77

夜のとばりの中、闇色に染まった海が静かに凪いでいる。
煌々とした月の光を浴びながら、その島は不思議な怪しさを孕んで浮かんでいた。

「──……」

波に削られ、切り立った崖になった場所に1人の少年が佇んでいる。

海に写る月を眺める少年の目からは、渾々と紫に輝く光の粒が涙のように溢れ出ていた。
こぼれ落ちた光は音もなく、1つ1つ寄り集まり大きな何か≠ヨと姿を変えていく。自分の背丈よりも大きくなったその何かへ、少年が手を伸ばした時だ。

「!」

ずん、と島の中腹から響いて来た地響きに、少年は肩を小さく揺らす。
その僅かな動揺に光の塊は霧散して海風に攫われ、音に驚いた鳥たちが一斉に飛び立って行く。
慌ただしく羽を散らしていく鳥を見送り、少年は目を細めて呟いた。まだ声変わりを終えていないソプラノで、努めて冷静に。

「ああ──ついに、始まるんだね」

一瞬吹き抜けた夜風が、少年の結った髪を揺らしていく。分厚い雲に月は隠れ、その島は闇へと包まれていった。




「──うん、よし」

真新しい髪ゴムで長い髪を結い上げ、鏡を覗き込む。どこにもおかしな部分がないことを確認して、依織はリボンに寄った皺を伸ばした。

木戸川清修との試合から一夜明け、土曜日の朝。つまり休日だが、雷門サッカー部はいつものように朝練がある。
まだ次の対戦相手は決定していない為、今日は通常通りの練習になるはずだ。

ふと、外から聞こえてきた複数の声に彼女の視線が窓へと向けられる。
そこから見えたゴミ収集車の中に我が家のものも吸い込まれていったのだと思うと、安心したような気分になった。

証拠は残しちゃいけないから──そんな言葉と共に片手で文字通り握り潰されて、アフロディから預けられた例のUSBメモリは役目を果たした次の瞬間ただのプラスチックと金属の屑と成り果てた。
今は他の塵芥と混ざり回って、誰もあれが重要なデータの詰まっていたものだとは思いもしないだろう。

「──行ってきます!」

従姉は昨日急遽出来た仕事で家を空けているため、返事がないことは分かっている。それでも玄関一杯に響くほどの声を上げてしまうのは、最早癖だ。
錠を閉め、鍵はダイアルロックの掛かった郵便受けの中へ。普段ならこのまま鞄に入れていくが、依織は従姉が昨夜慌てて家を出る際、スペアキーを持って行くのを忘れていたことを知っていた。

休日の朝は流石に道行く人の姿も多くはない。
いつもなら会社勤めのサラリーマンや、学校へ向かう小学生の群れと擦れ違うが、今はみんなまだ家でゆっくり過ごしているか、もしかするとまだ夢の中を漂っている頃だろう。

そんな人通りの少ない朝の通学路では、彼の後ろ姿は少しだけ浮いて見えた。

「──剣城?」
「! ……鷹栖」

歩行者用の信号を前に佇んでいた剣城に気付き、駆け寄っていく。
おはよ、と声を掛けると、同じく短く小さな返事が返ってくる。背の高い2人が車の殆ど通っていない道で信号待ちをしている様は、中々不思議な光景だった。

「珍しいな。お前と朝被るの」

暇だったのか、剣城は珍しく自分から口火を切った。この2人で会話を切り出すのは、九割九分依織の確率が高い。

「いつもはジョギングがてら、遠回りして来るからな。今日は真っ直ぐ来た」

音もなく、信号が赤から青へと変わる。
そう言えば入学式の朝は、いつもと同じように遠回りして登校しようとしたところで天馬に捕まったんだった──ふいに、そんなことを思い出した。

「そういや、優一さん元気? 最近会えてねーんだよな、私」
「まぁ、それなりに……松風も来るようになってから、暇してる時間は減ったみたいだが」
「え、天馬が?」

曰く、何だかんだあって%V馬も時折優一の見舞いに来るようになった──と言うのが剣城の弁だったが、その何だかんだの部分が1番謎だ。
依織の場合は、日々の特訓で時間が潰れ、そもそも太陽の見舞いに行くこと自体が減りつつある。それが天馬と病院で鉢合わせない主な理由なのだろう。

「(太陽も天馬に会ってみたいとか言ってたっけ)」

ずっと病室に缶詰状態の太陽の少ない娯楽は、備え付けられたテレビでホーリーロードの中継を見ることだ。
1年生の中でも、試合をしている最中の天馬の活躍は特に目立つ。歳が同じ事も相俟って、太陽の注目は主に天馬に向いている。

「すげーうるさくなりそう……」
「あ?」

ぼそりと呟いた依織に、剣城が怪訝な顔を向けてくる。ただの独り言、と付け加え、彼女は見えてきた雷門中の校門に目を細めた。
サッカーバカが2人集まって、静かに出来るわけがない。天馬と太陽が意気投合する様子は、容易に想像がつく。

「……!」
「? どうした、剣城」

ふいに足を止めた剣城が、眉間にギュッと皺を寄せた。
数歩前に出た依織の腕を引いて下がらせ、訝しげに前方を睨んでいる。

「おい、何だってんだよ」
「……フィフスセクターのバスだ」
「は?」

険しい剣城の目線を追うと、丁度1台の大型バスが徐行運転で雷門中の校門を潜り抜けていくのが見えた。
その車体には、剣城の言った通りフィフスセクターのマークが大きくプリントされている。

「何であんなのが雷門に……?」
「……俺から離れるなよ」

他の生徒もいるとは言え、先日のような暴挙を起こさないとは限れない。
依織は剣城に手を引かれたまま、慎重に校門を潜った。




フィフスセクターのバスは敷地内の隅に停まっている。運転手は目深に帽子を被り、運転席に静かに腰掛けたまま動く気配がない。
おっかなびっくりそれを追い越して、2人は部室棟へと向かった。

「おはようございます……」
「ああ、おはよう──2人とも、何で手なんか繋いでるんだ?」

部室棟へ足を踏み入れた2人を見受けるなり、鉢合わせた神童は首を傾げる。
この場合繋ぐと言うより掴むと言う方が正しいが、剣城はその疑問にやや慌てたように握りっぱなしだった依織の腕を放した。

「それより、神童先輩。表にフィフスセクターの奴らが来てます」
「何?」

不思議そうな顔から一転、依織の言葉を受けた神童は剣呑な表情になって扉の方を見つめる。

「つっても、今はバスが1台停まってるだけですけど……何か聞いてますか」
「いや、俺は何も……鬼道監督たちに確認を取ってこよう」

言って、神童は足早に部室棟の2階──鬼道や春奈がよくいる資料室へと走って行く。
騒ぎを聞きつけた他の部員たちもあちらこちらから出てきて、何か起こっていることに勘付いたようだった。

「どうした? 何かあったのか」
「実は──」

みんなまだ登校して間もないのか、ジャージ姿の部員は誰もいない。
依織や剣城が事情を説明し、フィフスセクターが来た理由を話し合っていると、神童と春奈を連れ立った鬼道がサロンへと降りてきた。

「フィフスセクターのバスが来ているそうだな。依織、何か聞いていないのか」
「聞いてたらとっくに教えてますよ」

尋ねた鬼道に、依織は間髪入れず答える。
フィフスセクターが何か怪しい動きをする時は、すぐレジスタンスに報せることが出来るように真っ先に依織に情報が来る。
今回それが無かったと言うことは、今朝突然決まったことか、もしくはフィフスセクターに忍ぶスパイの与り知らぬところで動きがあったか──その2択だ。

迂闊に動くことも出来ずに、顔を突き合わせていた時だった。
天井に備え付けられたスピーカーから連絡用のチャイムが響いた直後、冬海の耳に障る声が拡声される。

『サッカー部の部員、並びに監督と顧問は、直ちにグラウンドへ集合して下さい。繰り返します──』

「兄さん……」スピーカーを見上げていた春奈が、鬼道の横顔を不安そうな顔で窺った。
溜息を吐き、鬼道はしばらく考えた後、やがて眉間に深い皺を刻んで口を開く。

「全員、荷物を持ってグラウンドへ向かうぞ」




目一杯の疑いを抱えて渋々グラウンドへ向かうと、そこには既に金山理事長と冬海校長が異様にニヤニヤとした顔をして待ち構えていた。

「行けませんな、鬼道監督。お客様をお待たせしては」
「……用件をお聞きしたいのですが」

客なんていない、とでも言いたげな顰め面で、鬼道は金山と向かい合うなり話の本題を促す。
剣呑な態度を取る鬼道に金山は一瞬鼻白んだ後、わざとらしい咳払いをしてバスを指してこう言った。

「君たちには、今からあのバスに乗って遠征に出て貰います」
「…………は?」

たっぷり間を空け、その意味を噛み締めた鬼道は目を剥いてポカンと口を開ける。
予想だにしていなかった答えに、誰もが言葉を失ってしまう。故に、遅れてやって来た彼の存在は、鬼道たちの意識を引き戻すのに丁度良いタイミングだった。

「お、おはようございまーす……?」
「! 天馬」

遅刻してきたせいか、恐る恐ると言った風に挨拶してきた天馬に、呆けていた意識が覚醒する。
「何かあったんですか?」と天馬の疑問に被せる形で、鬼道は改めて口を開いた。

「どういうことですか、金山理事長」
「どうもこうも、言葉通りの意味ですよ」

金山はフィフスセクターの人間が傍にいるせいか、悪びれる様子もなく堂々とした様子で同じ言葉を重ねる。

「君たちには、今日この瞬間から強化合宿を兼ねた遠征に出て貰います」
「え、遠征?」

先程よりも懇切丁寧に、有無を言わさぬ口調で言われ、鬼道は心の中で舌打ちした。
既にバスが控えていると言うことは、拒否権は与えられていない。しかしそれでも、おいそれと頷くわけにも行かなかった。

「今はホーリーロードの真っ最中です。何故ここで遠征なんですか」
「これはフィフスセクターの指示です」

「貴方たちが刃向かうからですよ」虎の威を借ったような言い草で、冬海は笑みを滲ませる。
要するに、これは金山たちの嫌がらせなのだ。彼らは元々フィフスセクターから派遣された人間。雷門イレブンがフィフスセクターに刃向かうことで組織からの風当たりが強くなり、その鬱憤を晴らそうとでもしているのだろう。

ただ問題は、これが本当にただの嫌がらせなのかと言う点だ。

「神童……何か、嫌な予感がしないか」
「ああ」

小声を掛けてきた霧野に、神童は神妙な顔つきで頷く。
金山たちは言わば下っ端、派遣社員のようなものだ。フィフスセクターとて暇ではない。そんな彼らの頼みを素直に聞いて、バスまで用意するのは何か理由がありそうな気がするのだ。

「それで、どこへ行けと言うんですか」
「行けば分かります」
「それでは納得出来ません」

金山と問答する鬼道の声にも、徐々に苛立ちが混ざり始めている。
これではいたちごっこだ。どうしたものかと金山とバスを見比べる依織の傍らで、剣城は難しい顔をしていた。

「合宿……」
「どうかした、剣城くん。何か心当たりでも?」
「……いや」

目聡く気付いて小首を傾げる狩屋に、剣城は静かにかぶりを振る。
難色を示す鬼道や部員たちの顔色を見て、金山はにたりと笑い皺を深くした。

「君たちは知りたくないのですか? 元監督の円堂くんが、どうしているのか」
「えっ──円堂監督?」

引き合いに出された名前に真っ先に反応したのは天馬だ。それぞれの注目がこちらに向いたのを見計らい、金山は芝居がかった口調で続ける。

「彼は我々の手伝いをしてくれているのですよ」
「そんなバカな!」

思わず声を上げた神童に、金山は何かを含んだ笑みを崩さない。しばらく葛藤していた神童は、ちらりと依織の方を見遣った。

「──鷹栖」
「微妙、ですね」

小さく、殆ど唇を動かすことなく依織は答える。
フィフスセクターの一員である金山たちを目の前に、嘘を見抜く@ヘがあることを晒すことは憚られた。

「円堂監督が、遠征先にいるかも≠オれないことは分かってる──でも、そこで何をしてるかは知らない。そんなとこでしょうか」
「……そうか」

だとすると、円堂が彼らを手伝っているという話はただの詭弁だ。しかし、本当に円堂がバスの向かう場所にいるのだとしたら黙ってはいられない。

「──行ってみませんか、鬼道監督」
「!」

口火を切った神童を、鬼道は少しだけ目を見開いて見下ろした。
こちらを見上げる神童の目に迷いはなく、強い意思が籠もっているのが見て取れる。

「円堂監督は、何か奴らの企みに気付いて行動に出たのかもしれない。だとしたら、俺は黙っていられません」
「お、俺もですっ!」

続けて主張した天馬、そして神童の言葉を受けて決意を固めた様子の雷門イレブンたちを見回して、やがて鬼道も腹を括った。

「……よし。分かった」

「その話、お受けします」ようやく答えを出した鬼道に、金山と冬海は視線を交わしてニヤリと笑う。
それを合図にしたかのように、グラウンドの上で控えていたバスのエンジンが小さく唸るのが聞こえた。

「全員、部室棟へ戻りジャージに着替えて来い。10分後に出発する」
「はいっ!」

端的な指示を受け、雷門イレブンは駆け足で部室棟に駆け戻る。
金山たちが満足げな表情で校舎に戻ったのを確認し、ふと神童は前を走る4人を呼び止めた。

「倉間、速水、浜野、それに錦。お前たちは学校に残ってくれ」
「何?」

立ち止まった4人は不思議そうな顔で神童を振り向いたが、その神童の顔は至って真剣そのものである。

「今や雷門は、反フィフスセクター勢力の中心的存在だ。何かあった時、全員がここを離れていたら対応出来ない」
「神童……」

神童は遠征先で、何か危険な目に合うことを予期している。それを踏まえた上で、彼らをここに残そうとしているのだ。
不安げに眉を下げる速水や浜野に対し、倉間と錦はいつもと同じように力強い表情で頷く。

「気を付けろよ、お前ら」
「学校のことはわしらに任せるぜよ!」
「……ああ。頼んだぞ」

部室棟へ駈けていく神童を見送り、大丈夫でしょうか、と速水が小さく零した。
「平気だっての」そう答えるものの、倉間の顔も僅かに苦虫を噛み潰したかのように歪められている。生温い風が、彼らの髪を揺らした。

「あいつらならぜってー、大丈夫だ」




「ほんと、汚いと思いませんか?」

雷門イレブンを乗せ、何かに駆り立てられるように慌ただしく出発したバスは、高速に乗って彼らをどこぞの地へと運んでいる。
鞄の中身を確認しながら、茜と水鳥に挟まれて座席に掛けた葵が憤慨しながら言った。

「円堂監督の名前を出せば、みんな行かないわけがないんですよ」
「でも、面白そーじゃん? 敢えて敵の懐に飛び込むってことだろ」

握り拳で空を殴りながら笑う水鳥に、「お気楽なんだからぁ」と葵はがっくりと肩を落とす。
比較的明るい雰囲気の後部座席とは打って変わり、神童たちの座る前方の座席は肌を刺すような緊張感で満たされていた。

「結局、どこへ行くかは分からず仕舞いか……」
「フィフスセクターのやることです。どうせろくな所じゃありませんよ」

呟いた神童に返した依織は、先程から何か小さなラジオのようなものを片手に、イヤホンを着けたまま抓みを回している。

「鷹栖、それは……?」
「理事長室に仕掛けた盗聴器です」
「え」

今日の天気を答えるようにさらりと言った依織に、神童の表情が一瞬固まった。
同じような反応をした霧野は、何か思い当たる節があったのかあっと声を上げる。

「そう言えば前に、そんなことを言ってたような……」
「シッ。待って下さい、今丁度あの狸共が話してますから……」

霧野の言葉を遮り、じりじりと抓みを回しながら、依織は真剣な顔で耳に神経を傾けた。

『──です。これで彼らも少しは大人しくなるでしょう』
『ええ、ええ。我々もサッカー部の愚行にはほとほと困っていましたから』

相変わらず好き勝手なことを言っている。嫌らしさを含む金山と冬海に、依織は隠すことなく舌を打つ。

要約するとこうだ。
革命を起こそうとする雷門イレブンを抑制できないことで、金山らは予想通りフィフスセクターからの風当たりが強くなりつつあった。
どうにかサッカー部を大人しくさせられないかと思っていたところに、フィフスセクターのとある部門から、彼らを自分たちの特訓施設に寄越すようにと通達が来る。
これ幸いと、金山たちは一も二もなくサッカー部をこうして遠征に向かわせたとのことだった。

どうやら金山たちも遠征先がどこにあるのかは知らされておらず、そして円堂がそこにいるかもしれない≠ニ言う情報しか持っていないらしい。
もう一度舌打ちして、依織はイヤホンを耳から外した。

「特訓施設……」

いつの間にかもう片方のイヤホンを勝手に着けていた剣城が、聞こえた単語を小さく繰り返す。
聞き覚えでもあるのか。そう尋ねようとしたが、依織は自分の口が上手く動かなくなっていることに気が付いた。

「何だ……?」

見回すと、先程まで雑談に花を咲かせていたマネージャーたちや天馬、そして信助たちも黙り込んでいる。
──違う。黙り込んでいるのではなく、眠っている。その事に気付いた時には、もう手遅れだった。

「神童、せんぱ……」
「嵌められた──か……」

落ちてくる瞼をこじ開けて神童に助言を求めようとするも、目の前で悔しげに呟いた彼の頭はかくんと重力に従い垂れ下がる。
じわじわと視界が黒く塗りつぶされていく中、依織は自分の片手が誰かに固く握り締められるのを感じた。

車内は無色無臭の睡眠ガスで満たされ、ただ1人ガスマスクを着けた運転手により彼らはまだ見ぬ土地へと運ばれる。

深い深い眠りに落とされた彼らはまだ知らない。
これから起こることを、出会う人を、戦う敵を。
これが長く苦しい戦いの、幕開けだと言うことを。