年内に試合をする予定はなくなった。
開口一番、部室にやってきた鬼道さんの言葉に、みんながどこか脱力したようなホッとしたような、微妙な反応を見せたその日。

いつものように部活も終わり、みんなも着替え終わってさあ帰ろうとなった時だった。

「──あー」

鞄にペットボトルを押し込んでいた辺見さんが、目を細めながら唐突に声を上げる。
どうした、とベンチから腰を上げた源田さんが尋ねると、辺見さんは鞄から何かの紙を引きずり出した。

「何か、下の方に入ってた」

そう言ってペラリと翻された紙を、揃って覗き込む。
やけに煌びやかな文字とイラスト、カラフルに縁取られた空欄。よくファンシーショップなんかでバインダーとセットで売り出されている、所謂プロフィールシートだ。

「何だって今頃こんなもんが出てくるんだよ?」
「えーっと……」

紙についた埃を払いながら言う咲山さんに、辺見さんは頭の後ろを掻きながら首を傾げる。
曰く、四月の始め──入学して間もない頃にクラスの女子から貰ったものの、鞄に入れたままいつしか教科書やその他諸々に鞄の隅へ押しやられ、存在を忘れていたのだとか。

「それでこんなに埃まみれなわけだ。皺が少ないのは意外だけど」
「他の物がアイロン代わりにでもなったんだろうな」

スルリと咲山さんの手からそれを取った鬼道さんが淡々と述べる。
しげしげと珍しいものでも見るように紙を眺めた後、隣の源田さんへパス。

「あげた女子も可哀想に」
「や、あっちもあっちで絶対に忘れてると思うから」

苦笑を交えた源田さんの言葉に辺見さんが答え、更に佐久間さんへパス。

「そう言えば、佐久間も春に同じようなもの貰ってなかったか?」
「ああ、そうだったな。5枚から先は覚えてないけど」

そうして、ぐるりとパスを繰り返されたプロフィールシートは私の元へ。
「あ、そうだ」ふいにぼんやりとそれを眺めた私を一瞥した辺見さんが、声を上げてニヤッと笑う。
それはまるで、悪戯を考えついた子供のような笑みだった。

「丁度良いじゃねーか」
「は?」




「──それで、どうしてこうなるんですか……?」
「話の流れだろ、どう考えたって」

シャーペンを握った私の前にあるのは、あのプロフィールシート。
後ろにはそれをのぞき込むようにする辺見さんと佐久間さんに、私が逃げないように扉の前を陣取る鬼道さんと源田さん。そしてベンチには、「暇だったから」とそれらを眺める咲山さんと土門さんがいる。
残りの部員たちはさっさと帰ってしまった。私も逃げ、いや帰りたい。

「だって俺ら、ヒヨコのことなんざ名前とクラスしか知らねーし。改めて自己紹介ってことで」
「ま、要するに俺らの暇つぶしに付き合えってこった」

辺見さんの言い分とさらりと添えられた咲山さんの本音に、私は溜息を吐く。
佐久間さんが私の背中に体重を掛けながら寄りかかって、「早く書けよ」と急かした。

「帰りたいなら、書いた方が身のためだぞ、御鏡」

わざと脅すような口調で言ってのける鬼道さんの体はしっかり扉の真ん前。
これはもう、観念しなきゃならない感じですか。私は諦めて、溜息を吐きながらシャーペンを握りなおした。

周りからの視線に居心地の悪さを感じつつも、名前、誕生日、好きなもの、得意科目、特技、大切なもの、気になる人、エトセトラ──セオリー通りの項目を、着々と埋めていく。
特技に家事≠ニ書き込んだところで、「主婦かお前は!」とすかさず辺見さんからのツッコミが入った。

「だ、だってそれくらいしか取り柄がなくって!」
「探しゃ何かあるかもしれねーだろうがよ……家事って、お前」
「というかアレでいいだろ、ゲ」
「ああ佐久間さんそれは言わないで下さいったら!!」

私が慌てて佐久間さんの口を塞ぎにかかる傍ら、プロフィールシートを鬼道さんたちが覗き込む。

「『好きなスイーツ』が抹茶系統たぁ渋いとこ突いてくるな。マネージャーお前、年相応って知ってる?」
「ししし知ってますよ!」
「得意科目は歴史と国語、誕生日が10月10日……って、何座だったかな」
「えっと、天秤座です」
「ふぐぐぐぐぐぐっ」
「あっすいません!」

ぱ、と手を離すなり、佐久間さんは何度か咳き込んだ後、きっと目尻を釣り上げてこちらを睨んだ。

「おっ……まえ、人を窒息死させる気かッ!!」
「ごごごごごめんなさいひゃひゃひゃひゃいひゃいいひゃい!」

ぐにーっと両頬を引っ張られて、私はくぐもった悲鳴を上げる。
「は、アホ面」佐久間さんはそのまま満足げな顔で鼻を鳴らした。

「気になる人の欄は空欄かぁ。これっていないってことだよな、織乃ちゃん?」
「ほふえすお」
「佐久間、そろそろ離してやれ」
「いや……何かこいつの頬、やけに柔らかくて離しがたい……」

どうやら私の頬が気に入ってしまったらしい佐久間さん(何てこった)に、源田さんはやれやれと肩を竦める。
痛みが緩んだのは良いけど、このまま引っ張られ続けたら頬肉がどうにかなってしまいそうなのですが。

「家族構成が両親、兄貴……弟が三人?何だよ、あいつの他にもまだいたのか?」
「ああ、あの双子か」
「ふい」
「ちょっと待て!」

ばちん!と音がしそうな勢いで、頬が解放される。
何やら信じられないようなものを見る表情で、佐久間さんは源田さんを振り返った。

「源田、今なんて言った」
「え?」

「双子?」繰り返した源田さんに、佐久間さんと辺見さんがそれだ!と指を突きつける。

「お前、何でヒヨコの残りの弟が双子だなんて知ってんだ?」
「何で、って……」

会ったことがあるから、と頭を掻きながら何の気なしに言った源田さんに、部室に驚いたような声が反響した。



晩御飯の材料が足りないから買ってきてくれ、と母に頼まれマフラーと財布と一緒に家から放り出されたのは、とある日曜日のこと。
頼まれた物を買い終えてスーパーの外に出てみると、冷たい雨がしとしとと降り注いでいた。

「雨か……」

呟き、鞄から普段から持ち歩いている折り畳み傘を取り出す。
時折、雨が好きな人などいるのだろうかと彼は考えることがあった。歩きにくいし、特に冬場の雨は体が冷える。

そんなことをぼんやり考えながら傘を開こうとしたその時、どこからか小さなくしゃみが聞こえた。
ふと何となく音のした方に視線をやった彼は、目をしばたく。白いダッフルコートに、深い赤──鬼道のマントを彷彿させるような色のマフラーを巻きつけて、鼻の先を赤くした織乃が少し離れた軒下で空を見上げていた。

「御鏡!」
「は──へっ、げ、源田さん!」

一瞬大きく肩を揺らして振り返った織乃は、こちらにやって来た源田に目を見開く。
買い物か、と尋ねると、彼女はこっくりと頷いて見せた。

「源田さんも買い物ですか……?」
「ああ、俺は母さんの使いっ走りだよ。御鏡は……そんな感じでもなさそうだな?」

織乃の両手にぶら下がる大きく膨らんだエコバックを見下ろし、源田は小首を傾げる。
織乃はああ、と返すと、片方を持ち上げ困ったように微笑んだ。

「休日は私が食事当番なんですけど、材料を買い損ねちゃってて……」
「なるほどな」

自分の失敗にうなだれてしまった織乃の頭を、源田はぽんと軽く叩いて慰める。
織乃は少し顔を上げると、ふにゃりと眉根を下げて微笑んだ。

「──御鏡は」
「はい?」

ふいに、思いついたように源田が口を開く。
首を傾げた彼女に、源田は一拍空けて微笑みながら言った。

「小動物みたいで、可愛いな」
「……えっ」

うさぎとかハムスターみたいだ、と織乃の変化に気付かない源田は、そのまま彼女の頭をぽふぽふと叩く。
しかし少し経つと流石に異変に気付き、「御鏡?」と彼女の顔を覗き込んだ源田は、次の瞬間ポカンとした。

「か、か、か、かわっ、何っ」

──さしずめ、茹で上がった蛸のようとでも言おうか。
真っ赤な顔で口をぱくぱくしながら狼狽える織乃に、源田は思わず小さく噴き出した。

「わっ、笑わないで下さいよ!」
「ああ、すまんすまん」

くつくつと喉の奥で笑いをかみ殺しながら、源田は体を少し曲げる。
スキンシップは平気なのにこういうことには慣れていないのかと、彼は唇を持ち上げた。
急に笑みを深めた源田を訝しんだ織乃は、赤いままの顔で思わず半歩後退してしまう。

そんな反応をされると流石に傷付くのだが、と思う傍ら、視界で雨足が強くなってきたのに気付いた源田は、「そうだ」口を開いた。

「この雨で立ち往生してるんだろう?傘、一緒に入って帰るか?」
「え?」

徐々に赤みの収まってきた顔を上げ、織乃は目をしばたく。
しかし彼女は戸惑ったような困ったような表情になって、眉尻をくっと下げた。

「あ……ご、ごめんなさい源田さん。すごくありがたいんですけど、私……」
「お姉ちゃーーん!」
「ぐふぇっ」

それはさながら、乗用車の衝突事故のような。それほどの唐突さと勢いで、織乃の鳩尾に何か柔らかそうなものが激突した。
青と赤のダウンをそれぞれ着込んだ、小学校低学年ほどの子供である。

「むかえにきたよお姉ちゃん!」
「はやくかえろーお姉ちゃん!」

子犬が親に群がるように、その子供2人は織乃の腰に抱きついたままキャンキャンと言った。
その体勢のまま呻きながら動かない織乃が流石に心配になって、「大丈夫か?」と声をかけると、手前の子供が先に反応を見せる。
ぐるり、と同じタイミングでこちらに向けられた顔は、髪の色以外、何から何までそっくりだった。

『お兄ちゃん、だれ?』

ステレオで尋ねられれば、誰であろうと一瞬は戸惑うだろう。
源田は一瞬たじろいだ後で、「お前たちは御鏡の弟か?」と質問を質問で返してしまった。

「うん、そう!ぼくが良樹でー」
「ぼくが和樹!それで……」
『お兄ちゃんは、お姉ちゃんの何?』

すり替わった質問に、源田は思わず口元をひきつらせる。お姉ちゃんの何≠ニは、随分マセた尋ね方をするものだ。
──と、ここでようやく復活した織乃が、「こら!」と双子の頭を軽く叩く。

「2人とも、失礼なこと言うんじゃありません!」
『だってお姉ちゃんとなかのいい男の子はあぶないんだって冬兄ちゃんと大兄ちゃん言ってたー』

一言一句、違わない台詞に流石双子、と感心する一方で、御鏡家の長兄次兄の思考がどこへどう繋がっているのか考えさせられた瞬間だった。
何はともあれ、と彼は双子と同じくらいの高さまでしゃがんで、警戒心を刺激しないようにこりと笑う。

「俺は、お前たちのお姉さんの友達だよ。同級生なんだ」

すると途端に、こちらに集中する2人の視線。嘘か真か、真偽をはかっているらしい。
そして、間を空けて「ふーん」と返ってきた乾いた声に、ああこれは信じなかったな、と源田は少し物悲しくなった。

「えと……それじゃあ、源田さん。私たちはこれで失礼します」
「ん?ああ、分かった。気をつけて帰ろよ」

織乃は良樹から手渡された大きめの傘をパンと開いて、両サイドに双子を連れ立ち去っていく。
姉に気付かれないように2人がこちらを振り返って、べーっと舌を出したのには──大人気ないことではあるが、源田はほんの少しムッとしてしまった。

何にせよ、御鏡家兄弟のシスターコンプレックスは、どうやら遺伝のようなものらしい。



「──おい、源田」
「……ん?ああ、何だ?」

しばらく回想に耽っていたらしい源田さんに、辺見さんは「何だじゃねーよ」と呆れた声色で言って眉根を寄せる。

「俺たちゃ経緯を訊いたんだ。お前1人が回想モードに入ったって、わかんねーだろ」
「それもそうか。んー……うん」

腕を組んで考え込む源田さん。
何秒か間を空けて、その口元が少しだけ緩んだのが見えた。

「……まあ、秘密ってことで」
「おいいいぃ!!」

あれだけ溜めといてふざけるな、とみんなに食ってかかられているというのに、源田さんはどこか満足げである。
その様子を一瞥した鬼道さんは溜息を吐くと、ツカツカと私の方へ歩み寄って来た。

「で……結局どう言うことなんだ」

どっちにしても追求はやめないのか、と、私は思わず苦笑する。

「ど、どうと言われましても……偶然スーパーで鉢合わせただけですよ」
「主婦か」

辺見さんの二度目の主婦発言。主婦じゃなくてもスーパーくらい行きますってば。

「双子か……少し見てみたいな」
「止めておけ、佐久間。敵と見なされるだけだぞ」
「おいどういう意味だ源田」

そして再開される口論。
横目でその光景を眺めた私は、そっとプロフィールシートに手を伸ばす。
みんながこっちを見ていない間に──ひとつ書き込みそこねた空欄に、シャーペンをそっと走らせた。

大切なもの、『サッカー部のみんな』。


「(……なんちゃって)」

いざ書いてみて恥ずかしくなった私は、傍らの消しゴムを握る。だが字を消すより先に、脇から伸びてきた手が私の手首を掴んだ。
顔を上げると、そこにいたのは複雑そうな表情をした鬼道さん。
鬼道さんは私の手を離すと、ゴーグルに隠れた目を僅かに伏せる。

「……ありがとう、御鏡」

その小さくも穏やかな声色と、赤みの差した耳に。私は何だか少しだけ嬉しさが込み上げて、頬を緩めて頷いた。

大切になったもの