「げほっ!……っ」

真っ赤な顔で咽せる鬼道にポケットティッシュを手渡しつつ、一方の手で佐久間の背中をさすってやりながら僅かに顔をひきつらせた源田は、「おい大丈夫か?」と慌てている冬樹に、控えめに話しかける。

「あの、冬樹さん。俺たちは別に、そういうのでは……」
「えっ、そうなの?」

前のめり気味になっていた冬樹は、空気が抜けたように肩の力を抜いてソファに体を沈めた。

「いやぁ、杞憂だったな。これで誰か彼氏だったら大変なことになったぞ」
「はぁ……」

「大変なことって何だ」咽せ込みすぎて涙目になった佐久間が小さく呟く。辺見に至っては質問が衝撃的過ぎたのかぴくとも動かない。
やがて居住まいを正した鬼道が、咳払いを繰り返し改めて口を開く。

「と……とにかく、俺たちと御鏡はただの友人です。そう言った疚しい感情は向けていません」
「ふぅん……なら良いんだが。あ、でも一応忠告しとくぞ、織乃を彼女にしたいならまず俺を倒せ!」
「いや、ですから」
「──何してんの、兄ちゃん」

生産性の見えない会話に、ふいに割り込んだやや低いトーンの声。
思わず体を揺らして声の元に顔を向けると、丁度冬樹の背後に小学生くらいの少年が近づいてきたところだった。

「うわっ、大樹!」
「下で何を騒いでるのかと思ったら……何バカなこと言ってんだよ、兄ちゃん!」

大樹と呼ばれた少年は、目をつり上げて冬樹の耳を引っ張る。どうやら織乃たちの弟らしい。
こちらなら色恋沙汰の話をせずに済みそうだ、と鬼道たちは一瞬気を緩めたのだが。

「ひょろひょろインドア派の兄ちゃんじゃ瞬殺されるのがオチだろ!ていうか、倒しても倒さなくても姉ちゃんは嫁には出さねーかんな!」

逆に状況は悪化したようだった。その上、話が少し飛躍している。シスターコンプレックスもいいところだ。
「もう帰りてえ……」弱々しい辺見の独り言に、3人は心の中で同意した。一体何故こんなことになったのか、自分たちはただマネージャーに届け物をしに来ただけだというのに。

溜め息を吐くと、思いが天に届いたのか否か。兄弟の口論を凍り付かせる冷たい鶴の一声が響いた。

「──下で何をうるさくしてるのかと思えば……」
「げっ!?姉ちゃん──」

「起きちゃダメだろ!」と言う大樹の言葉が終わるより先に、彼女は弟の頭頂部に容赦のない手刀を振り落とす。
姉から不意打ち紛いの攻撃を食らった大樹は、患部を抑えながら呻き声を上げた。

パジャマにカーディガンを羽織った格好で、髪を下ろし額に冷却シートを貼り付けた姿で登場した彼女──織乃は、顔を青くした兄にも一瞥をくれた後、ゆっくりと鬼道たちと向き合う。

「すいません、みなさん。うちの馬鹿兄弟に付き合わせちゃったみたいで」
「こらこら織乃、バカとは聞き捨てならないぞ!俺たちは純粋にお前の将来の心配をだな、」

織乃の肘鉄が冬樹の鳩尾に綺麗にめり込んだ瞬間だった。
「妹より自分の将来を心配して」──御鏡冬樹、自称自宅警備員。今の彼に、妹に逆らう術はない。

「ねえ、ご近所さんの迷惑になるから兄弟喧嘩も程ほどに、ってこの前お母さんから怒られたの、もう忘れたの?」

溜息混じりに、冷たいフローリングに這い蹲っている兄を見下ろした織乃は、改めて鬼道たちに口を開く。

「それで──鬼道さんたちは、どんなご用だったんです?」

お見舞いではないですよね、と諦めたような口振りで目を細める彼女に、鬼道は僅かに眉根を寄せた。
織乃がいつもより饒舌に、毒舌に喋るのは、自宅だからと言うことと──この時点で、高熱で意識が朦朧としているからかもしれない。

「──お前の担任から、預かりものをしてきたんだ」

鬼道は少し肩を落とし、鞄から木野内に預かったプリントを渡す。
それを受け取った織乃は、まばたきを繰り返した後に──ほんの少し、眉尻を下げた。

「そう、ですか。すいません、わざわざ……」
「それより、お前の風邪のほうは大丈夫なのか?」

源田が小首を傾げると、織乃は彼を見上げ少し困った表情になって、少し言い淀む。顔に暗い影が落ちた。

「それが……あんまり、平気とも言えなくて。3日間ほど、休むように……お医者さんか、ら……」

答える織乃の額に汗が滲み、言葉が覚束無くなっていく。
彼女のぐっと寄り始めた眉根に、思わず佐久間がおい、と声を掛けた瞬間。

「織乃っ!」

ぐらりと、傾いでフローリングに激突しそうになった彼女の体を、復活した兄が寸でのところで受け止める。
織乃の首に手をあてがった冬樹は、あちゃあと声を漏らした。

「こりゃ、また熱が上がったな。織乃、立てるか?」

そう尋ねながら頬を軽く叩いても、意識が混濁しているのか織乃の口からまともな返答は返ってこない。
仕方ない、と冬樹は妹を背負う。

「悪かったな、せっかく来てくれたのに。こいつも、大人しく寝てりゃ良いものを……」

大人しく寝ていられない状況を作ったのは誰だ。
鬼道たちは一瞬そう思ったが、流石に口にすることはなかった。わざわざ藪をつついて蛇を出すようなことをする必要はない。

冬樹が居間を立ち去り掛け、鬼道たちが「じゃあ俺たちもそろそろ」と立ち上がろうとしたその時。
待って、と蚊が鳴くような掠れた声が聞こえた。のそりと、目を薄く開けた織乃が鬼道たちに顔を向ける。

「私、治ったらまた仕事頑張ります、から……源田さん辺見さん、佐久間さん鬼道さん……」

来てくれて、ありがとう。
ゆっくりと順番に名前を呼んで、織乃は汗ばんだ顔で柔らかく微笑んだ。




「何て言うか、……濃いかったな」

あいつの兄弟。と呟くのは、鞄に付けたペンギンのキーホルダーをいじりながら歩く佐久間である。
あの後織乃はやはり無理が祟ったのか、兄の背中でカクンと意識を飛ばしてしまった。
それを見た冬樹が苦笑しながら妹をベッドに運び、大樹の見送りで御鏡家を後にしたのが5分ほど前のこと。
「姉ちゃんは渡しませんから!」と別れ際の大樹の威嚇は、まだ耳に残っている。

そうだな、と返す鬼道の脳裏に浮かび上がったのは、濃いと称された兄弟ではなく、眠りに落ちる寸前に見せた彼女の表情と、その言葉だ。
感謝の言葉など、本来言うべきはいつも世話をされているこちらだろうに。だが、彼女のあの言葉を聞けただけでもあの家を訪ねた価値があったと思ってしまった自分がいて、顔を顰めた鬼道は気恥ずかしさに少しだけ耳の先を赤く染めた。

「でも、明日から3日間マネージャーなしか……」
「弱音吐くなよ、前まではそれが普通だっただろ?」

辺見を諫めた源田が、ふと後ろを見やる。3歩程後方に、ぼんやりと立ち止まった佐久間がいた。
「どうした?」掛けられた声にハッとしてこちらにやってきた佐久間は、再び3人に歩調を合わせながら口を開く。

「いや……何か、部活にあいつがいないって想像したら、違和感あって」

部活に織乃の姿がない。数秒の後、3人は揃って確かにと頷いた。
織乃がマネージャーになって、早いもので約1ヶ月が経った。長いとも短いともいえない期間ではあるが、彼女は確実に帝国サッカー部の一員として馴染んでいる。
辺見の言葉を借りるなら、親の後をちょこまかと追う雛──ヒヨコのように、忙しなく仕事に勤しむ織乃の姿が見えないのは、確かに違和感がある。

彼女がそこにいると、影山の采配で作り上げられた硬質で暗色の空間が、ほんの少し柔らかく色付くのだ。
そのことに気が付いている部員は、恐らく誰もいないだろうが。

「……3日間だけ、風景が少し寂しくなるかもな」

ポツリと零れた鬼道の言葉に、佐久間と辺見が「御鏡(ヒヨコ)のくせに」と口を揃えて、源田が苦笑した。

「何か、今日のあいついつもとキャラが違わなかったか?」
「自分の家だったからだろ?それにあれは、兄弟への態度だっただろうし」
「それにしたってあいつの肘鉄、咲山並みのキレでしたよ」
「お前はどこに注目してるんだ」

行きの道よりも少し、軽い足取りで4人は歩いていく。
1人の少女の存在がゆっくりと、しかし確実に何かを変えて行っていることには──誰もまだ、気付かない。

影に彩色く