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アフロディからの指示により、河宮に代わり快彦がフィールドに足を踏み入れる。
快彦はまだ少し戸惑った表情をしていたが、それでもアフロディの言葉を貴志部たちに伝えるため、急ぎ足で彼らの元へと駆け寄った。

「キャプテン、監督からの指示です!」
「次の戦略か?」

辿り着くや否や口を開いた快彦に、貴志部が何か言うよりも早く跳沢が食いつく。
快彦は、はい、と頷いたものの、どこか困惑気味な顔で言葉を続けた。

「今この瞬間、誰にシュートを打たせれば良いか……自分を誤魔化さずにプレーしろ、と」

「それだけ……?」首を捻る跳沢に、快彦は神妙な顔で頷く。

アフロディが監督に就任してまだ大した日数は経っていないが、その短い期間で彼の監督としての手腕はある程度理解している。
今まで的確かつ具体的な指示を聞いてきた彼らに取って、今回の指示はあまりにも抽象的過ぎるような気がしてならなかった。

だが、貴志部はそうは思っていないようだった。数回目をしばたき、彼は緩く微笑んで頷いてみせる。

「それで十分だ。ありがとう、快彦」
「ふん、馬鹿馬鹿しい……!」

対し、そっぽを向いてぼそりと毒突いた総介に、快彦は眦を吊り上げて彼を睨んだ。

「兄さん、これは監督からの指示だ!」
「どうかな……俺たちが負ければ、聖帝選挙は革命派に有利に動く。お前は雷門の勝利を願ってるんじゃないのか?」
「革命の為にわざと負けたら、フィフスセクターのサッカーと同じじゃないか!!」

兄の心無い言葉に頭に血が昇った快彦は、思わず声を荒げる。
そんな状態でもまだ思考に冷静な部分が残っているのは、貴志部が、ひいてはアフロディが自分の言葉がどう続くのか見守っているのを肌で感じているからだ。

「俺は、この試合に勝ちたい。勝って俺たちなりの答えを見つけたいんだ!」
「……俺は俺のプレーをフィフスセクターにアピールするだけだ」

眉間に深い皺を刻んだ総介は、「邪魔は許さない」と冷え切った声で言い放ち、懸命にこちらを見上げてくる弟に背を向ける。
雷門陣内からその会話の内容は聞き取ることは出来なかったが、木戸川清修が仲間内で一触即発の状態に陥りつつあると言うことは先の試合でも感じていた。

「何か、また揉めてますねあちらさん」
「ああ……だが、俺たちにそれを気にしている余裕はない」

傍らに寄ってきた依織に、神童は冷静に切り返す。
あんな状態の仲間たちを纏めようとしている貴志部には、神童も正直なところ同情しているのだ。バラバラになったチームを元に戻すには、精神力が必要になりストレスも掛かる。それは自らが痛いほど体験して知ったことでもあった。

しかし、今は試合の最中。同情して手を抜くことはあちらを侮辱するのと同じだ。それに、そもそも手を抜く余裕がないのも分かりきっている。
ならば、こちらも最後まで敬意をを持って全力で戦わなければならない。

「やるぞ、みんな! フライングルートパスだ!」

雷門のフリーキックで試合が再開するなり、神童の指示で雷門イレブンたちはフィールド全体に散らばっていく。
空中でのパスを繋ぎ、徐々に木戸川陣内へ食い込む雷門イレブンに辺りをサッと見回した貴志部が声を上げる。

「和泉!」
「っ剣城、前──」

息を切らした依織が叫んだが時既に遅く、剣城の目の前のフィールドが湖に沈んだ。
舌打ちして着地した彼の足元からボールは見当違いの方向へと飛んでいき、落下地点に待ち構えた和泉がワンタッチパスで貴志部にボールを回す。

「行くぞ! 必殺タクティクス、ゴッドトライアングル=I!」

「下がれ!」先陣を切っていた倉間たちを筆頭に、雷門イレブンは迫る攻撃に踵を返し自陣へ駆け戻った。
待ち構えた天馬たちMFの守りを貴志部たちは短いパスを繰り返し、包囲網をかいくぐっていく。

「ディフェンスライン付近っ、来ます!!」

途切れ途切れの依織の叫びが遠くに聞こえ、ディフェンスラインの中枢にいた霧野と車田はハッと1歩後ろへ飛び退いた。
瞬間、2人の視界いっぱいに水の幕が打ち上がる。それに対し、抑止力のなくなった木戸川はそのまスリーマンセルのフォーメーションを駆使し、巧みなパスワークでピッチダウンを切り抜けていく。

「車田さん!!」
「おう!」
「……っ」

目で示し合わせた霧野と車田を寸でのところでフェイントで躱した貴志部から、更にボールは前線へと運ばれる。
ゴールの真正面。ボールを受け取ったのは、快彦だ。

「くっ──間に合わないか!?」

サイドに控えていた狩屋と信助が走り出すも、快彦の足は既に振り上げられている。
「やらせるか……!」来たるシュートを止めるべく、三国が足を踏み出した次の瞬間だった。

「邪魔だぁッ!!」
「うわっ!?」

唐突に快彦の死角から現れたのは、それまで大人しくしていた総介だった。突然駆け込んできた総介は、あろう事か快彦をタックルで突き飛ばしボールを奪っていく。

「兄さん!?」
「ゴールを決めるのは俺だ!!」

吼えるや否や、総介から放たれたのは先程の鋭いものとはまた違うループシュートだ。
てっきり快彦から真正面にボールが来るものと思っていた三国は完全に不意を突かれた形になり、ボールは彼の頭上を軽く越えていく。

「しまっ──」
「やああああああッ!」

間に合わない。だが、苦し紛れに伸ばした手の先に広がったのは、ゴールネットが揺れる瞬間ではなく、ゴール前に文字通り跳び込んできた信助がヘディングでボールをクリアする姿だった。

「あいたっ!」
「信助!」

ボールは緩やかな放物線を描き、フィールドの外へと落ちていく。
三国は顔から落ちた信助にギョッとしながらも、色々な嬉しさを抱えてニコニコしながら彼に手を差し伸べた。

「助けられたな……!」
「三国先輩……」

三国に引っ張り上げられた信助は、ぶつけた拍子に赤くなった額を擦りながら自慢げに笑っている。
そんな様子を眺め、アフロディは小さく微笑んだ。

「それぞれが瞬時に判断し、補い合う。これが雷門のサッカー……」

全く、変わっていないな──懐かしそうに呟きながら、ふと目を細めたアフロディは次に滝兄弟の方に視線を向ける。

「雑魚がっ……余計な真似を!」
「恥ずかしくないのか、兄さん……ッ」

「何だと」責める声音をしたの快彦の言葉に、総介は舌打ちする。快彦はそんな兄の態度に怯まず、彼を一心に睨んでいた。

「フィールドを見てみろよ。みんな、全てを懸けてこの試合に臨んでる……自分のことしか考えてないのは兄さんだけだよ!」
「……っ生意気言うな!!」

弟からの非難に一瞬鼻白んだ総介は、直ぐさま一喝して再びフィールドに入ったボールを奪いに向かう。
しかし、仲間たちは誰も彼に協力しようとしない。1人雷門陣内に特攻し、敢え無くハンターズネットの餌食になった総介に快彦は耐えきれずに叫んだ。

「兄さん、いい加減にしろよ!!」
「うるさいッ!!」

怒りを露わにした兄弟2人の怒号も、事情を知らずに観戦している観客の歓声にあっと言う間に掻き消されていく。

「兄弟喧嘩してる場合じゃないと思うけどねッ!!」

睨み合う総介と快彦の脇を、狩屋が余裕のドリブルで駆け抜けていった。
あっと声を上げるも間に合うはずがなく、ボールは狩屋から天馬へ、天馬から神童へ、そして神童から錦へと、木戸川陣内へどんどん入り込んでいく。

「何度も行かせるかよ!!」
「木戸川を舐めるなぁ!!」

哮る木戸川のDF2人は結託し、連携技のビッグシザースでで錦からボールを強引にもぎ取った。
錦は遠離っていくボールを悔しげに見送り、体勢を立て直して口角を上げる。

「へへっ──流石木戸川清修、簡単に攻めさせてはくれんぜよ」

繋がれたボールは再び雷門陣内へ、貴志部へと渡って行く。歯噛みして自陣へ戻った神童は彼を追い、やがて並走した。

「良いチームに成長したな……!」
「っ貴志部」

追われながら、汗を流しながら、それでも貴志部は口角を持ち上げて神童に告げる。
だが、と言葉を続けた彼の表情に、一瞬前まであった爽やかな笑顔は既にない。

「今年も俺たちが勝つ!!」
「……!!」

加速した貴志部は神童を置き去りにし、ゴッドトライアングルを発動させる。
密なフォーメーションを点在させたタクティクスは、雷門にボールを渡すことなく攻め込んでいく。

「あれを見て何とも思わないのか、兄さん……!」

走りながら聞こえた訴えに、総介は快彦を振り向いた。快彦は足を止めぬまま、仲間たち、そして雷門イレブンを指して叫ぶ。思いのたけを、兄に訴えた。

「みんな、勝つために一生懸命だ。兄さんはそれを無駄にするの!?」
「──ッ黙ってろ!!」

振り切るように激しく頭を振り、総介は快彦を置いて加速する。
「兄さん!」後ろから快彦の呼び声が追い掛けてきたが、それを顧みる余裕は今の彼にはない。

「抜かせるか!」
「跳沢!!」

車田のマークを振り切ろうとした跳沢を追い抜きざま、総介は走りながら声を張り上げる。
苦し紛れに出されたパスは今度こそ総介に届いたが、雷門イレブンがそれを黙って見送るわけがなかった。

「10番をフリーにするな!!」

跳沢をマークしたまま車田が叫ぶ。
総介そのまま雷門陣内を駆けていったが、如何せんまだゴールは遠く周りを見渡してもそれぞれにマークが付きパスを回せるような戦況ではない。

「兄さんっ!!」

その時、耳に飛び込んできた聞き慣れた声に、総介は弾かれたように顔をそちらに向けた。
──快彦だ。1人、マークから免れた快彦がサイドからゴール間近へ走り込んできている。

今この瞬間、誰にシュートを打たせれば良いか──ふいに、快彦から聞いた言葉が脳裏に蘇る。それはまるで、テクニカルエリアのアフロディが直接彼の頭に語りかけてきているかのように、鮮明に再生された。

『自分を誤魔化さずにプレーするんだ──総介』

歯を食い縛る。走るために振り抜いた両手をキツく握り締める。
本当は、分かっていたはずだ。サッカーは独りでは出来ない、仲間たちがいて初めて完成するものなのだと。

「──行け、快彦!!」
「えっ……」

雷門のDFたちの頭上を通り越し、大きな放物線を描いて落ちてきたボールに、快彦は思わず戸惑う様子を見せる。
困惑した様子でボールを見上げる弟に、総介は喉が嗄れんばかりに思い切り声を張り上げた。

「打て!! シュートを決めろ!!」
「兄さん……!」

頷いた快彦の足が振り抜かれる。
「しまった──!」放たれたダイレクトシュートはゴールの四隅へ、三国が待ち構えていたのとは真逆の方向へと飛んだ。

「っ信助くん、跳んでこいッ!!」
「! うん!!」

突然叫んだ狩屋に、信助はハッとしながら頷いて走り出す。
ボールは既にペナルティーエリア内に入っている。コンマ数秒の刹那の世界、あれを止められるのは、今1番ゴールに近い自分たちしかいない。
ならば──やるしかない。本来なら天馬と連携する筈だったこの技を、自分が代わりに。

「かっとび──!」
「ディフェンスーー!!」

狩屋のスパイクを発射台に、ロケットのように跳び出した信助のヘディングがシュートを捉えた。
ボールはゴールラインを超えるすれすれのところで弾かれて、湖へと落下していく。

「何とか上手くいったな……!」
「うんっ!」

わっと歓声が上がる中で、狩屋は冷や汗を拭いながら片手を伸ばしてきた信助と軽くハイタッチを交わした。
せっかくのチャンスだったのに──快彦は流れていくボールを見つめ、悔しげに息を飲む。
だが、そんな彼の背中を叩くかのように、遠くから兄の大きな声が聞こえてきた。

「ぼさっとすんな快彦! まだ試合は終わってないぞ!!」
「! ……っうん、兄さん!」

パッと顔を輝かせ、快彦は自陣へ戻る兄の背中を追い掛ける。
そんな兄弟の様子を一瞥して、アフロディはニッコリと微笑んだ。

「(分かってくれたようだね……)」

ここまでくれば、あとは彼らの力を信じるのみ。もう自分から言うことは何も無い。
後半も残すところあと僅かだ。雷門はダイレクトパスを繋ぎボールをキープして、再び木戸川陣内へと攻め込んでいく。

「行け! 敵陣を一気に突っ切って、前に繋ぐんだ!!」
「はいっ!!」

神童の指先から迸る闘気が、光の筋になり仲間たちを導く道になる。それを辿り風のようにフィールドを駆け抜ける天馬の前へ、雄叫びを上げ鉄騎兵ナイトを発現させた総介が立ちはだかった。

「行かせるか!!」
「負けるもんかぁッ!!」

負けじと天馬が発動した魔神ペガサスが、その拳でナイトをフィールドに叩き付ける。
「錦先輩っ!」死守したボールは前線へと駆け込んだ錦へと回され、ゴールキーパーとの一騎打ちになった。

「行くぜよ!!」

風が吹き荒び、戦国武神ムサシがフィールドに姿を現す。
彼の体に纏わり付くように、季節外れの真っ赤な紅葉が舞い踊る。ムサシの白刃は紅を切り裂き、ゴールに待ち構えていた堅山のバロンに袈裟懸けに振り下ろした。

「武神、連斬ッ!!」

バロンの盾とムサシの刀がぶつかり合い、激しく火花を飛び散らせる。
仲間たちが固唾を飲んで見守る中、一瞬とも数分とも思えるような鍔迫り合いの末に勝ったのは、ムサシだった。
切り崩されたバロンを超えて、錦のシュートは木戸川のゴールを抉る。

「おおっし!!」
「や、やったぁ!!」

錦が力強く拳を握り締め、仲間たちが歓喜したその瞬間、天高くホイッスルが吹き鳴らされた。試合終了の合図だ。
割れるような歓声の中見上げたスコアボードは、2対3に変わっている。

「錦!」
「ざっとこんなもんぜよ!」

駆け寄ってきた神童たちに、錦は自慢げに胸を聳やかす。そんな光景を見つめ、快彦は息を切らしながら肩を落とした。
傍らには同じように肩で息をする兄が佇んでいる。

「兄さんごめん……結局、俺には何も出来なかった」
「別に、相手のDFの方が凄かったってだけだろ。……お前のシュートも、中々良かったぜ」

ぶっきらぼうな言葉に、快彦は目を丸くして兄の後頭部を見つめた。
総介は肩越しに弟を一瞥して、目を逸らしながらぼそりと零す。

「──勝ちたかったな。この試合」
「……っうん」

言葉は相変わらず荒く、素直じゃない。しかしそれでも快彦には、彼が以前のサッカーと真摯に向き合っていた頃の兄に戻ってくれたことが分かって、顔を綻ばせる。
総介は一瞬気まずそうに笑った後、弟と共にテクニカルエリアへと駈けていった。

「良い試合だったよ、鬼道くん」
「! アフロディ」

戻ってきた選手たちを出迎えているところで、鬼道は脇から聞こえてきた晴れやかな声にそちらを向く。
教え子たちを伴い雷門のテクニカルエリアに歩み寄ってきたアフロディは、にっこりとした笑みを湛えてその手を差し伸べた。

「でも、次の試合では必ず木戸川清修が勝たせて貰うよ」
「──雷門も負けはしないさ」

不敵な笑みを浮かべ、2人は固い握手を交わす。
それから、と思い出したようにアフロディが次に見下ろしたのは、そっと鬼道の傍らに立った依織だった。

「2年前に3人でお茶した時、会った切りかな? 久しぶり、依織ちゃん。君も強くなったね」
「ありがとう、照美さん」

「2年前? お茶?」鬼道が僅かに怪訝な気配を放つのを肌で感じながら、依織は小さく会釈する。
同じように差し伸べられた手を少し戸惑いながら握り返すと──掌に、何か固く小さな物が預けられたのが分かった。

「お姉さんにも、よろしくね」
「……ええ」

何事も無かったかのように解かれた手を翻して、「じゃあ、また会おう」とアフロディは木戸川イレブンを引き連れて颯爽とピッチから退場する。
依織がそっと両手をポケットに突っ込んでいると、それまで様子を見守っていた天馬たちがバタバタと走り寄ってきた。

「依織ってやっぱり木戸川の監督とも知り合いだったの!?」
「やっぱりって…………ああ」

そこで依織は、ホーリーライナーで自分がアフロディに対して呟きを零したことを思い出す。

「姉さんのお茶のみ友達だよ、あの人は」
「ほう」

ごく小さく、鬼道の低い声が聞こえてくる。依織はそそくさと彼から離れて、溜息を吐いた。
どうやら彼も詳しいことは聞かされていなかったらしい。ここ3年近く会っていない上、極力接触を避けているのだから当然と言えば当然だった。

「──俺たちも戻るぞ。学校に着いたら今回の反省点を踏まえて、ミーティングだ」
「はいっ!」

選手たちが大きく頷いて、雷門イレブン一同はピッチを後にする。
歓声はまだ止まず、彼らの背中を追い掛けた。

「それにしても、今回のフィールドもとんでもなかったな」
「そうだな……いつ水に落ちるかと思うと冷や冷やしたよ」

肩を揉みほぐしながら呟いた倉間に、霧野が苦笑いを返す。実際水に落ちはしなかったものの、ユニフォームは汗と飛び散った水飛沫でクタクタだ。

「ああ。実際、鷹栖のフォローがなければ危なかったな」
「すんげー走り回ってたもんなー。お手柄お手柄!」
「ちょ、いたたたやめて下さい」

頭を掻き混ぜる浜野に、依織は最早振り払う元気がないのか力無く為すがままになって顔をしかめるばかりだ。
その時、ふと彼女の後頭部でプツリと小さな音がする。

「あっ」
「あ?」

音もなく冷たい廊下に落ちたのは、紐状の物。それと同時に、高いところで結っていた彼女の髪が、縛めから解かれて落ちてきた。

「あちゃあ……ごめんな、鷹栖!」
「ああ、いや……寿命ですね、これ」

摘まみ上げた髪ゴムは、千切れた箇所からボロボロになっている。ゴムの断面は劣化して、寧ろ今まで保っていたことが不思議なくらいだった。

「下ろしてると邪魔なんだよなぁ。剣城、髪ゴムの予備とかない?」
「ない」

振り向いた先にいた剣城が即答し、髪を結っている周りの人間も申し訳なさそうな顔で首を振る。
渋い表情をした依織は鞄から財布を取り出すと、先頭を切っていた鬼道に声を掛けた。

「監督ぅ、私ちょっと売店行ってきて良いっすか?」
「……もたもたしていたら置いていくぞ」

「はぁい」葵に鞄を預け、気怠げに返事をした依織は分かれ道の先へと小走りに駆けていく。
それを見送った茜は、彼女の揺れる髪が曲がり角の向こうに消えたのを眺めてぽつりと呟いた。

「切れる髪ゴムって、何か不吉……」
「急に不気味なこと言うなよ、茜」




売店を目指しながらしばらく走って、依織はふとポケットに片手を突っ込んだ。
取り出された掌に載っているのは、小さなプラスチックケースに収まったUSBメモリである。

「(また何か、始まろうとしてるのか……?)」

眉根を寄せ、USBメモリを握り締めた拳を見つめた彼女は、無意識の内に足を速めてしまう。そのせいだろう、曲がり角から現れた人影に気付かなかったのは。

「わっ──!?」
「っ危ない」

どん、と正面からの衝撃に倒れそうになった体が、誰かに支えられる。
腕をぐんと強く引かれ、疲れもあって覚束無かった体勢が立て直される。思わず目を瞑っていた依織は、開けた視界で同じ年頃の少年が自分の腕を掴んでこちらを見つめていることに気が付いた。

「ご、めんなさい。急いでたから……」
「いや──構わん。怪我は」
「ない……」
「そうか、良かった」

少年は依織の腕を放すと、ふとその場にしゃがみ込む。
差し出されたのは、あのUSBメモリだった。

「落としたぞ」
「あ……! ありがとう」

渡されたそれを依織は慌てて確認する。
どこも破損していないことを確認すると、彼女はホッと息を吐き出した。
少年はその様子を、じっと観察するように見つめている。

依織は崩れてきた髪を耳に掛け、改めて彼と向き直った。
歳はやはり同じくらいに見える。水色掛かった毛先を1つに纏めた、目付きの鋭い白髪の少年だ。

無言で自分を凝視してくる少年に、依織は小首を傾げる。人脈はそれなりに広いつもりだが、彼のような知り合いはいなかった筈である。

「あの……何か」
「っいいや。俺はこれで失礼する」

耳の先を僅かに赤く染めた少年はハッと顔を背けると、ブーツの音を響かせて廊下の先へと消えていく。
「何だったんだ……?」首を捻った依織は、鬼道からもたもたしていたら置いていくと言われたことを思い出し、USBメモリをポケットに仕舞って売店へと急ぎ足で走って行った。