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依織が真夜中に灯台を抜け出したことは誰も気付かなかったらしい。
朝日が昇って間もなく起こされた彼らは、眠たい目を擦りながら朝食を摂るのもそこそこにそれぞれ特訓の場に向かった。
渓流を下り、巨大な葉の上を渡り、砂漠を滑る。かつてない規模とハードな特訓に、雷門イレブンたちは心身を削っていく。
しかし、それでも強くなっていると言う実感があるからこそ、助けなければならない人たちがいると分かっているからこそ、辛くとも止めたいと言う気持ちにはならなかった。

「──いってえ!」

ずざざ、と仰向けに倒れ込むや否や、熱い砂が服の隙間に容赦なく滑り込んでくる。
それをバサバサと払い除けながら、依織は慌てて立ち上がった。

「大丈夫? 依織ちゃん」
「う、ああ……」

眉を下げた輝に頷いて、依織は額に浮かんだ砂の混じった汗を拭う。
島の南方の一部は、草木の枯れ果てた砂漠地帯になっている。1年生FW3人、剣城と依織、それに輝は、この砂漠の傾斜をサンドボードで駆け下りて、スピードに体を慣らす特訓をしていた。サンドボードと言っても、森から取ってきた木片を削って作った急拵えのものだったが。

「僕としては、スノーボードの方が慣れてるんだけどね」

そう言いつつ、彼らの特訓に付いているのは吹雪だ。スノーボードの方が、とは言う物の、お手本で見た彼のサンドボード捌きは殆どプロのそれであった。
あんなに悠々と砂漠を駆け抜ける姿を見せられては彼らも黙ってはおれず、特に負けず嫌いの剣城や依織は昨日から競い合うように滑っては落ちて、滑っては降りて、と失敗と成功を繰り返している。

『ふ……ならばその執念とやら、試合で示して見せろ』

延々と続くような砂漠の傾斜を昇りながら、依織の脳裏にふと昨晩白竜の残した言葉が蘇った。
彼があの場にいたのは偶然だ。あんな言葉を掛けられたのも、白竜が思いついたことを口に出しただけ。それは分かっている。

ただ、気に入らない。
自分が強者であり、依織を格下だと決めつけた上で、彼はあの話を振ってきた。その根性──あの眼が、気に入らない。
自分の高みへ上り詰める為の熱意を執念≠セと称した依織に取って、彼のその視線は心底憎たらしい物であった。

「あ〜〜〜〜っくそ!!」
「こら、女の子がそんなこと言わない」
「さーせん!!」

ざう、と砂にサンドボードを突き立てれば吹雪に窘められ、反射的に声を返す。
気に入らない、気に入らない、気に入らない。剣城と過去に何かあったようだが、今の自分に取ってそんなことはどうでも良い。明後日の試合で必ず彼の鼻を明かしてやるのだと意気込んで、依織は再び砂の上を滑り降りる。

「(──そう言えば)」

自分は何故、あの場にいたのだったか。ふいに頭に過ぎった疑問に気を取られた瞬間、依織の体は熱い砂の上に投げ出されたのだった。




特訓が始まって、二度目の夜。
元々順応性が高かったお陰か、その晩の雷門イレブンたちは昨日よりも幾らか和気藹々とした様子で夕飯にありついている。

「お前たちはどんな特訓をしてるんだ?」
「こう……デカい葉っぱの上を渡らされてる」
「何だド、それ……」

1日経過すれば少しばかり余裕も出てきて、会話も弾む。しかし、そんな中で1人だけぼんやりとしている者がいた。

「はぁ……」

車座から1人外れた場所に座り込み、天馬が溜息を吐いている。一番最後に灯台に戻ってきたのは彼だったが、真っ先に夕飯のカレーを受け取ったのもまた彼である。ただ、皿の中身は半分も減っていない。
信助は天城や狩屋と特訓のことを話し込んで、その様子に気付く気配はない。依織はそっと腰を上げて、天馬の隣に座った。

「どうした、天馬。やけに暗いけど」
「……う〜ん」

茶色くなったジャガイモをスプーンの先で潰しながら、天馬は眉間に皺を寄せる。

「実は、俺、シュウを怒らせちゃったみたいで……」
「は? シュウを?」

思いも寄らない相談事に、依織はつい素っ頓狂な声で返した。
確かにシュウは初めこそ雷門イレブンに敵意を抱いていたようだったが、それはもう解消された筈だ。それに、彼は天馬を一等気に入っていた。そんな彼が天馬に対して怒るなど、中々想像が付かない。
天馬は皿に目を落としたまま、訥々と語り始める。

「シュウにね、島の風習を聞いたんだ。ここには昔からサッカーによく似た競技があって、大事なことはいつもその勝負をして決めてたんだって」

例えば、新しい村長を決めなければならない時。
例えば、互いの領地を取り合う時。
例えば──島を救うための、生け贄を出さなければいけない時。
内容が何であれ、その決定の方法はいつもそのサッカーに似た競技≠ノよって定められた。その結果がどれだけ悲惨なものを生み出すと分かっていたとしても、勝者は絶対であった。
丁度今、天馬たちがいるサッカー界と同じように。

「シュウは言ってた。強くなくちゃ大切なものは守れないから、強いことが何よりも大事なんだって、価値がないんだって」

でも、とそこまで言って天馬は語気を弱める。
依織はじっと、天馬の横顔を見たまま口を噤んでいた。

「俺、シュウの言いたいことは分かるけど、そうじゃない気がするんだ。強くなくちゃ価値がないとかそう言うのじゃなくて、弱くたって、全力でぶつかって、みんなで笑えるなら、それで」

「そりゃあ負けるのは悔しいけど」口籠もって、天馬は頭を振る。
この話をしていた時のシュウは、まるで当時のことを知っているかのように鬼気迫る様子だった。
自分なら、その時代にいたらどう思っただろう。勝負に負けた結果、とても大事な物を失うとしたら。
それは嫌だ。けれど、それを理由に勝利こそ絶対≠ニ思うのはもっと嫌だ。矛盾しているのは分かっているが、そう思わざるを得ないのだ。

明確な答えを出すには、彼はまだ幼すぎてゴールには辿り着けない。ただ、天馬が分かるのは1つだけ。
弱いことは、悪ではない。

「俺、自分の考えが上手く纏まらなくて……思ったことをそのまま伝えたら、シュウ、いなくなっちゃったんだ」

はぁ、と天馬は二度目の溜息を吐く。
彼はシュウを怒らせたことを悩んでいるのではなく、どうすれば彼に自分の考えを分かってもらえるか悩んでいるようだった。
勿論、琴線に触れたことに対して謝りたい気持ちもあるのだろう。ただ彼は、同じサッカーをする友人として、シュウともっと近付きたいのだ。

「ねぇ依織。俺、どうすれば良いかな」
「──知らね。そう言うことは最後まで自分で考えろよ」
「冷たい! 依織から聞いてきたクセに……」

何だよもう、と天馬はむくれたが、人に打ち明けたことで少しスッキリしたのだろう。残ったカレーを一気に掻き込む。
だが逆に、依織の手は止まってしまっていた。目は暗い海の色をぼんやりと映し、星の光に揺れている。

「(私、は)」

いつからだろう。何をしてでも強くなりたいと思い始めたのは。
依織の持つ考えは、どちらかと言うとシュウの言い分の方に偏っていた。




次の日の朝、シュウは待ち合わせの場所にいなかった。
「どうしたんだろう?」こちらを見上げてくる信助に、天馬は曖昧に頷く。

「試合は明日だ。みんな、気張っていけ!」
「はいっ!!」

声を高らかに、雷門イレブンたちは散会する。或いは川へ、或いは山へ、或いは沿岸へ。残すところ24時間もないのだ。今は1分1秒が惜しい。

「(シュウのことは気になる、……けど)」

言葉で分かって貰えないなら、行動で示すしかない。葵たちを助けるためにも、あの岩壁をクリアしなければ。
よし、と自分の頬を叩いて、天馬は1人道なき道を走っていった。




「うわぁっ!」

輝の悲鳴が砂漠に響く。
舞い上がる砂が容赦なく口の中に入って、彼はげほげほと噎せ込んだ。

「ほら、輝。水」
「うう……げほっ、ありがとう」

ペットボトルを差し出すと、輝はへろへろのままそれを受け取る。
サンドボードの特訓もこの2日で早くも板に付き、3人とも転ぶ回数がかなり減ってきた。とは言えこの炎天下だ。連日の疲れが溜まっていることも相俟って、体が思うように動かない。

「うーん……これはちょっといけないな。もうお昼になったし、しばらく休憩しようか。1時間くらい」
「……長くないですか」
「少しね。でも、オーバーワークは何よりもしちゃいけないことだから」

おいで、と手招きした吹雪に、3人は顔を見合わせついて行く。
彼が向かったのは、丁度砂漠と森の境目の辺りだった。本島から仕入れてきたのか、彼は大きなビーチパラソルを砂に突き立て、レジャーシートを広げる。

「大丈夫、みんなここでの特訓の成果はちゃんと体に染みついた。あとは、しっかり休憩した後に復習すれば良いんだよ」
「ああ、日陰が涼しい……………………」
「寝るの早っ」

ぽん、と吹雪に体を横倒しにされるなり、輝はあっと言う間に寝息を立て始めた。余程疲れていたのだろう。
依織も吹雪の視線を受けてとりあえずレジャーシートに腰を降ろしたものの、何だか落ち着かない。辺りに視線をやると、剣城もまた所在なさげに立ち上がったところだった。

「剣城くん、休憩は?」
「……無茶はしません」

それだけ告げて、剣城は森の奥へと姿を消す。
「負けず嫌いだなぁ」と苦笑する吹雪を横目に、依織はちらりと灯台のある方向へと視線を投げ掛けた。
正しくは、昨日謎の石碑が佇んでいた場所の方向へと──だが。

「──すいません吹雪さん。私もちょっと」
「ん、分かった。1時間したら戻ってくるんだよ」
「はい」

大方依織も剣城と同じように特訓の続きに行くのだと思ったのだろう。
苦笑の絶えない吹雪に見送られて、依織は森の奥深くへ足を踏み入れた。




ざくざくと伸びた雑草を踏み締めて歩く。
10分も歩くと、依織は目的地としていたそこに辿り着いた。

「……ここだ」

昨日は暗くてよく見えなかったが、その石碑は森の少し開けた空間にぽつんと立っていた。ただ、苔と雑草に覆われているのは相変わらずで、長い間石碑がここにあったことが窺える。

「(ここだけ、空気が冷たい)」

森の中は、木々で太陽の光が遮られていることもあり他よりも気温が低い。
しかしそれだけではない。この石碑がある場所だけ、異様に涼しい気がするのだ。先程まで感じなかった寒気に、依織はそっと自分の肩を抱く。

石碑の前に跪き、依織は改めてその表面を見つめた。
雨風に削られてきたのか、ところどころ欠けている。一体どれ程長い時間、これはこの場所にあったのだろう。

「これは──文字、なのかな」

表面に刻まれた記号の羅列を、そっとなぞる。触れた指先から、石の冷たさが伝わった。

「名前だよ。島のために犠牲になった人間の名前」
「きゃっ!?」

突然真後ろから聞こえてきた声に、依織は短い悲鳴を上げてそこから飛び退く。
振り返ると、そこには同じように石碑の前で膝を抱えたシュウがいた。

「シュウ! お前、脅かすなよ……!」
「はは、ごめん。こんなにビックリするとは思わなかったよ」

あっけらかんと笑うシュウに、依織は顔を顰めてて大きく空咳をする。
その隣に改めて腰を降ろし、彼に話し掛けた。

「天馬が、落ち込んでた。お前を怒らせたって」
「そう。……別に、怒ったつもりはなかったんだけどね」

困ったようなシュウの横顔からは、確かにそんな感情は読み取れない。
だったら、何故。問う前に、彼は自分からこう答える。

「少しだけ、怖くなっただけさ。少しだけね……」
「怖く……?」

あの温厚な天馬が怖いとは何事だ。首を捻る依織に、シュウは「分からなくていいよ」と唇を曲げた。
その笑みはどこか冷たく、そして悲しそうに見えて、依織は眉を顰める。
初めて会った時から気になっていたのだ。シュウのこのどこか達観したような、全く別のところから自分たちのことを見ているような目が。

「──犠牲になった人間の名前って言ったな、これ」
「うん。昔この島では、災害が起きるのは神様が怒ってるからだって信じられててさ。その怒りを鎮めるために、若い娘を1人生け贄に出していたんだ」

「何年も何十年も、ね」黒い目を細めた彼は、寂しげに文字の羅列を見つめている。どこかで鳥が、か細い声で鳴く声がした。

「でも……バカみたいだよね。尊い犠牲を忘れないようになんて言って、自分たちで彼女を捧げたくせに。……ここに、彼女たちはいないのに」

そう呟いて、シュウの浅黒い指先が、石碑の表面を撫でたその時である。

『そんなことない。ここにいるよ』

──依織は、知らずと息を止めていた。
今、確かに何か聞こえた。小さな女の子の声。夢で聞こえた声が、彼に寄り添うように。

「……少し話しすぎたね。僕はもう行くよ、特訓頑張って」
「あっ……ちょっと、待ってシュウ!」

立ち上がったシュウの手を反射的に掴んで、依織はハッと息を飲む。
次の瞬間、その手は緩く振り払われて、「じゃあ、またね」と彼の姿は森の奥深くへとあっと言う間に消えていった。

「シュウ……お前」

本当は何≠ネんだよ──と。
僅かに青ざめた依織は、中途半端に浮かんだ手を見つめて呆然と呟く。
彼女の掴んだシュウの手は、この石碑と同じように、まるで無機物のように冷たかった。