ピピッと耳に届く電子音。
記された数字は、36.8。
「これは……治った、っぽい?」
「いーや、まだダメ!」
希望の眼差しを体温計に向けた私を、お兄ちゃんは首を振ってベッドに押し戻す。ていうか、いつの間に部屋に入って来てたんだ、この兄は。
鬼道さんたちの訪問から2日。
医者の言う通り、丸2日間ベッドで安静に過ごしていた私の体温はやっと平常に戻った。──のだが。
「平温に戻っても、また熱がぶり返すかもしれないだろ!?学校はもとより、家事も休め!」
「お兄ちゃん、心配し過ぎだよ……それに今日はみんな夕方までいないのに、私以外誰が家事をするの?」
問うと、お兄ちゃんはうぐっと小さく唸って縮こまる。
お兄ちゃんは今日の午後から珍しく外出の予定がある。大樹は学校の委員会、1番下の弟たちは、まだ小さいから家事は任せられない。
お母さんもお父さんも仕事で夕方以降にならないと帰ってこないから、必然的に今日の家事は私がやるしかないのである。
「それに私、知ってるんだよ?お兄ちゃん今朝、キッチン滅茶苦茶にしたんでしょ!?」
「なっ何故それを!!」
無論、大樹からの垂れ込みだ。
お兄ちゃんは機械のこと以外に関しては漫画かってくらいに思える程に超絶不器用な人だから、料理なんかするといつも台所が大変なことになる。
きっと今頃キッチンは爆心地のようになってるに違いない。
……想像するのも恐ろしい……!!
「お兄ちゃんが家事をするとかえって仕事が増えちゃうの!いい加減自覚して!」
「何か織乃、今日はやけに毒吐きまくってないか!?しかも俺ばっかりに!」
そりゃあここ2日間過剰なまでに看病されればストレスだって溜まるよ、お兄ちゃん。
「よし……これで動ける」
お兄ちゃんを家から送り出して、(叩き出したとも言う)私はパジャマから部屋着に着替える。
熱がぶり返すかも、というお兄ちゃんの言葉も強ち間違ってはいないので、とりあえず家事の方はなるべく軽く、程々に。
洗濯機は後で回してから、大樹が帰ってきてから干してもらおう。
掃除は結構体力使うから、今日だけは我慢して……あ、でもキッチンだけは一応やっておこうかな、爆心地になってるだろうし。
お昼は念を入れてお粥と味噌汁にしておいて、夕ご飯はお母さんが作ってくれるから問題なし、と。
「……何かこうしてると、昔言われたことも間違っちゃいなかったんだなぁ、って思っちゃう……」
数年前、友達に普段家では何をしてるのかと聞かれたところ、家事とそのまま答えたら「主婦か!」って突っ込まれたんだっけ。
手紙のやりとりばかりでもう2年は会ってないけど、元気かな、玲華さんたち。
「……って、思い出に浸ってる場合じゃない」
ハッとして、タンスから出したエプロンを付ける。小学校の家庭科の授業で作って以来ずっと使い続けたそれは少し色褪せているが、まだまだ現役だ。
とにもかくにも、まずはじめに向かうは爆心地と化しているだろうキッチン。
鬼道さんたちが来た日以外、リビングには入っていないから(というか、風邪が悪化するからという理由で部屋から必要以上に出させてもらえなかった)、どんなことになっているやら──
「──お、お兄ちゃんのバカ…!」
カウンターの向こうは不思議な世界でした──みたいな光景に、私はずるずるとその場に座り込みそうになった。
コンロの側に散乱する何かの燃え滓、キッチンマットに醤油を零して更に拭いたのであろう茶色いシミ。シンクは、……モザイクをかける必要あり。
不思議な世界というか、一体どれだけ不器用ならこんな不思議な惨状が出来上がるのか!!
「もうお兄ちゃんだけはキッチンに入れない……絶対に」
ぶつぶつと密かに決意して、ふらついた体を立て直す。
多分、昨日の爆心地は大樹が何とか片してくれたんだろう(夜ご飯を持ってきてくれたとき何だかやつれてたし)。
とりあえず、お兄ちゃんのキッチンでの暴挙は後々お母さんに報告しよう。そうすれば当分、お兄ちゃんがキッチンに立とうなんて思うこともないだろうから。
「──よし、やろう」
とりあえず、シンクが使えなければ洗い物もろくに出来ないので、まずはスポンジを装備。
お昼ご飯を作れるくらいにキッチンを元の状態に戻すには、……大分時間が掛かりそうだ。
「(重ね重ね恨むよお兄ちゃん……)」
▼
右手にケーキ店の箱をぶら下げた様が、なんと違和感のあることか。
鬼道は気乗りしない気持ちで道を歩きながら、溜息を吐いた。
織乃の自宅を訪ねて早2日。
彼女の様子の変化に気付かなかった自分たちにも多少の非があると考えた鬼道は、見舞いの品を片手に記憶に新しい道を歩いていた。
佐久間たちは、「あの兄弟に会うかもしれないから」という理由で着いて来ていない。
余程、冬樹と大樹のテンションが合わなかったらしい。
当然といえば当然だろう、誰だって竜虎相うつ──基、シスターコンプレックス同士の口喧嘩に巻き込まれれば疲れるものである。
それは鬼道にも言えたことで、出来ればあの兄弟には遭遇したくない──のだが、一度見舞いに行くと決めた手前、それは果たさねばならないだろう。
そうこう考えている内に目の前にはあの一軒家。鬼道はもう一度溜息を吐いて、インターホンを鳴らした。
ピンポンという音の後に、小さな足音。
「どちら様ですか?」と扉を開けて出てきたのは、織乃本人だった。
「……え。あ、き、鬼道さん!?」
「御鏡……お前、寝ていなくても平気なのか?」
驚いたように目を見開いた織乃は、「もうほとんど大丈夫です」と小首を傾げて頷く。
「え、えっと、それで──鬼道さん、今日はどうしたんですか?何か部活動の連絡が……?」
「……見舞いに来たという発想はないのか?お前は」
そういえば、前回の訪問でも初めから「見舞いじゃない」と決めつけていたな、と鬼道は呆れたように眉根を寄せた。
一方で織乃は、呆然としたようにポカンと開けた口から、「え」とも「へ」ともつかないような音を漏らしている。
「み、みま、みま、見舞い……えっ、き、鬼道さんが!?」
「……悪いか」
不機嫌さを全面に押し出して顔を顰めると、「めめめ滅相もないです」と腰を90度に折る織乃。
動きに合わせてふわりと揺れる泡の飛んだエプロンを一瞥し、鬼道は軽く鼻を鳴らす。
「まぁ──家事が出来るほど回復したなら、この見舞い品も必要なかったな?」
「あっ」
わざとらしく視界に入るようにケーキの箱を揺らすと、ふらふらとそれを織乃の瞳が追いかけた。
いつものように、くっと喉の奥で笑った鬼道は、ケーキの箱を織乃に差し出す。
「冗談だ。ほら」
「あ──あ、ありがとうございます……!」
両手で箱を抱えた織乃の表情が、パァッと一気に輝く。女性は大概甘いものが好きだと聞くが、彼女も例外ではなかったようだ──と鬼道はぼんやりと思った。
織乃は鬼道が目の前にいる時にしては珍しく、嬉しそうに微笑んでいる。
「(いつもは、困ったような顔ばかり見ているからな──)」
じっとその様子を観察していると、視線に気付いたらしい織乃がふと鬼道に目を向けた。
ばち、と視線がぶつかり、反射的に目を反らす。
「そんなに、ケーキが好きか」
話を逸らすようにそう尋ねると、織乃はキョトンとしたあとにケーキと鬼道を見比べて首を傾げる。
「あ……はい、ケーキは好きです、けど」
煮え切らない。鬼道が怪訝そうな顔をしたのに気付いた織乃は、あわあわとした様子で俯いた。
「あ、いや、あの……お見舞い来てくれるって、思ってなかったから……その、ちょっと、舞い上がってしまって」
火がついたのではと思うほどに、織乃は顔を真っ赤にしてそう呟く。
鬼道はというと、珍しくキョトンとした後に何とも言えない表情になった。
徐に、ぽん、と乗った頭の重みに織乃は顔を上げる。
視線の先には、複雑そうな顔をした鬼道の姿。撫でられていると分かるのに時間は掛からなかった。
「あ、あの、き……鬼道さん?どうかしましたか……?」
「……いや。何となくな」
ギョッとしている織乃の頭を、鬼道の手が何度か往復する。
やがて満足したのか手を下ろした鬼道は、ふっと小さく息を吐いた。
「──それじゃあ、また明日」
「えっ?あ、はい……」
複雑そうな表情を少し和らげ、くるりと踵を返した鬼道はそのまま御鏡家を後にする。
その背中が十分に遠ざかったところで、織乃はハッと我に返った。
「……び、びっくりした……」
鬼道のいつもと違う行動に首を捻りながら、織乃は室内に戻る。
リビングに入ってケーキの箱を開けると、偶然なことに彼女の好きなガトーショコラが入っていた。