるように頼めないのか?」
「無理ですね」

少しばかりの希望の籠もった三国の言葉を、依織は間髪入れず一刀両断する。
肩を竦める彼女の表情には、諦めに似たものが浮かんでいた。

「言ったところで、追い返されるだけですよ。 練習メニューを変えるつもりはない──って」
「しかし……」

このままでは、チームはバラバラだ。彼の言いたいことが分かったのか、依織は少し考え込む仕草をした。

「……私は、チビの頃から有兄さんのことを知ってます。スパルタで、意地が悪くて、効率厨で、そのくせ飴と鞭の差が使い分けが上手い」
「? あ、ああ……」
「それから、時々言葉が足りない」

依織は伏せていた目を開け、面差しを上げる。
その表情に、誰もがドキリとした。それほどに、彼女の瞳は冷静に、一欠片の感情も込められていないように見えたから。

「今回、私は有兄さんの味方も、みんなの味方もしません。ただ、やるべきことをやるだけ。それじゃ、失礼します」
「あ、鷹栖──」

踵を返し、呼び止めた神童へ軽く手を翻して依織はその場から立ち去って行く。
彼女にしては、やけに抽象的な物言いだった。言葉の真意を考える剣城の耳に、「円堂監督……」と神童がどこか頼りなさげに呟くのが聞こえた。




「──私は顧問……選手を守らなきゃ!」

部室が不穏な空気に包まれる一方で、春奈は足音荒く兄がいるであろう特別室へ向かっていた。
確かに自分は、依織が昨日言った通り指導者としての鬼道を見る機会は少なかったかもしれない。
しかしそれはそれ、これはこれだ。教職者として、顧問として、自分には子供たちを守る義務がある。

ノックも短く、春奈は勢いよく特別室の引き戸を開いた。

「話があるの兄さん! サッカー部をどうするつもり──うわっ、と!」

ノートパソコンから顔を上げた鬼道が口を開くよりも早く、床に散乱していた書類を踏みつけた春奈の足がズルリと滑る。
危うく尻餅を突きそうになった春奈は、こんなに散らかして危ないじゃないの、と今度はまた別の怒りを覚えながらその書類を何となしに拾い上げた。

「! これって……天馬くんのデータ」

額の眼鏡を降ろし目を見張った春奈に、鬼道は何を言うでもなく作業を再開する。
次々と床に散らばった書類を集めて目を通すと、それが選手たちそれぞれのデータであることが分かった。そしてその中には、当然信助や天城のデータもある。

「全員分、こんなに細かく……」

兄さん、と呟けど、鬼道は反応を示さずただキーボードを叩き続けるだけだ。
しばし間を置き溜息を吐いた春奈は、「床を散らかすのは止めてよね」と、丁寧に揃えた書類をデスクに置いて特別室を後にした。




練習メニューが変わり、3日目。
今日もまた昨日までと同じメニューだ。しかし、人数が足りない。鼻を鳴らした水鳥が、腕を組む鬼道を横目に少し大きな独り言を呟いた。

「3人も部活に来ないなんて、この練習どっかおかしいんじゃねーか?」

水鳥さん、と葵が僅かに困ったように彼女の袖を引くが、水鳥はその言葉を撤回する気はないようだ。もう一度鼻を鳴らして、空を見上げている。
鬼道は汗まみれの泥まみれになりながら、草臥れていく選手たちを遠巻きに観察して眉間に皺を寄せた。

「(流石に、帝国のようにはいかないか……)」

残してきた教え子たちのことを考えながら、鬼道は浅く溜息を吐く。
その日も変わらず、単調な練習は日が暮れるまで続いた。




「はーっ、今日も疲れた……」

鬼道がグラウンドから去り、芝生に仰向けに倒れた天馬が大きく息を吐き出す。
他の選手たちは喋る気力も沸かないのか、依織に至っては俯せたままビクとも動かない。

「……本当に、このままで良いんだろうか」

息を整え、片膝を抱えて座り込んだ神童がふと呟く。

「円堂監督は、俺たちに希望の光を見せてくれた。俺たちもそれを目指していたから、心を強く持てた。けど、今は──」

仲間は欠け、残った自分たちも度重なる疲労と鬼道に対する不信感でボロボロになっている。このままでは、チームそのものが壊れてしまうのではないか。
そんな懸念を抱く神童の背中に、突然呆れたような大声が響いた。

「げにまっことしょげてばっかりやのう、神童」
「! 錦」

振り返ったそこにいたのは、自分と同じくクタクタになったはずの錦だった。彼にしては珍しく、眉間に皺を寄せてジト目で仁王立ちしている。

「霧野らや先輩方も同じじゃ! 神童のうじうじが移っちょったが!? 」
「っお前に何がわかる、錦!」

むっと眉根を寄せた霧野が立ち上がる。まさに喧嘩が勃発しようとしている一触即発の雰囲気に、思わず止めようと声を上げかけた葵の肩を水鳥がぐっと掴んで制止した。
錦に任せておけ。言外にそう伝えるように。

「さあな! ……ああそうそう、逆に変わってて驚いたこともあるぜよ。なーんだ?」
「錦、いい加減に……」

唐突に謎掛けをしてくる錦に、流石の神童も僅かに苛ついたように表情を歪ませる。
だが、彼の言葉が続くより先に錦は「時間切れじゃ!」とにんまり笑って見せた。

「答えは顔ぜよ! やる気をなくしちょったあのおまんらが、生き生きしちゅう!」
「……顔」

釣られ、口元に手をやる。
──そうだ、今は疲れ切って笑顔なんて到底浮かばないが、数日前までは毎日が充実していた。以前とは違い、自然に笑えていた。
どんなに辛くても、その先に明るい未来があることを信じていたから。

「すぐに分かったぜよ。円堂監督が、おまんらの心に眠っていた種に、光を当てて芽を出さしてくれたっちゅーのがな」

種を蒔いたのは、きっと天馬だ。天馬や信助が神童や三国の心を動かし、2人は4人へ、4人はやがて5人へ。円堂が光の中へ押しやった背中を水鳥や依織が力一杯叩いて、日の下へ11人が揃った。
サッカー界がフィフスセクターに支配されてから約3年が経とうとした頃に、やっと。

「その芽、枯らしちゅうがか!!」
「……!」

声を荒らげる錦に、神童たちは自ずと息を詰めた。
錦は円堂のことをよく知らない。ただ、元日本代表のすごい選手だと言うことと、師匠と仰ぐ彼から思い出話をいくつか聞いた程度だ。
けれど、彼は円堂に感謝していた。神童たちをサッカーと真剣に向き合わせてくれた彼に、深く。

「わしならぜってー枯らさんぜよ。でっかく育てて、次会うた時驚かしてやるぜよ!」
「錦……」

「──なんちゅうてな」 すっと上がり気味だった肩を下げて、錦は先程の剣幕が嘘のようにいつもの調子に戻った。
葵がちらりと水鳥を振り仰ぐと、彼女は満足げに口角を上げている。

「わしゃあ疲れたきに、先に帰るぜよ。じゃあの!」
「……」

荷物を抱え、言いたいことを言い終えた錦はさっさと部室棟へと戻って行く。
顔を見合わせる先輩たちに、それまで押し黙っていた天馬はすっくと立ち上がった。

「……俺、信助の家に行って来ます」
「天馬?」

キョトンとした様子で葵が天馬を振り返る。
行ってどうするの──そう彼女の目が問い掛けていて、天馬は迷うことなく答えた。

「伝えたいんだ、俺の気持ち。俺、信助とサッカーがしたいって」

天馬は信助と一緒に入部し、ここまで頑張ってきたのだ。 例え人数が揃っていたとしても、このままサッカーをやっていてもきっと楽しくない。

「お先に失礼しますっ!」
「あっ……待って天馬、私も行く!」

風を切って走り去っていく天馬に、慌てて葵が周囲に会釈しながら追い掛けて行った。
「……俺たちも行こうか」やがて何か考え込んでいた三国も立ち上がり、他のメンバーもそれぞれ荷物を持って部室棟へと向かう。

「鷹栖、お前もいつまでもそうしていると風邪を引くぞ」
「あーい……」

額に芝生を付けて、依織はのろのろと起き上がった。
「依織ちゃん、まさか寝てたの?」もののついでのように狩屋がからかうと、そんなわけないだろ、とにゅっと伸びた足が彼の脛を軽く蹴る。

「私も軽く腹拵えして帝国に行かないと……」

明らかに面倒臭がっているだろう声音で呟いて、依織は腰を伸ばした。
「オーバーワークじゃないのか?」少しばかり眉根を寄せた剣城が問えば、彼女は首を横に振り否定する。

「その辺は次郎兄さんが調整してくれてるから大丈夫。何、心配してくれてんの?」
「……バカか」

ニヤニヤとしている依織に、瞬時に口のへの字に曲げた剣城は使い損ねたタオルで彼女の額を叩いた。