「あーっ、イライラするド!」
すっかり日も暮れた稲妻町の商店街──その一角にあるラーメン店雷雷軒≠ノ、雷を落としたような怒号が響く。
1日、2日と練習をボイコットした天城たちは、河川敷のグラウンドでボールを蹴って暇を潰した後、こうして連日雷雷軒に入り浸っている。
巻き込まれた形の輝からすれば、2日間も店で愚痴を垂れて騒いでいては追い出されるのは時間の問題ではないかと危惧していたが、店主の青年はそんな心配を他所に何も言ってこない。
「こうなったら転校するしかないド 。なぁ影山!」
「は、はい……って、ええっ!?」
思わず条件反射で頷いて、輝はギョッとした。
転校。まだ雷門に来て1ヶ月も経っていないのに。
あわあわと慌てる輝を窘めるように、ふとそれまで天城たちの声しかしていなかった店内に低いそれが響く。
「……嫌なら戦えばいい」
「!」
言葉を発したのは、昨日も今日も必要以上のことを喋らなかった雷雷軒の店主だった。鍋の湯気に囲まれて、店主は食器を洗い続けている。
「戦うだド?」言葉の意味を受け取り、考え込んだ天城はボソボソと独り言ちる。
「そうだ……フィフスセクターから本当のサッカーを取り戻すんだド。ここで逃げたら前に戻っちまうド」
ふむ、と天城は鼻に皺を寄せた。
成長していない。後輩にそう言われた時はただ批判されただけだと思ったが、もしかするとこのことを言っていたのかもしれない。
フィフスセクターに従っていた時から、何ら成長していない──そんな風に。
「おおし! 戦ってやるド!! なっ!」
「ええっ!? 戦うってまさか、監督と!?」
まさかのリアルファイト宣言か、と輝は一気に青ざめる。
そんな彼の穏やかでない心境は知らずに、「はい、ラーメン一丁」と差し出されたラーメンを前に天城は割り箸を割った。
「そうと決まれば腹ごしらえだド!」
「い、いただきます!」
豪快に麺を啜り、天城はふと隣に腰掛けた信助を見下ろす。
信助は出されたラーメンに手を付けず、難しい顔でスープの水面を見つめていた。
「信助、お前はどうするド」
「…………僕は、戻りません」
ぱきりと小さな手で割り箸を割って、信助はのろのろと麺を口にする。
そうか、と首を傾げた天城はそれ以上追求しないことにしたのか、再びラーメンに没頭し始めた。
「こんばんはー。店長ぉ、醤油ラーメンひとつー……」
ふいに、がらがらと開いた引き戸の向こうから間延びした声が聞こえてきて、真っ先に振り向いた輝があっと声を上げる。
「ウチはもう食券制になったんだって何度も言ってるだろ」
「はーい、……あ?」
暖簾から顔を出したのは、疲れ切った様子の依織だった。学校指定のジャージではなく、恐らく個人のものであろう草臥れたそれを着込んでいる。
予想もしていなかった遭遇に、天城は鳩が豆鉄砲を食らったような表情になって思わず蓮華をスープの中に落とした。
「鷹栖! 何でお前ここにいるド?」
「何でも何も、ラーメン食べに来たんですけど……。て言うか天城先輩たち、ここで時間潰してたんですか」
部活に来ないと暇になるんですね、と素なのか皮肉なのか分からない微妙なラインの言葉に天城は眉を跳ね上げ、輝はあわあわと2人の顔を見比べる。
「それも今日でお終いだド」先に折れたのは天城だった。ふんと鼻を鳴らして、中身の半分減った丼を傾ける。
「ここまで来てもう成長してないとは言わせないド。明日からは、正々堂々正面から戦うんだド!」
「? はあ、そうですか」
当然、前後の繋がりを聞いていない依織からすれば、何の話かは分からない。
「何のことだ?」と輝の隣に腰掛けながら小声で尋ねても、曖昧かつ困ったような苦笑いが返ってくるばかりだ。
「……ねぇ依織。天馬、何か言ってた?」
冷たい水で喉を潤している最中、ぽつりと信助が口を開く。
正面に向けられた視線は依織の方を向いてはいなかったが、幼い横顔からは不安にも似た感情が読み取れた。
「……天馬は、お前がサッカー部に戻ってくるって信じてる」
「!」
カウンターに置かれた透明なコップから、雫が滴り落ちる。中に入った細かい氷が、カランと音を立てて水に沈んだ。
「このまま戻ってこないかもなんて、微塵も思ってねーよ、あいつは。さっきもお前の家に──」
「っごちそうさまでした!」
言葉尻を掻き消して、信助は椅子から飛び降りた。跳ねた割り箸がカウンターに転がる。
「ったく、最後まで聞けよな」小さな背中が店を飛び出していくのを見送り、依織は呆れたように溜息を吐いた。
「ああそうだ、店長。ここって出前もやってましたよね?」
薄暗い夜道に、跳ねる息と小さな足音が響く。
商店街から殆ど立ち止まらずに自宅近くの住宅街まで駆けてきた信助は、そこで漸く歩幅を緩めた。
──依織は決して同情から嘘を吐くような性格はしていない。彼女の言ったことは事実なのだろう。
天馬には僕の気持ちは分からない──そんな酷いことを言ってしまったのに、彼はそれでも尚自分を信じ、待ち続けているのだ。
「信助、まだ帰ってきてなかったね。このまま練習に出てこないのかな……」
「信助はきっと戻ってくるよ」
その時、曲がり角の向こうから聞こえてきた声に、信助はハッと顔を上げた。
反射的に電信柱の影に隠れるのと同時に、道の向こうから天馬と葵が並んで歩いてくるのが見える。
「早く伝えられると良いね。天馬の気持ち……」
「うん──俺、早く信助とサッカーがしたいよ」
2人分の足音が遠離って行く。その背中が次の曲がり角に消えたのを見送って、信助はそっと影から1歩出た。
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自分以外誰もいない特別室に、ただひたすらキーボードが文字を打ち込む音が小さく響く。
そろそろ目の奥が疲れから痛んできたのを感じながら指を動かす鬼道の耳に、がらりと特別室の扉が開く音が聞こえた。
「ちわーっ、雷雷軒でーす」
「! 飛鷹……」
顔を上げ、鬼道はサングラスの奥の目を瞬かせる。
岡持を片手にそこに立っていたのは、高校を卒業して以来響木から雷雷軒を継いだ現店主の飛鷹だった。
「お節介一丁」
驚く鬼道の目の前に、飛鷹はただ一言告げて岡持から取り出した丼一杯のチャーハンを置く。
「……出前は頼んでいないはずだがな」
僅かに眉を上げた鬼道に、飛鷹は小さく頭を振って緩やかに口角を持ち上げた。
「鬼道さん……俺たちが世界一を目指していた頃、凄い人たちと一緒にフィールドに立つのが不安でした」
俺、みんなに着いていけるのかなって──そんな風に、飛鷹は唐突に過去の自分の思いを吐露する。
チャーハンからは、温かい湯気が立ち上っていた。
「先を行く人の姿は見えないもんですよ──眩しすぎて」
「……今の俺は、あいつらにとって先を行く者なのか」
「……冷めない内にどうぞ」思わせ振りに微笑んで、飛鷹は踵を返し特別室を後にする。
そこで鬼道は、折りたたまれたメモ用紙が丼の下敷きになっていることに気が付いた。勿論、彼の持ち物ではない。
『無理は禁物』──10年前から聞き慣れた口癖と、案外丸っこい妹分の文字で書かれたメモに表情を一瞬緩め、鬼道は蓮華を握り締める。
1つだけ明かりの点いた部室棟を見上げ、飛鷹は岡持を持ち直す。常連の女子中学生から受け取った代金よりも多い量を持ってきたが、これも昔馴染みからサービスと思ってもらえれば良い。
「ま、んなこと言われなくともわかってんすよね。帝国との違いを知ってる鬼道さんなら……」
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夜が明け、とうとう4日目の放課後が来る。
グラウンドにいるのは、1年生数人と錦だけ。辺りを見回し、茜がピンクのカメラを撫でながら不満げに呟く。
「神サマたち、遅い……」
「来ねーんじゃねーか? 監督があんなんだし」
鬼道や春奈がまだ来ていないことを良いことに、水鳥が刺々しく吐き捨てる。
依織はちらりと校舎の方を見上げて、手持ち無沙汰のようにがしがしと後頭部を掻いた。
ふと、あっと天馬が小さく声を上げる。
視線の先には、グラウンドを見下ろす形で佇んだ神童たちの姿が揃っていた。
「練習の厳しさなんて、サッカーを出来ない辛さに比べればちっぽけなことだからな!」
三国や車田が、顔を見合わせ笑い合う。
神童は錦と視線を合わせ、小さく頷いた。
「円堂監督は、俺たちの心に革命の芽を出させてくれた。──でもそれを育てるのは、俺たち自身だ!」
「……おう! ドでかくなって驚かせてやるぜよ!」
一瞬虚を突かれたように目を丸くした錦だったが、神童たちが覇気を取り戻したことが分かるや否や豪快に笑ってみせる。
そこへ、裏門の方から暴れ牛の如く激しい足音を立て、土煙を巻き上げながら大きな人影がこちらに走ってきた。
「だぁーっ! 戦うド! 戦うド! 戦うドー!!」
「あ、天城先輩?」
輝を小脇に抱えた状態で、雄叫びを上げながらやって来た天城に天馬はついつい一歩後退る。
「戦うって……」鼻息荒く急ブレーキを駆けて仲間たちの前で立ち止まった天城に、車田が驚きを隠せないまま首を傾げた。
「練習最後までやりきって、鬼道監督を見返してやるド! なぁっ、影山!」
「あっ、は、はい……」
肩を揺らした輝は、心なしかホッとしながら頷く。昨日の天城の戦う宣言を受けて、まさか鬼道に喧嘩を仕掛ける気ではないかと危惧していたなど口が裂けても言えない。
無事戻ってきた部員たちに安堵しながら、辺りを見回した天馬は眉を下げた。
まだ1人、足りない。
「……あとは信助だけか」
「信助は来ます! 必ず……!」
「だドも、あの様子じゃあ……」
天城の目が依織の横顔を捉える。
依織は一瞬そちらに視線をやって、小さく首を振った。
「信じてるんです、俺」
初めから、最後まで。一貫して姿勢を変えない天馬の耳に、1人分の足音が届く。
聞き慣れた人一倍小さなスパイクが地面を蹴る音に、彼らは一斉に顔を上げた。
「っ天馬ー!!」
「信助!」傾き始めた日の光を背に浴びながら現れた信助に、天馬の表情が輝く。
信助は息が十分に整わないまま、力一杯叫んだ。
「僕も……僕も天馬とサッカーがしたい!!」
「うん!!」
信助は鬼道監督に認められたくてサッカーをしているのか──心が折れた時、天馬にそう聞かれた。
その時は頭に血が昇っていたこともあって心無いことを言ってしまったが、そんなことを考えたことは一度たりともなかったのだ。
「サッカーが好きなんだ! 天馬や先輩たちとプレーするようになって、もっと好きになった! だからサッカーから逃げない! 鬼道監督からも……!」
「一緒にサッカーやろう、信助!!」天馬の日焼けした手が差し伸べられる。
信助は満面の笑みで頷くと、跳ねるようにグラウンドへ駆け下りた。
これで全員。タイミングを見計らったように、校舎の方から2人分の影が伸びてくる。
「!!」
各々、緊張した面持ちでこちらを見つめた雷門イレブンを見下ろして、鬼道はゆっくりと息を吸い込んだ。
「新しい練習メニューを発表する。1人1人個別の練習メニューだ」
グラウンドへ降りてきた鬼道が、春奈に目配せをする。
1枚1枚、名前を確認しながら渡されたメニュー表に、あちこちから苦い呻き声が聞こえてきた。
文字と数字を目で追うと、先日までの基礎練習に加えいくつか新しいものが増えている。
それに伴い回数の減ったものもあるにはあるが、その内容の厳しさはあまり変わっていないようにも思えた。
神童はメニューを綺麗に2つ折りにすると、1つ息を飲んで鬼道の前へ進み出る。
「鬼道監督。練習を全てクリアしたら、話を聞いていただけますか。雷門サッカー部の、これからについて……」
真剣な眼差しの神童に、鬼道はいくらか間を空けて無言で頷いた。
そうして、今までと少し変化の出た練習が幕を開ける。
走って、鍛えて、時間は刻々と過ぎ、積み重なった疲労に筋肉が悲鳴を上げ始めるのを感じながらも、誰も文句は言わなかった。
すっかり日も暮れて、グラウンド上方に設置されたライトが灯る。
「こ、これで……」クタクタになりながら内周を終えた天馬が、思い切り体を芝生に投げ出した。
「終わったーっ! 全メニュー達成……!」
「俺たちもだ」
仰向けになって手足を伸ばした天馬に続き、神童や三国たちが疲れた様子で戻ってくる。
「あとは……」呟きながら神童が視線を投げた先には、積まれたタイヤにゴム紐で繋がれた状態でコーンに手を伸ばす信助の姿があった。
「最後の1回……!」
「頑張れ信助!」
自分がタイヤに繋がれている訳でもないのに、歯を食い縛る信助の表情に吊られて応援にも熱が入る。
やがて、必死に伸ばされた信助の手が、コーンの先を掴んだ。
「! やったー!」
気が緩んだのか、次の瞬間ゴム紐に引っ張られてコロコロ後ろに転がっていく信助を慌てて天馬と輝が助け起こしに向かう。
今日はダウンしていなかった依織はそれを見届けると、さて、と芝生から腰を上げた。
「これで全員、終わりましたね」
「──ああ」
足を伸ばし、神童たちも立ち上がる。
2人に挟まれ輪に戻ってきた信助も加わり、雷門イレブンは鬼道を振り返った。
鬼道は先程から何も言わず、口を噤んでいる。
「きっと悔しさで声も出ないんだド」
「そうでしょうか……?」
してやったり、と嬉しそうに小声で呟く天城に対し、天馬は小首を傾げた。サングラスで表情は分かり辛いものの、悔しがっているようには思えない。
ふいに、何か考え込むように顎を片手で支えた剣城が、足元にあった自分や他の選手たちの練習メニューを拾い上げる。
「……そういうことか」
「剣城?」
もう一度メニューに目を通し、得心がいったように呟いた剣城に、気付いた神童が声を掛ける。剣城は重ねたメニュー表を翻しながら答えた。
「新しい練習メニューは、俺たちがやり遂げられる限界ギリギリの量です」
「! それは……」
そこで神童も気が付いた。昨日までは、練習を終えた頃にはすぐに立ち上がることも出来なかった体が、今日は最後まできちんと動いている。全員が違うメニューを熟したというのにも関わらずだ。
それはつまり、各々が剣城の言う通りノルマを達成出来る範囲ギリギリのメニューを与えられたと言うこと。
「鬼道監督は、全員の能力を把握している。一見無茶を言っているようだが、それぞれの最大の力を引き出そうとしている」
「何て人だ……あの厳しい練習は、全員の限界を調べて、個別の練習メニューを作り上げるためだったのか……!?」
驚愕の視線を向けられても、鬼道は腕を組んだまま微動だにしない。剣城はそこで、ややじとりとした目を依織に向けた。
「鷹栖。お前、知ってて言わなかったな?」
「まーな」
「え?」
何で黙ってたんだ、と疑問を口にした霧野に対し、依織はいつもの調子で悪びれなく肩を竦める。
「だって、1日目であんなに疑ってたところに本当の理由教えたって、信じなかったでしょう」
「そんなことは……」
ごにょごにょと呟いた霧野を始め、何人かが居心地悪そうに明後日の方向を見た。
確かにあの時は円堂もいなくなって、不安だらけの状態で鬼道が監督に代わった。鬼道はコーチとしては有能だが、まだ充分に雷門イレブンの信頼を勝ち取っているわけではない。
確かに依織の言う通り──根っから素直な天馬や輝はともかく、あの場で信じられない選手が出ていたことは明らかだろう。
「ね、有兄さん」首を傾げた依織に、鬼道は細く溜息を吐きようやく口を開いた。
「──雷門の強さは、それぞれ必殺技や得意なプレーがあること。そして弱さは基礎体力」
「基礎体力……?」
あまり聞き慣れない単語に、天馬が首を捻る。
筋力、瞬発力、持久力など、全てにおいて基礎となる体力──それが基礎体力。
きっと、円堂も雷門の弱点に気付いていたのだろう。けれど彼は言わなかった。言えなかったのだ。みんなの良いところしか見れない──苦笑い混じりに、彼は別れ際にそう言っていたから。
「必殺技や得意なプレーに頼りすぎるのは良くない。通用しない場合があるからだ」
「その時に役に立つものが、基礎体力……」
噛み締めるように呟いた三国に、鬼道は頷く。
それなら、と信助がハッと声を上げた。
「僕だけ厳しく感じたのは……」
「西園は自分で限界を決めてしまうところがある。……気付いたな?」
1日、2日目と、限界を感じると鬼道はいつも信助のノルマを重くしたが、それは彼に自分の限界がその先にあることを言外に伝える為だったのだ。
「はいっ!」表情を輝かせ、力一杯頷いた信助に薄く微笑むと、神童はもう1度鬼道の前へ歩み出る。
「ありがとうございました、監督。改めて、よろしくお願いします!!」
「よろしくお願いします!!」
一斉に大きく下げられた選手たちの後頭部を見下ろし(依織は少し腰を折っただけだった)、鬼道はここに来てようやく緩やかに口角を上げたのだった。