「──はぁ……」

スタジアムにて。
みんながシュートやパスの練習をしているのを眺めつつ、私はベンチで1人ボールを磨きながら溜息を吐く。

『あの時はお互いお酒が入ってたんだ、頼むよ織乃!』

今回限りで良いから──と、昨夜、渋りまくる私に頭を下げまくったお父さん。
今後一切私を巻き込まないようにすること、とキツく言って、私は仕方なくパーティーの同行を受け入れた。

大体お父さんは下戸なんだから、そもそもお酒を飲まなければいいのに。
小さく私がぼやくと、お母さんは「お酒を飲むのも社会人の仕事なのよ」と軽く笑っていた。

とにもかくにも、その次の日──つまりは今日だが、私がまず早退の件を伝えたのは当然影山総帥。
自主的に総帥の元へ向かったのはこれが初めてだったが、総帥は私の説明を聞くと「そうか」とあっさり頷いただけだった。やっぱり総帥は、この件については既に知っていたらしい。……何故かは知らないけど。

部員のみんなにはまだ言っていない。
パーティーに出るために早退するなんてお前はどこのブルジョワだ、とか何とか辺見さんあたりにつっこまれそうで、中々切り出す気が起きないのだ。
はぁ、と再び溜息を吐いていると、ふいに頭上から影が差す。

「随分憂鬱そうだな、御鏡」
「……それは、鬼道さんもですよ」

言うと、この切り返しは予想外だったのかむすりとした私を見下ろした鬼道さんは強張った眉をピクリと動かした。
隣に腰を下ろしデータの確認をし始めた鬼道さんに、私は今しかないとボールを籠に戻す。

「あの……鬼道さん」
「?何だ」
「ええっと……」

キョトンとこちらを見た鬼道さんから視線を外しつつ、私はもごもごと口ごもりながら続けた。

「じ、実は、今日の午後なんですけど……ちょっと昨日、急に予定が入ってしまって」

なので、今日は早退させていただきます──と。
最後の方は殊更小さな声になってしまったが、鬼道さんはしっかりとそれを聞き取ってくれたようで、少しだけ首を傾げる。

「お前もか」
「はい……」
「ちなみに、理由は?」
「……聞かないでいただけると、ありがたいです」

ぼそりと付け足すと、鬼道さんは何かを察したのか「そうか」と頷くだけでそれ以上は追求しなかった。
助かった、と私はボール磨きを再開する。

「早退の件は、理由は伏せても良いから後で言っておけよ」

それから、予備のドリンクも作っておくように──とデータに視線を固定したまま言う鬼道さんに、私は頷いた。

ああ、いっそのこと、このまま時間が止まってしまえばいいのに。




「(まぁ、そんなこと無理だとは分かってるけどさ……)」

すっかり日が落ちて、暗くなった道を走るタクシーの中で、私は膝に視線を落とす。
隣ではお父さんが中年の運転手と談笑をしているが、それも耳に入らない。

──お母さんが見立ててくれたというパーティー用の服は、襟と袖にファーをあしらった白いワンピースだった。
さすがお母さんというか、私の趣味にピッタリはまる可愛い代物だが、それでも私のテンションを通常時に戻すことは出来ず。

やがて窓の外を流れていた景色のスピードが緩まって、タクシーは何やら大きなビルの前で停車した。

「(何階あるの、これ……)」

1、2、3……10階まで見上げたところで、数えるのをやめる。とりあえず20階あるのは確かだ。
「ああ、着いた着いた」料金を払い終わったお父さんが、タクシーから降りてくる。
走り去るタクシーにとんぼ返りしたくなったが、何とか耐えた。

気分は初めて戦地へ赴く新兵。
目の前に聳えるビルは、さしずめ敵の砦と言ったところか。
……気が重い。早く帰りたい。

「よしっ、じゃあ行くか!」
「……いえっさー」

テンションが地を這いずっている私に対して、お父さんはやけに元気だ。
行きがけにスーツのポケットに名刺をいっぱい詰め込んでいたから、パーティーに便乗して新しい取材を取り付けるつもりなのかもしれない。何という仕事魂。

「──うわ…」

一歩中に入ると、真っ赤な絨毯に足下がまごついた。
そのままエレベーターに乗って、10階へ。お父さんはひとつの部屋の前で立ち止まると、そばにいた受付の人に招待状を渡す。

「──御鏡様と、そのご令愛ですね。かしこまりました」

ではどうぞ、とその人は洗練された優雅な所作で扉を開けた。
溢れ出た光に、一瞬目が眩む。

「ごゆっくりお楽しみ下さい」

いや無理です。
涙目になりそうになりながら振り返ると、扉は無情にも、音もなく静かに閉じられた後だった。

緩やかに流れるクラシック。
窓際に立つ大きなクリスマスツリー(よく見ると本物の樅の木だ)。ホールに溢れかえる人たちは、点々と設置されたテーブルを囲んでワイングラスを傾けつつ談笑している。

「ま、眩しい……」
「ん?何か言ったか?」

余すことなく高級感を醸し出す空間につい呟くと、周りの人に会釈していたお父さんが振り返った。
私は曖昧に微笑んで誤魔化してから、そっとそのホールを見回す。

本当に、私みたいな子供がこんな所に来て良かったんだろうか。
辺りにいるのは当然ながら大人ばかりで、今自分がここにいることがとても場違いなように思える。

「──御鏡さん!」

胃が痛くなりそう、と思っていた矢先、突然耳に飛び込んできた自分の名字に肩が大きく跳ねた。

だがすぐに、お父さんの方を指したのだと気付いてほっとしながらそちらを振り返ると、人混みをかき分けるようにしながらお父さんを呼んだらしい人が空っぽのワイングラスを片手にこちらへやってくる。
厚ぼったい唇に口ひげをたくわえた、厳格さと柔和さを合わせ持ったような中年の男の人だった。

「ああ、これはご無沙汰しております!」
「こちらこそ。御鏡さんも、招待されておられたんですね」

2人はにこやかに挨拶して、握手を交わす。一瞬、この人がパーティーの主催者なのかと思ったのだが、どうやら違ったらしい。
ふとその人が私に視線を向けた。

「おや、ご令愛ですかな?」
「ええ、娘の織乃です。先日の取材で、吉良さんと子供の話になりまして。せっかくだからとお言葉を頂いたので、同伴させました」

ポンと優しく、お父さんが私の背中を叩く。
暗に挨拶しなさいと言われているのが分かって、私は頑張って噛まないように、慎重に口を開いた。

「初めまして、御鏡織乃……です」
「どうも、こちらこそ初めまして。──可愛らしい娘さんですな」
「自慢の娘です!」

お父さんお願いだからそこはもうちょっと謙遜して!!──と、私は心の中で悲鳴を上げる。
対して男の人は、特に気にしていないようで快活に笑った。

「実は私も、今夜は息子を同伴させてきているんですよ」
「それは奇遇ですね。──それで、ご子息は……?」
「ん?」

振り返った男の人は、「さっきまで後ろにいたんだが」とはぐれてしまったらしい息子さんを探して辺りを見回す。
そして一拍空けた後、あっと小さく言ったかと思うと、徐に片手を掲げて声を上げた。

「有人、こっちだ」

──有人?
はて、と私は首を捻る。何だろう、なんだか凄く聞き覚えがある気がするんだけど。

「とうさん、ここにいたんですね──え」
「あ」

人混みをかき分けて、急ぎ足でこちらにやってきた人に、私は目を丸くする。
──ああそうか、そういえば。

「有人、こちらは私の友人の御鏡さんと……どうした、有人?」
「ん?織乃?」

お互い、自分の子供を見比べて首を捻る大人2人の存在をうっかり忘れかけ、私は──私たちは、ほぼ同時に声を上げる。

「御鏡……!?」
「き、鬼道さんっ!?」

そうだ、鬼道有人。
それが目の前にいる彼の──鬼道さんの、フルネームだった。

偶然と必然