地獄のサバイバル、もとい冬山合宿も終わり、あとは来るべき試合と年明けを待つばかり。
誰もがそう思っていた、合宿二日後の放課後のことだった。

「は?」

部室にて。間の抜けたような声がひとつ室内に響く。

「声が出ない?」

珍しく素っ頓狂な声を上げた鬼道に、マスクをつけた織乃は無言で頷いた。
その手には、『のどが腫れて声が出ません』と走り書きされたノートが持たれている。

「もしかして……あの合宿で、この前の風邪がぶり返したのか?」

今日は早退するか?と気遣う源田に織乃は首を横に振ると、シャープペンシルをノートに走らせた。

『のどの痛み以外 特に別状はないので 大丈夫です』
「筆談っていうのも面倒だな……」
「……」
「え、あ、そんな落ち込むなよ!ええっと…筆談なら、ほら。いつもみたいにどもらずに済むよな」

「な!」と、佐久間は項垂れてしまった織乃に慌ててフォローを入れたが、どうも失敗した感が否めない。
埒があかないと判断した鬼道は溜め息を吐いてマントを翻すと、スタジアムへ通じる扉を開いた。

「御鏡。今日は、お前はデスクワークに徹しろ。他の雑務は俺たちが時間を縫ってやっておく」
「!」

顔を上げて、織乃は慌てたように再びノートに字を綴る。
見せられた字は、急いで書いたせいで先程よりも雑に並んでいた。

『本当に平気なんです 喋らなければ悪化もしません』
「どうだかな」

呟いて、鬼道は彼女の手からするりとノートを抜き取る。
それを取り戻そうとこちらに伸びた手を押しのけると、触れた指先から熱が伝わった。

「どうせ早退しろと言っても聞かないだろう。ここで無理をして倒れられる方が迷惑だと理解しろ」
「……!」

ギュッと眉尻を下げて、織乃は俯く。手厳しいが、鬼道の言っていることは正論だ。
何も言えなくなった織乃に鬼道は密やかに息を吐くと、すれ違い様にポンと彼女の頭に手を乗せた。

「……いつものように仕事すれば体に障るだろうが、データをまとめる程度ならあまり負担は掛からないだろう。頼んだぞ」

そのまま彼は振り返ることなく、カツカツと靴音を響かせ部室を出て行く。
しばし呆気に取られたような空気が室内に漂ったが、少し間を置いて、「まぁ、無理するなよ」と源田が彼女の肩を叩いて言ったのを皮切りにして帝国イレブンは部室を出て行ったのだった。




「鬼道、あいつ熱があったんじゃないか?やっぱり帰らせた方が良かったんじゃ……」
「多分微熱程度だろうし、大丈夫だろう。途中で駄目だと判断したら、無理にでも帰宅させるがな」
「でも、もしもこうしてる間に倒れでもしてたら……」
「御鏡にも、引き際が分かるくらいの甲斐性はあるだろう」
「だけど……」

纏わりつくようにまくし立てる佐久間が鬱陶しくなってきたのか、鬼道は眉間に皺を寄せる。
そして唐突に、スッと右手上げて。

「ぐわッ!?」

ビシィッ、と渾身の力を込めたデコピンを、佐久間に炸裂させた。
額を押さえてうずくまる佐久間を、鬼道は顔をしかめて見下ろす。

「佐久間。心配するのは自由だが、余所でやれ。気が散る」
「しっ、心配なんかしてない!」

少し離れた所で、アレが最近話題のツンデレというやつですね、アレがか、と五条や大野がこそこそと囁き合っていることにも気付かず、佐久間は褐色の肌に朱を混ぜた。
唇を尖らせて、彼は鬼道を少し睨むようにしながら立ち上がる。

「そういうお前はどうなんだよ……」
「無論、本人が大丈夫だと言ったんだ。俺は別段心配してない」

そう言いながら、足を軽く振りかぶった鬼道はボールを無人のゴールにシュートを打った。
しかし、大きな弧を描きゴールを軽く飛び越えたボールは、フィールドの端でストレッチをしていた2年生の頭に落ちていく。


「痛ッ!?何すんだよ、鬼道ー!」
「……すいません」

あ、やっぱり心配なんだ。
足下が狂った、と謝った後に小さく呟いた鬼道の姿をみた一同は、そう直感したのだった。

「(ヒヨコのやつ、早いトコ復活してくれねぇかなぁ……)」

鬼道の的を外したシュートや、ドリブルの途中で転ぶ佐久間を視界に入れながらそんなことを思うのは辺見である。
いっそ早く帰らせた方が彼女の体調の為にも部員の心情の為にも良いのではと、珍しく良心的なことも考えた。

そして彼女の代わりにマネージャー業務をする五条や万丈を見て。

「(ホントに早く復活してくれねぇかなぁ、マジで!!)」

目に優しくない!!と、辺見はさめざめとした様子で両手で顔を覆い切実に願う。
健全な男子中学生としては、ガタイの良い強面の男子にドリンクやタオルを渡されるより、挙動不審でも良いから女子マネージャーに世話してもらいたいというのが普通だろう。

嘆く辺見の肩を、生温い目をした寺門がポンと慰めるように叩いたその一方、スタジアムの片隅で。

「……あ」

ぼんやりとポケットに手を突っ込んでいた咲山が、突如声を漏らした。
傍らに佇んだ土門が首を傾げる。

「ん?どした、咲山」
「ポケットに入れっぱだった」

そう言って広げられた掌には、レモン味の喉飴が転がっていた。しばらくポケットの中で放置されていたのか、包装に皺が寄っている。

「この前、よく知らねえ女子から渡されて、ポケットに入れて……」
「そのまま忘れてた、と。せっかくだし、渡してくれば?」

「んぁ?」肩眉をピクリと上げた咲山は、フィールドに広がるいつもと少し違う光景と、喉飴と、土門に順に視線を移し。

「……じゃ、行ってくるわ」
「いってらー」

──ぼこん。
「あっ、すまん!」部室へ消えた咲山に手を振った土門の頭に、佐久間の蹴ったボールが激突した。




「ほらよ」
「?」

かつん、とテーブルに投げられた黄色い包装の喉飴を、織乃はキョトンと見つめる。
『もらっていいんですか』とノートに書かれた文字を見て、咲山は顎でスタジアムの方を指した。

「お前がいないせいで、フィールドが地獄絵図なんだよ。それ食って早くどうにかしろ」
「……!?」

眉間に皺を寄せた織乃は、慌てて首を縦に振り『ありがとうございます』とノートに書き出すと、マスクをずらして飴を口に放り込む。
カラコロと飴を転がしながら書類との格闘を再開した織乃を、咲山はぼんやりと眺めた。

──部活の始まる前、鬼道の見せた少し分かり難い気遣い。
咲山だけでなく、帝国イレブンは、彼の角が徐々に取れていっているのを感じていた。

それは多分、自分の目の前にいる、このお人好しで挙動不審な少女に一因があると、思うのだが。

「……俺的には、もっと気の強いやつを相手にしたほうがオトし慨があると思うんけどなァ」
「(えっ、いきなり何の話!?)」

「ま、好みは人それぞれか」大きな独り言にギョッと顔を上げた織乃には気付かずに、マスクの内側で欠伸をこぼした咲山はゆったりとした足取りでスタジアムに戻って行ったのだった。

小さな歯車