「つ、疲れた……」

ランニング開始から約2時間後。どさりと柔らかい雪に倒れ込んだのは、佐久間さんだけではなかった。
みんながそれぞれ、ぐったりと糸が切れたように雪の上に横たわる中、私は1人1人にタオルとドリンクを手渡していく。

「お、お疲れさまです……」
「サンキュ……」

俯せに倒れた土門さんが、雪に顔を埋めたままもごもご言いながらそれを受け取った。……あれ、顔がしもやけにならないと良いんだけど。

「雪上ランニングなんてもう懲り懲りだわ……」

明日もこのメニューだったら泣ける、とぼやいた辺見さんに、「まだ分かんねえだろ」と頭についた雪を払いながら言うのは咲山さん。
答えを求めるように、すっとその片目を向けられた鬼道さんは、さり気なく──本当にさり気なく、目線を明後日の方向に向ける。

そうなるとまぁ、当然次の矛先はマネージャーの私に変わるわけで。

「マネージャー。明日のメニューって、どうなってんだ?」
「……え……えーっと……」

どうしたものか。助けを求める意を込めて、ちらりと鬼道さんに目を向ける。
彼はただ、真顔で小さく頷くだけだ。……それはつまり、言えってことなんですか。アレを。

「…………あ、『明日になるまでのお楽しみ』です」
「お楽しみ?何かイベントでもあんのか?」

復唱すると、真っ先に反応を示す辺見さん。鬼道さんの予想は大当たりというわけだ。
しかしその後ろで、寺門さんや万丈さんが、「そんなわけないだろう」と疲れたように呟く。

「イベントなんて、あると思うか?……総帥の企画した合宿に」
「ねぇな」

即決だった。まぁ、当たり前といえば当たり前だけど(相手が総帥だし)。
そうなると、再び矛先は私へ向くわけで。鬼道さんも今度こそは、逃げられなかった。




「──明日からの予定が分からない、だと?」
「ああ……」

ところ変わり、鬼道さんと源田さんの部屋。テーブルには、あの予定表が乗っている。
結局あの後、みんなに問いただされた私たちは、事のあらましを説明するはめになったのだ。

事情を聞き終え、怪訝そうな声音で言った源田さんにソファに腰掛けた鬼道さんが重々しい表情で頷く。
しかし何故鬼道さんは普通に座っているのに、私は正座をさせられているのだろう……。

「普通に座っちゃだめですか?」
「ダメ」

私の意見を、一刀両断する佐久間さん。言い方がちょっと可愛いとか一瞬思ったけど、口が裂けても言えない。

「──念のため、影山総帥にも確認は取ろうとした」
「え、でも鬼道さんさっき……」

あんなどや顔で「これは指令だ」的なこと言ってたのに。私の言いたいことが分かったのか、鬼道さんはちらりと目をこちらにやりながら続ける。

「可能性は限りなく低かったが……総帥が入れる書類を間違えたかもしれないということも考慮した」

なるほど、と私が頷いた手前で、「ちょっと待て」と源田さんがストップを掛けた。

「鬼道。お前、今……確認は『取ろうとした』って言わなかったか」
「『取ろうとした』んだ」

その言葉に顔を顰めたのは、源田さんだけではない。
部屋に嫌な空気が満ちる中、私や他のメンバーの視線を一手に受けた鬼道さんは、ジャージのポケットから携帯を取り出す。
何度かボタンが操作され、スピーカーから流れて来たのは呼び出し音ではなく『お掛けになった電話番号は現在使用されていません』という無機質なアナウンスの声だった。

「どうやら、こちらからは連絡が取れないようになっているらしい。試しにロビーの電話も借りてみたが……そっちも駄目だった」
「徹底してるな……」

呆然と、源田さんが呟く。
そういえば今朝、ホテルに着いた時、鬼道さんは自分から総帥に連絡を取っていなかったことを思い出した。駐車場にバスが留まってすぐ、まるでタイミングを見計らったように総帥の方から電話が掛かってきたのだ。

明確な意図は分からないが、源田さんの言う通り。総帥は、私たちに何としても明日の予定を知られまいとしているらしい。
とにかく、と鬼道さんは携帯をポケットに戻しながら立ち上がる。

「明日にはまた、総帥から連絡が入る筈だ。分からないことを追求していても、時間の無駄になる」

昼食を済ませて午後のメニューを始めるぞ、と言い放った鬼道さんに、部員たちが疲れたように頷いた。

「(──何だかなぁ)」

痺れる足に悲鳴を上げそうになりながら、私もぞろぞろと部屋を出るみんなに続く。
ちらっと背後に目をやると、テーブルに置かれた予定表が見えた。

影山総帥は、本当に選手たちに何をさせるつもりなんだろう。
そんなことを考えても答えが返ってくるはずもなく、時間はただ過ぎていくばかりだ。




そして、昼食を終え数時間後。

「やることが、ない」

自分の膝を見つめながら、呟く。
割り当てられた部屋のソファに三角座りして、私は暇を持て余していた。

午後は自主トレ、と聞いたみんなは、フィットネスルームには向かわずに外へ行ってしまった。
午前のようにランニングを選んだ人、「足腰鍛えるならコレだろ!」とホテルで貸し出しているスキーセットを担いで意気揚々とゲレンデに行った人と、まちまちである。

みんながこうもバラけてしまっては、私も動きようがない。
仕方ないので、使用済みのタオルをランドリールームに持って行って洗ったり、午前の練習データを纏めていたりと自分の仕事を進めていたのだが、それも先程全部終わってしまった。
詰まるところ、手持ち無沙汰。

「……暇だなぁ」

呟いて、ソファの上に転がる。

私もランニングしてる人たちの所へ行こうか?いや、ドリンクもタオルも事前に渡しておいたから、邪魔になるだけだろう。
じゃあいっそ、スキーをしに行くか?……ダメだ、雪の塊に突っ込んでいくのは目に見えている。

溜め息を吐いてローテーブルに目をやれば、コピーしておいた予定表。
総帥も変な意地悪なんかしてないで、さくっと内容を教えてくれればいいのに──なんてこと言ったら、社会的に抹殺されてしまいそうな気さえするけれど。

空調完備された部屋に体が暖まって、くあ、と欠伸が漏れる。
ああ、何だかねむくなってきた、



「──御鏡?」

扉をノックしても、返事はない。鬼道は首を傾げて、周りを見渡す。
夕食前に、念のため明日の打ち合わせをしておこうと思ったのに──どこか行っているのだろうか。

しかし、彼女は昼食の後、確かに「午後は部屋で仕事をします」と言っていた。
ランドリールームにも姿はなかったし、他に行くような場所もないだろうから、留守にしている可能性は低い。

ふと、鬼道は何となしにドアノブに手をかけた。
鍵を閉め忘れたのかノブはあっさりと回り、キィと小さな音を立てて隙間の空いた扉に、不用心な、と鬼道は僅かに顔を顰める。

「(本当に無防備すぎる……)」

そっと中を伺うと、視界に入ったのはソファの上で丸くなる織乃の姿。どうやら眠っているらしい。
──入っても良いんだろうか。

「(いや、俺は打ち合わせに来ただけだ、普通入って起こせば良いだけのことだろう)」

一瞬脳裏に浮かんだ疑問を自己完結して、鬼道は改めて織乃の部屋へ1歩踏み出す。

「御鏡」
「…………」

ソファで寝息を立てる織乃に、ふと既視感を感じた。彼女は変わらず反応を見せない。

「……全く」

疲れていたのか、織乃は完全に熟睡している。鬼道は諦めて、椅子に引っ掛かっていたジャージを彼女の丸まった背中に被せた。
夕食までまだ時間がある。就寝前までに事を済ませればいいのだから、無理に起こす必要もないだろう。

「(……待てよ)」

踵を返し掛けた鬼道は、ふと眉根を寄せて扉を見つめた。
このホテルの扉がオートロック式ではないことは承知している。今ここで自分が出て行けば、織乃は鍵の掛かっていない部屋にひとり残されることになるだろう。他の旅行客も宿泊していると言うのに、何かあってはそれこそ事だ。
しかし、たった今彼女を寝かせておくと決めた矢先にそれを覆すのは如何なものか。だが、かと言って勝手に鍵を持って行くことも出来ない。

「……仕方ない」

長考の後。鬼道は溜め息を吐くと、人1人分の距離を空けて、織乃の隣に腰を下ろした。

織乃が目を覚まし、隣に座った鬼道に驚きその拍子にソファから転げ落ちたのは、それから30分後のことである。

真綿の檻で眠る