「私は最後で良いです」
やや引きつった笑みを貼り付けて、彼女は言う。
鬼道が、だが、と食い下がると、織乃は珍しく語気を強めて「最後で良いです」と繰り返した。
「もう良いんじゃないか、鬼道」
本人もこういってるんだし、と鬼道の肩を叩きつつ、どこに隠し持っていたのかペンギンのビニール人形(水に浮かべるタイプ)を片手に握った佐久間がそわそわしながら言う。
「じゃあ俺たちは先に行ってくるけど……御鏡、1人で大丈夫か?」
「だ、大丈夫ですよ。それにホラ、皆さん体が冷えてるんだから、早く温まらないと……」
眉尻を下げる源田に頭を振って、「さ、早く」と鬼道たちの背中を押す織乃は、少し焦っているように見えた。
それも仕方ないことだろう。いくら異性を気にしない性質とはいえ、大勢の男子がいるなかで入浴だなんだと言われて平然としているほど、彼女は鈍くない。
無論、帝国サッカー部の中に、不埒な考えを持つ者などいないだろうと鬼道は確信してはいたが。
「──ヒヨコって、意外と結構着痩せするタイプらしいんだよな」
「マジで?」
──確信して、いたのだが。
湯船につかり一息ついた頃、思い出したようにそんなことを言った辺見とそれに食いついた土門の頭を両手で湯に沈めつつ、鬼道は溜息を吐いた。
「鬼道、2人が死にそうだ」
「大丈夫だ、心臓マッサージの方法は心得ている」
パッと手を離すと、途端ざばりと湯から顔を出した2人はせき込みながら酸素を欲する。
「げっほ!げほっ、な、何するンスかァ鬼道さん!」
「相応の対処をしただけだ」
「視線が冷たい!」
真っ赤な瞳は絶対零度だ。バカめ、と小さく呟いた鬼道は2人に背を向けようとしたが、源田が「大体、何で辺見はそんなことを知ってるんだ」と尋ねてしまったせいで、半身を傾けただけに終わった。
「いや、この前移動教室の時に偶然ヒヨコと擦れ違ったんだけど」
制服とかジャージより、体操服の方が体のラインが分かるよな──と、辺見は虚空に視線を泳がせながら呟く。どうやら、相手は体育の授業が丁度終わった時だったらしい。
目にしたことがない体操服姿の織乃を思い浮かべそうになった鬼道は、慌てて顔を湯で濯いだ。
「つーかお前、感性がたまにオヤジくせぇよな。だから禿げんじゃねーの」
「まだ禿げてねえよ!!」
「まだって何だよ」とこっそり呆れた佐久間には気付かずに、辺見はふいに、思い立ったように握り拳を固める。
「覗けば分かるだろ!」
その次の瞬間辺見は鬼道に濡れたタオルで思い切りひっぱたかれたが、自業自得だった。
「……な、何かあったんですか?」
「何も、ない」
山小屋に戻ると、こちらを見るなり織乃は怪訝そうな顔をする。
それもその筈、鬼道の後ろに付いてきた一同は全員、温泉に浸かったというのに憔悴していて、おまけに辺見は頬や額に何かでひっぱたかれたような痕を作って戻って来たのだから。
織乃は鬼道の様子から、訊いても答えてくれないことを悟ったらしく、矛先を源田に変える。
「温泉で何かあったんですか?」
「え」
尋ねられた源田は、その場で静止。織乃の背後では、何人かが「言うな!」というように首や手を激しく横に振っていた。
──何にせよ、言えるわけもない。織乃のスタイルについて言及から始まり、好みの女子の体型の話に脱線し、及びそれを止めさせるための論争が湯船で勃発したことなど。
「……御鏡」やっと行動を再開した源田は、徐に織乃の肩に手を置く。
「護身術を、習ってみないか……」
「……はい?」
彼女がポカンとするその後ろで、一同は一斉にずっこけた。しかし源田はどこまでも真剣である。
「出来れば、今すぐに」
「な、何故……」
そんな無茶な、とでも言いたげに織乃は顔を引きつらせたが、源田はお前の身の安全の為だ、と頭を振った。
「ぜ、善処します」ようやくして織乃は、絞り出すようにそう答える。
「とにかく、お前も遅くならないうちに、早く行ってこい。俺たちは全員、ここを出ないから」
「え、あ、はい……」
何故そんな釘を刺すんだろう、という表情をしながらも、織乃は着替えを詰めた袋を抱えて、山小屋を出て行った。
扉が閉まるなり、源田を脇に控えさせてその真ん前にどんと腰を下ろした鬼道に、何人かが苦笑する。辺見の覗き発言に賛同した部員たちだ。
「そんなに睨まなくたって、覗きになんか行きませんってば」
「信用できない」
「ひどい」
その後も論争は続き、またもや脱線したそれは織乃が戻ってくる頃には最終的にトランプ勝負に発展したが──彼女は知らずとも良いことだろう。
「状況が分からないんですが……」
「まあ、気にすんな」
トランプを持って対峙する鬼道と辺見、そしてそれを見守る部員たちを遠巻きにしながら織乃が言うと、咲山がそれに欠伸をしながら(マスクがあるため定かではない)答えた。
ふいに、隣で寝袋の具合を確かめていた佐久間の視線を感じた織乃は、そちらに目をやる。
「……? ど、どうかしました?」
「いや……」
じぃっ──と、佐久間は一言返しながら、織乃の姿を上から下まで見つめた。
織乃はパジャマ代わりに着用したジャージの端を掴んで、「何か付いてます?」と首を捻る。
「──やっぱり、ジャージじゃよく分からないな」
「そんなもんだろ?」
視線を外した佐久間と咲山の会話に、置いてきぼりをくらった織乃はますます首を傾げる。
一方では、小屋の一角で奇妙な悲鳴を上げながらトランプを放り投げた辺見を、「お前は詰めが甘いんだ」と鬼道がせせら笑っていた。
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「(ホント、何であんな白熱したトランプ勝負なんかしてたのかな)」
この疑問は解決する兆しがないので、それはさて置き、である。
先程から一貫して山小屋と呼んでいるこの場所だが、実は結構──かなり、大きい。
軽く見積もっても30畳はある床面積と、その三分の一ほどの広さがある2階部分。ロフトと言った方がいいだろうか。
とにもかくにも、世間はこれを山小屋と呼ばず、ちょっとした別荘と呼んだ方が正しいと思う。
そして私はというと、そのちょっとした別荘の二階のスペースに、現在進行形で押しやられようとしていた。
「あ、あの。本当に良いんですか?私だけ二階占領しちゃって……」
「当たり前だろう」
お前は女子なんだから、と源田さんは言いながら、両拳を腰に添える。
と言うか、源田さん、足下で雑魚寝している人たちを踏んづけているように見えるのですが。
「お前は、危機管理能力のレベルが低すぎるんだ」
もう少し危機感というものを覚えろ、と説教口調で言うのは鬼道さんである。
「明日は5時半に起床だ」2階に寝袋を持ってくるついでに、鬼道さんはそう付け足した。
「危機感、ですか……」
「そうだ」
──確かに、冬の山中に子供だけでいるわけだし、危険はそこらじゅうに転がってるかもしれない。
山小屋にいると言っても安全が完璧に確保されたわけじゃないし、もしかしたら雪崩なんかが起こって、小屋ごと巻き込まれてしまうかも。
「……雪崩って、怖いですね」
「……その意見には概ね賛同するが、御鏡。俺が言いたいのは、そういうことじゃない」
はぁ、と溜息を吐いて鬼道さんはこめかみを指で押さえる。
「……昨日今日で雪道に慣れた分、明日はもう少し早く進める筈だ」
「ここがこの場所だ」ばさばさと広げた地図を床に置き、鬼道さんはある一点をトンと指さして、そのままスーッと麓の建物までの山道をなぞった。
「タイムリミットは午後5時。さっき計算してみたが、約30分歩き続けた毎に休憩を挟んでを繰り返せば、余裕を持って麓に辿り着ける筈だ」
「30分……って」
この秋からよく聞く目安の時間に、まさか、と呟くと、鬼道さんは事も無げに頷く。
「大凡の5試合分の時間を当てはめた」
「…………」
つまり、前半・ハーフタイム・後半。試合と同じ流れを5回繰り返せば良いと言うことだ。
多分これも、総帥の考えだろうが。計算されつくしているというか──いっそ隙がなさすぎて、少しと気持ち悪いです、総帥……。
「鬼道、そろそろ消灯しよう」
「ああ」
階段の下からぬっと顔を出した源田さんに、鬼道さんは頷いて立ち上がる。
そして振り向きざま、源田さんが急に真面目な顔つきになった。
「階段の前は、俺たちが張っておくから。お前は安心して眠れよ、御鏡」
「は、はぁ……」
何でわざわざ階段前に張る必要があるんだろう。
大いに疑問に思ったが、鬼道さんまでもそれに大真面目な顔で頷くものだから、私は口を噤んでしまった。
「鬼道さんも源田も、それじゃあまるで過保護すぎる父親ッスよ」
階下から聞こえた茶化すような辺見さんの声に、2人はすっと真顔になると、無言で階段を降りていく。
その数秒後、辺見さんと巻き込まれたらしい土門さんの鈍い悲鳴が聞こえてきたのだった。