「織乃ちゃんってさぁ、どうして俺らにもそんな畏まってるんだ?」

私の酷い風邪がようやくお兄ちゃんが納得するほどに完治して、3日振りに部室に顔を出した日の放課後のこと。
丸3日掃除されていなかった部室はかなり埃っぽくなっていて、私は病み上がりの体にむち打ちモップを奮った。

「……はい?」

そしてそこに居合わせた土門さんが手伝いを買って出てくれ、やっと部室がもとの小綺麗さを取り戻したところで彼にお礼を言ったところ、返ってきたのが冒頭の言葉である。

「畏まって、って……えーっと、何がですか?土門さん」
「だから、それだって」

首を傾げる私に、ズビシと突きつけられる人差し指。
思わず人に指を向けちゃいけませんと弟たちにするように注意してしまったが、土門さんは「お、悪い」と素直に指を引っ込める。しかし、これで引き下がったわけではない。

「先輩とか先生に敬語使うのはマナーだからまだ分かるぜ?でも織乃ちゃんは俺らとタメじゃん」
「ああ…」

何だ、私の口調のことを言ってたのか。といっても、この口調は正確な敬語ではないのだけれど(言っちゃえばただのですます口調だ)。
同級生なら敬語はいらないだろ、と言われ、頭の中で部員に砕けた口調で話す自分を想像してみる。

……ダメだしっくりこない。というか恐れ多い。寧ろ恐ろしい。ぶるりと肩を震わした私に今度は土門さんが首を傾げた。

「こ、これはもう癖みたいなものなんで……」
「えー?」

じゃあ誰なら敬語使わないんだ?と問われ、私は指折り考える。
まずは身内、あと年下(弟がいるから年下に敬語を使うと違和感があるのだ)、それから昔馴染み。これは単に小さい頃はまだ会う人みんなに対して普通に喋っていたからである。

改めて考えると、こんな感じだろうか。あとは殆どがですます口調の──土門さん曰く畏まった話し方だ。

「──あ、でも」
「うん?」
「前、1人だけ頼まれて敬語使わなかった男の子がいました」
「男の子?」

意外だな、と驚いたように零す土門さんに、苦笑しながら頷く。
確かに最近は男の子とフレンドリーにするようなことはないから、今思うと少し貴重な体験だったかもしれない。

いつ何があってこんな風になったのかは不思議と覚えていないのだけれど、気が付いたら、いつの間にか身内以外の殆どと固い口調で話していた。
そんな私に、せっかく友達になったんだから、普通に話して欲しいんだ──と頼んできた彼。
名前は曖昧にしか覚えていないが、ただ1つ、『カズくん』と呼んでいたことは覚えている。

「アメリカに住んでた頃だから……結構、前のことになりますね」
「えっ、織乃ちゃんも?俺も昔、アメリカに住んでたんだぜ」
「そうなんですか?」

それは初耳だ。
そう言えば前に辺見さんたちが英語の教科書を片手に土門さんに泣きついているシーンにうっかり遭遇したことがあったが、成る程あれにはそういう訳があったのか。

「それで、その男の子とはどうやって知り合ったんだ?」

机に腰掛けた土門さんが、何やら楽しそうな様子で尋ねる。
身近に仲間がいたことが嬉しかったのか、何か勘ぐって面白がってるのか。表情的には、限りなく後者に近い。
私は一息ついてモップを置いた。

「ちょっと、色々あって──」




記憶が確かなら、あれは確か2年近く前のこと。
私たち家族は、いつものお父さんの仕事の都合で転勤することになった。

引っ越し先は生まれて初めての海外、アメリカ。
英語なんて殆ど話せずお先真っ暗な上、その頃珍しく転校先で友達に恵まれていた私は、その報せを受けたとき酷くお父さんを恨んだものだ。

友達と別れを惜しみつつ(手紙絶対送ってや!ともの凄い顔で凄まれた)、海を越え、新しい家と対面する。
大きな荷物は引っ越し業者さんに頼んで、私は庭先で当時5歳だった弟の面倒を見ていた。

てん、と大きく跳ねるゴムボール。柵をひょいと飛び越えて行ったボールを、弟の片割れが追いかける。
道路に飛び出すボールと、それを拾い上げる弟。そこに突っ込んできた1台のバイクに、私は気付けば駆け出していて。

──結果として、弟は助かった。
代わりに私はというと、バイクに轢かれはしたものの命に別状はなく、打撲と左足の骨折で、アメリカ生活僅か1日目で病院行きを余儀なくされてしまったのである。

その病院で、偶然相部屋になったのが──同じ日本人の、カズくん。

『その本、俺も読んだことあるよ。面白いよね』

ふと、カーテンの向こうから掛けられた言葉。丁度、手持ち無沙汰に文庫本を読んでいた時だったと思う。
確か、それが初会話だった筈。爽やかさを全面に出した笑顔と、指を揃えて顔の横で振る独特のポーズが印象的だった。

それから、仲が良くなるのにさほど時間は掛からなかったと思う。恐らくそれは、カズくんのフレンドリーな性格のお陰だったんだろう。
カズくんも私と同じように事故にあって入院していたらしいが、怪我の度合いが酷かったらしい。
病室以外で見かけるカズくんは、いつもリハビリ室で必死に体を動かしていた。

『俺、もう一度サッカーが出来るようになりたいんだ』

痛くて痛くてたまらないはずなのに、汗水垂らすカズくんが弱音を吐いたところを見たことは一度もない。
それほど一生懸命に、彼は、元の生活を──ボールを追いかける日々を、取り戻そうとしていたのだ。

そうして──この辺りは記憶が曖昧で正確なことは言えないが、1ヶ月程経って。
回復力を余すことなく発揮した私は、無事退院することになった。

カズくんは病室に歳の近い子がいなくなる、としばらくつまらなさそうにしていたが、やっぱり最後はあの笑顔でお別れを言ってくれた。

『また会おうな、織乃!』

──その後も私はカズくんのお見舞いに行こうと心に決めていたのだが、退院した次の日、いつもの転勤が決まって我が家はあっという間に日本にとんぼ返り。
カズくんとは、それっきりだ。

「──とまぁ、そんな感じです」
「ふぅ、ん……」

話し終えると、土門さんは何やら煮え切らない表情で首を捻る。
「カズくん、ねぇ」どこか引っかかりを覚える呟きに、思わずどうしたんですかと尋ねると、土門さんはいやと頭を振って言った。

「今の話だけ聞くとさ。そのカズくんってヤツが、どうも知り合いと被っちまって……」

でも、なぁ。──土門さんは寂しげにポツリと呟いて、電灯の付いた白い天井を見上げる。
私はその複雑そうな表情にそれ以上突っ込むことも出来ず、ただ部屋の隅に掃き損ねた埃を眺めることしかできなかった。

──やがて土門さんは突然、すっと大きく息を吸うと、「ま、良いか!」と言って立ち上がる。
気にしないことにしたのか、過去を振り返らないタチなのか。飄々としてるからいまいち判断し辛い。

「まぁ、これで織乃ちゃんが同級生とも普通に話せるって分かったわけだし……」
「はい?」

何ですかその妙に明るい笑顔。嫌な予感しかしない。
土門さんは笑顔のまま、ポンと私の肩を叩いた。

「手始めに飛鳥くんって呼んでみようか!ハイ、repeat after me!」
「え、えええええ」

中々の無茶振りだった。
流石のネイティブ発音で急かしながら、土門さんはさぁ言えとばかりにこちらを見てくる。
この人絶対楽しんでるよ!

「──何してるんだ、お前たちは」
「きっ、鬼道さん!」

スタジアムから戻ってきた鬼道さんに、天の助け!と思ったのは言うまでもない。いつもならワルい感じのオーラしか見えない鬼道さんの背後に、今だけ後光が見えた。
そう、今だけ。

「ああ鬼道さん、丁度良かった!」

土門さんは私の肩を掴んで、ぐるんと鬼道さんと向かい合わせると、更に高いハードルを設ける。

「今、織乃ちゃんの喋り方を矯正してたんスよ。つーわけで、GOだ織乃ちゃん!」
「…………えっ、ぅええ!?」

呼べと言うのか、鬼道さんを君付けで!いや確かに名字だけならまだ飛べるハードルかもしれないけど……!

「さぁ、有人くん=I」

大変ですハードルが一気に断崖絶壁にレベルアップしました。寧ろ崖から紐無しバンジーを強要させられた感じ。
鬼道さんは『有人くん』発言が気に障ったのか、思い切り顔をしかめながら土門さんの足を踏んづけた。

「いってぇ!!」
「御鏡、先週の練習データはどこにある?」
「……と、取ってきます」

足を押さえて蹲る土門さんを無視し、何事もなかったように私に話しかける鬼道さん。

「あと、土門の言うことは話半分で聞け。こいつの言うことは大体がジョークだ」
「わ、分かりました……」

アメリカンジョークというやつだろうか。
「2人とも酷え……」よよ、と目頭を押さえる土門さんは申し訳ないながらスルーさせてもらって、私はスタジアムのベンチに置きっぱなしだった練習データを取りに部室を後にする。

「──何が、『飛鳥くんって呼んでみようか』だ。阿呆が」
「あれ、鬼道さん聞いてたんですか。……もしかして、結構序盤から盗み聞きしてたりとか?」
「………」
「えっ、図星……いでぇっ!?」

部室に戻ると、土門さんはさっきとは逆の足を押さえて身悶えしていた。私がスタジアムに行っていた数分の間に一体何があったんだろう。

とある少年の足跡