LHRが終了すると、鬼道は毎日寄り道もせず部室へ直行する。
鬼道の在籍するクラスは特待生・優等生を集めたA組。この組のLHRは他のクラスより特別に長く取られている為、道草など食っていては活動開始時間に間に合わないのだ。
そして鬼道に続き佐久間や源田たち部員が集まり始め、全員がユニフォームに着替え終えロッカールームから部室へ出てきた頃。
いつもタイミングを見計らったように、彼女はやってくる。
『こ……こここ、こんにちはー……』
そんな風に第1音を無駄に支えながら、開け放された扉からおずおずと顔を覗かせて。
しかし、今日ばかりは何故か、少しばかり勝手が違った。
「遅いッスね、ヒヨコのやつ」
ボールをつま先に乗せ、器用に持ち上げながら鬼道に言うのは辺見である。
ヒヨコ、というのは彼のみが織乃に対して使うあだ名だ。曰く、親を追う雛の動きと彼女が似てるからと、臆病者のスラングを柔らかくしたという2つの理由から付けたらしい。
ただし、「発想が中二くせぇ」という咲山の一蹴により、彼以外にこのあだ名を使う部員は1人もいない。
閑話休題。
何故辺見が唐突にそんなことを言ったかと言うと、織乃が活動時間になっても姿を現さないからである。
問われた鬼道は部室から顔を出し廊下を見渡してみたが、織乃の姿はやはり見えない。
部活開始から既に30分近く経過しており、部員たちは仕方なく各々作ったドリンクを片手に休憩を取っていたところだった。
「……こうしてると、マネージャーのいない時期に戻った気分になるな」
「あいつ、一体どこで道草食ったらこんなに遅れるんだ?」
しみじみと呟く源田に対し、苛立ち気味に汗で湿気ったタオルの端を持ってクルクルと回しながら佐久間が言う。
「サボりじゃねーの?」
「それはない」
少々投げやりに咲山が言った言葉を一刀両断したのは鬼道だ。
一瞬驚いたような視線が彼に集まったが、続いた「あいつに無断欠席するような度胸があると思うか?」という最もな意見に納得しない者はいなかった。あの小心者な彼女がそんなことを実行した暁には、明日の天気は大荒れになるだろう。
「誰か、御鏡と連絡を取り合える奴はいないのか?」
鬼道がそう呼びかけると、そっと反らされる人数分の視線。彼は呆れたように眉根を寄せると、大きな溜息を吐く。
「……どうせ今日はスタジアムの整備で、活動時間が短縮されてるんだ」
取りあえず確認しに行こう、という彼に、何人かが頷いた。
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「──御鏡さん?」
織乃の在籍するクラス、C組。
教室に残っておしゃべりに花を咲かせていたところを鬼道や源田、暇だからと付いてきた佐久間と辺見に捕まった女子生徒四名は、あからさまに顔をしかめた。
頑なに鬼道らと目を合わせようとしない辺り、恐らくサッカー部の噂を知っている生徒なのだろう。鬼道は溜息を吐きたくなった。
言い淀みながらも、女子生徒の1人が「御鏡を知らないか」と言う質問にこう答える。
「御鏡さんは、今日は欠席ですけど」
「ああ、そう言えばそうだっけ……」
1人がそう言えば、口々に気付かなかったなど忘れてたなど。
鬼道たちが顔をしかめて押し黙ると、女子生徒たちはもう行っても良いよねと答えも聞かぬ内に逃げるようにその場から去っていく。
「露骨な態度しやがって」舌打ち混じりな辺見の独り言が、静けさを取り戻した廊下に響いた。
「──どうした?お前たち」
ふいに、低くも明るみを帯びた声が背中にぶつかる。
振り向けばそこには、まだどこか真新しさを感じるスーツに身を包んだ1人の男性が立っていた。今年から帝国の教師になった新任だ。名を木野内と言う。
木野内は少し丸めの目をしばたき、「サッカー部か」と呟くと、ポンと手を打った。
「……ああそうか、御鏡のことを聞きに来たんだな?」
「はい。休みだとクラスの女子生徒から聞きましたが」
姿勢を正した鬼道が言えば、木野内は「心配してくれたんだな」に人の良さそうな笑みを浮かべる。やりにくさを感じた鬼道は、やや表情筋をひきつらせた。
「そうなんだよ、何でも酷い風邪らしくて。家の人が涙声で欠席連絡してきてなぁ……」
「はぁ」
涙声とは一体。鬼道たちが眉を顰める間にもぽんぽんと喋り続けた木野内はそこでハッとして、小脇に抱えたファイルを取り出す。
「丁度良かった、折り入って相談があるんだが……聞いてくれるか?」
「相談?」
聞き返したのは佐久間だ。
木野内はひとつ頷いて、ファイルから茶封筒を抜き出す。
「お前たちも貰っただろうが、再来週の懇談会のプリントだ」
なるべく早く目を通してもらいたいのに、クラスの誰も彼女に届け出ようとしないんだ──と、彼は大げさに嘆いてみせる。
「先生が届けるのも一つの手だが、今から職員会議があってな……」
「……なので、俺たちに届けてほしいと?」
「話が早くて助かるな!」木野内は快活に笑った。彼らが拒否するとかもしれないと言うことは全く考えてないらしい。
あまり良い顔をしない鬼道らに、木野内は表情を曇らせる。
「頼むよ、御鏡の友達なんだろ?」
この新任教師は、ふにゃふにゃした見た目に反して意外と強かかもしれない。
鬼道は浅い溜息を付いて、プリントを受け取った。
「お、行ってくれるか!助かったよこれで職員会議に間に合う!」
「いえ──あ、先生!?」
急ぎ足で踵を返し、立ち去り掛けた木野内に鬼道が思わず大きな声を上げる。
「御鏡の家の住所は!?」源田がつられて声を大きくすると、木野内はハッと目を見開いた。
「教えるの忘れてた!」
「…………」
前言撤回、この人は強かじゃない。ふにゃふにゃしているだけだ──鬼道は自分の考えを改めた。
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「生徒の一部から様付けされるような鬼道さんをパシリに使うなんざ……」
あの先公、いつか大物になるぜ。
ふざけた口調で言いながら、辺見がからからと笑う。
だがしかし、その隣に並んだ佐久間はただ黙りを決め込んで歩き続けるばかりだ。先日《何とかは風邪を引かない》と織乃に言ってしまった本人としては、罪悪感が少しあるのだろう。
多分、この前の日曜日の時点で引き始めていたんだろうな──と源田がなんとなしに呟けば、佐久間の肩は更に沈んだ。
吐き出す息は、既に白い。このまま行けば、予報通り街は一面の銀世界と化すだろう。
嫌でも来月の冬山合宿のことを考えてしまう鬼道は、小さく溜息を吐く。この合宿のことを伝えた時の部員の顔は、放送禁止ものだった。
にゃーお、と一声鳴いた野良猫が住宅街を走り抜ける。
車に泥水でも跳ねられたか、毛を汚した痩せ細ったその猫は、何故だかこれまで排除してきたものを彷彿させた。
やがて夕日が傾ききった頃。
源田、佐久間、辺見の3人は、先頭切っていた鬼道の足が止まったことに気付きたたらを踏む。鬼道の頭がゆっくりと真横を向いた。
「──ここだ」
視線の先には、御鏡と刻まれた表札。
鬼道は一瞬脇に控える源田たちに目をやると、インターホンに手を伸ばす。
ピンポン、と平凡な呼び出し音。
その後に、どたどたと忙しない足音が近付いてくる。
「ちょっと待って下さいよー」
ドア越しに聞こえてきたのは父親と言うには随分若々しい声で、鬼道たちは思わず眉を顰めて顔を見合わせた。
そして。
「どちら様で、…………」
ガチャリと扉を開けて中から出てきた黒縁眼鏡を掛けた青年を、鬼道たちはついポカンと見上げる。
その一方青年は、鬼道と目が合うなり言葉尻を中途半端に切ってフリーズした。
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「……げほっ」
ひゅー、とかすれた息が喉から漏れて、痛みに耐えきれず小さくせき込む。
ぴぴ、と電子音に体温計を見ると、それを覗き込んだ弟が眉根を寄せた。
「38℃……姉ちゃん、無理しすぎ」
「そんなこと、うッ」
反論しようとした途端にごほごほと咳込んだ私の背中を、弟は慌てて擦る。
言わんこっちゃないとばかりにベッドに押し戻されて、私は為す術もなくそれに従った。
この間からくしゃみが続いたら頭痛がしたりしていたけど、まさかこんなに酷くなるとは思わなかった。
今朝お兄ちゃんに運び込まれた病院の先生に寄れば、風邪に疲労が重なってしまったらしく、3日間は安静にするようにだとか。
嫌だな、3日も休んだら授業に追いつくのも大変だし、部活動にも支障が出るかもしれない。そう考えると、早く良くならなくては、と焦りが生まれる。
「大樹、お姉ちゃんは大丈夫だから。ここにいたら風邪移っちゃうから、早く出なさい」
「平気だって、姉ちゃんの部屋入る時はマスクつけてるようにって兄ちゃんに言われてるから」
そう言って、顔のサイズより少し大きなマスクを装着した弟の1人──大樹は、胸を張った。
全く、お兄ちゃんもお兄ちゃんだ。今日みたいにいつもしっかりしてくれていれば良いのに、普段は部屋に閉じ籠もってばっかりなんだから。
呆れを含んで吐き出した溜息は、体温と比例して熱い。
その時である。
階下から、お兄ちゃんの悲鳴のような怒声のような、とにかくよく分からない奇声が聞こえてきたのは。
「え、何……?」
「……まさか兄ちゃん、また料理に失敗して……」
ぼそりと聞こえた大樹の不穏な呟きに思わずえっ?と体を起こしかけると、「俺が見てくるから姉ちゃんは寝といて!!」と即座にベッドに押し戻された。
▼
「(これはどういう状況なんだ)」
ゆったりとしたソファに源田たちと並んで腰掛けた鬼道は、表情を変えず考える。
あの後すぐ冷凍状態から解凍された黒縁眼鏡の青年はひとしきり奇声を上げた後、ハッと正気に戻り「こんな寒いとこで話すのもなんだから」と鬼道たちを居間に通した。
出された熱い(その上渋い)お茶で体を暖めていると、青年はまず苦笑する。
「さっきは悪かったな、急に叫んで……ちょっとびっくりしてさ」
「……いえ、構いません」
ちょっと、という辺りに引っかかりを覚えながら、鬼道は頭を振った。
「織乃の友達だろ?」そう続いた言葉に、選手とマネージャーの関係は友達のカテゴリーに分類されるのだろうか、と考えながらも鬼道たちが曖昧に頷くと、青年はそうかと満足げに頷く。
「俺は、御鏡家長男の御鏡冬樹だ。歳は21、仕事は自宅警備員!」
堂々かつ微妙な自己紹介だった。
「それってニー……」つい言いかけた佐久間の足を、鬼道はローテーブルの下でギュムッと踏みつけながら姿勢を正す。
「帝国学園1年、鬼道有人と申します。今日は御鏡さんに届け物があってお邪魔しました」
マニュアルでもあるのか、と思うほど鬼道が丁寧に用件を述べると、冬樹は「最近の中学生はしっかりしてるな」と少し驚いたようだった。
しかし、一瞬考え込んだ風にまばたきを繰り返した彼の目が、ふと鋭くなる。
「お前ら──織乃がマネージャーやってる、サッカー部か?」
例えるなら、研究者のそれ。
先までの砕けたものとは違い、探るような声色に鬼道たちは戸惑いながら頷いたが、次の瞬間杞憂だと知った。
「そうか、やっぱりな!」
そうじゃなきゃこんなに男ばっかり来ないよな、と冬樹は快活に笑って湯飲みを傾ける。
「何これ渋ッ!」そして自分の入れた緑茶に顔をしかめながらも、そうかそうかと彼は雰囲気を更に柔らかくした。
「あいつ、部活入ってからちょっと明るくなってさ。やっぱ友達がいるのは良いよなー」
「……あの」
言い掛けた源田が口を噤む。
冬樹の言い方ではまるで、部活に入るまでの織乃は友達がいなくて暗かったと明言したようなものだ。
彼本人も自分の失言に気が付いたようで、ばつが悪そうに首の後ろを掻いた後苦笑しながら言葉を続ける。
「知ってるかもしれないけど、うち、転勤族でさ。1年に数回、引っ越すことだってざらじゃないんだよ」
我が道を行く性格の人間が多い御鏡家の中でも、比較的大人しい性格に育った織乃。
元々人見知りの気があったのか、転校先で友達がなかなか出来ないことも多かったらしい。
「2年振りかな、織乃の友達が家に来るのなんて」
「2年……」
ぼんやりと、佐久間が呟く。
ふと脳裏によみがえる、彼女のクラスメートの女子生徒たちの態度。
あの様子から察するに、織乃は転校して半年経ってなお、クラスに馴染んでいないのだろう。
「(ここにいたら、独りじゃなくなるから……か)」
鬼道は、先日織乃がポツリと呟いた言葉の真意がようやく分かった気がした。
それをどうこうできる立場にいる訳ではないが、何だか後ろめたい気分になった4人は、各々俯いたりなど小さな反応を示す。
冬樹は彼らの心境が分かっているのかいないのか、物憂げな表情を一転させて明るい笑みを浮かべた。
「だから、お前らには感謝してる。織乃を仲間にしてくれて、ありがとう」
「……いえ」
背中の下から這い上がってくるような感覚。感謝の言葉を言われることは滅多にない。
鬼道はゆっくりと、佐久間はやや勢いをつけて、気恥ずかしさを隠すように湯飲みを傾けた。
「──ところで1つ、とても重要なことを聞きたいんだが」
「重要なこと?」
徐に声を低くした冬樹に釣られ、つい眉根を寄せて聞き返す源田。
冬樹は至極真面目な──若干殺気混じった表情で、彼らに尋ねる。
「お前らの4人の内……誰が、織乃の彼氏なんだ」
その瞬間、鬼道と佐久間がほぼ同時に緑茶に咽せ返った。