「今日の活動は、大掃除です」
──彼女がいつもと違い力強く言ったのは、大晦日。12月31日のことだった。
それじゃあサッカーが出来ないじゃないか、と真っ先に食ってかかった佐久間に、織乃は「そ、総帥にも許可は取ってあります」と果敢に言い返す。
掃除なんて面倒だ、という佐久間の思惑を本能で感じ取ったのかもしれない。彼女にしては珍しく、有無を言わさぬ口調だった。
「しかし何でまた掃除なんだ?」
「1日1回、私が箒をかけるだけじゃ追いつかないんですよ」
源田の素朴な質問にふっと溜息を吐きながら答えた織乃に、鬼道は少しだけ申し訳なさを覚える。
そう言えば先日、気まぐれに部室を訪れた影山が「埃っぽいな」と呟いていたな──と思い出して渋々その案に頷くと、たちまち一部から沸き起こるブーイング。
織乃はきゅうっと目を細めると、部員たちを一瞥した。
「良いんですよ、やりたくない人はやらなくても──手伝ってくれた人には、蜂蜜レモンを贈呈しようと思ってたんですけどね」
小脇にあった袋を抱え直し、織乃はやや演技掛かった口調で呟く。
彼女も部員たちの扱いに随分慣れてきたものだ──と。
たちまちブーイングを止めて大人しくなった部員らに鬼道は1人、そんなことを思ったのだった。
そして時計の針は進み、午後1時45分。織乃の「掃除します」宣言から、1時間は経っただろうか。
部室の掃除係に割り振られた鬼道たちは、言葉を交わすことなくただじっと、固く閉ざされた部室の扉を睨みつけていた。
織乃は部員をいくつかにチーム分けし、スタジアムの備品の整理やミーティングルームの掃除の手伝いをした後、「掃除機を借りてきます」と用務室に行ったきりまだ帰ってきていない。
由々しき事態だ──と、鬼道はこめかみに嫌な汗を滲ませる。しかし、何としてでも彼女が戻ってくる前に事を片づけねば。
とりあえず、まずは現状を把握するため、鬼道は口を開いた。
「──部室のロッカーに食べかけの菓子を放置した馬鹿は、挙手しろ」
「は、はーい……」
刹那、そろりそろりと手を挙げた辺見が、ボール無しのジャッジスルーに吹き飛ばされる。
元凶への制裁は済んだ。さてこれからどうするべきか。
「……いけるか、源田」
「平等にじゃんけんしないか」
「頼む源田、キングだろ」
「今その肩書きは関係ない」
じり、とにじりよってきた佐久間を一言で一蹴する源田。
咲山が恨めしそうに、常備しているバットで部室の扉をつついた。
「もう、面倒くせーから全員で突撃しようぜ」
「バカお前、扉開けた途端に飛び出してきたらどうするんだよ!」
咄嗟に噛みついてきた佐久間に、「お前は恐がり過ぎなんだ」と鬼道が言い添える。
ジャッジスルーから復活した辺見が、ちらりと彼を窺った。
「そう言うなら、鬼道さんが代表で行ってきて下さいよ……」
「断固拒否する」
即答した鬼道をジト目で見た辺見に、佐久間による二度目のジャッジスルーが炸裂する。
鬼道は組んでいた両腕をのろのろと解き、嘆息した。彼らと自分の不甲斐なさに。
「……とりあえず、誰か殺虫剤を持ってこい。話はそれからだ」
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殺虫剤を両腕に佐久間が戻ってきたのは、それから約5分後。
一缶もあれば事足りる筈だが、彼はしっかり人数分の缶を抱えていた。
「辺見が原因なんだし、お前がトップバッター行けよ」
「いやいや、勝手に決めんなよ。ていうか菓子にあいつらが集ってた時点で俺のが被害者じゃね?」
「黙れ、今にも軽犯罪犯しそうな悪人面してる奴が」
「人のこと言える面か、咲山!」
佐久間と咲山による、辺見への集中攻撃。
舌打ちをひとつした咲山が、殺虫剤とバットを構える。
「なぁ、いっそこいつを盾にしてから特攻しちまおうぜ」
「咲山てめェェェェ!!」
「お前はそんなに特攻したいのか……」
威勢の良いことを言うが、当の咲山も部室に入る気配がない。
後ろで、源田がボソッと呟いた。
「こんなとこ御鏡に見られたら、軽蔑されそうだな」
ピタリと、扉の前で騒いでいた3人の動きが止まる。
「な、何言ってんだよ、源田。ヒヨコに俺たちを貶すようなことする度胸があるわけねーだろ!?」
「まぁ、直接貶すことはあいつに限って流石にないだろうが、情けないと思われる可能性は大だな」
鬼道が付け加えた言葉に、佐久間が冷や汗を一筋垂らした。
男子5人揃ってこの体たらく。普段から彼女にやや高圧的な態度を取っている分、反動も大きいだろう。
男の沽券にも関わることだ。だからこそ、早くこの状況を何とかしなければならないわけなのだが。
「──あれー、何してんの?」
ふいに掛けられた呑気な声に、5人は一斉に肩を揺らす。
ゆっくりと振り返ると、モップを片手に持った土門が不思議そうな顔をして彼らを見ていた。
「何だ、土門か……脅かすなよ」
「どうかしたのか?土門」
「ん?」
佐久間が胸を撫で下ろし、源田の問いに「ああ」と頷いて、土門はモップを軽く持ち上げてみせる。
「一応、廊下もしといた方がいいのかなーって思って」
「織乃ちゃんに確認取りに来たんだけど」言いながら、土門はキョロキョロと辺りを見回し織乃の姿がないことを確認すると、まぁ良いかと鬼道たちに向き直った。
「んで、鬼道さんたちはんなとこに突っ立って、何してンスか?」
鬼道たちの動きが、再び固まる。
異様な雰囲気を察した土門は、怪訝そうに眉根を寄せた。
そんな彼に、咲山が──ニヤリと笑って(マスクを付けているので定かではない)、1歩近付いた。
「俺たちはなァ、勇者を待ってたんだよ」
「は?勇者?」
「そっ」
「てなワケで、ほい」オウム返しした土門に、咲山はポンと自分の持っていた殺虫剤を手渡す。
訳が分からないといった顔で殺虫剤と部室の扉を交互に見比べる土門に、辺見が拳を固めて言った。
「行け土門!黒い魔王と戦えるのは最早お前しかいないんだ!!」
土門 は 逃げ出した!
E:殺虫剤
「余計なこと言ってんじゃねーよこの若禿野郎!!」
咲山の百烈ショットに悲鳴を上げる辺見を視界に入れながら、鬼道は殊更眉間に皺を寄せる。
これでまた降り出しに戻った。
「寺門とか手頃な奴を呼ぼう。あいつなら勇者になれる、きっと」
「いや、寺門は今ミーティングルームの掃除中なんだから……」
「──いや、もういい」
「いい加減腹を括るぞ」と、鬼道は声量を大きくする。咲山は辺見への制裁を中断し、バットを肩に担いだ。
「平等にじゃんけんで決めよう」
「結局そこに収まるのか……」
「もう良いじゃねーか、それで。いいか、手加減は無しだぞ」
「おい、じゃんけんするんだぞ。手加減って何だよ」
「グーは鳩尾でチョキは目、パーは頬だ。常識だろ」
「それは攻撃する部位か?咲山、お前じゃんけんのルールを学び直して来い。出来れば常識も」
「ああもうっ、良いからやるぞ!じゃんけん──ッ」
「何してるんですか?」
源田の音頭が不自然に途切れる。
デジャブのようなものを感じながら振り返った先にいたのは、当然ながら彼らのマネージャー。
「掃除機の点検してもらったら時間掛かっちゃって」と、大きな業務用掃除機をガラガラと引っ張りながら、もう片方の手に新聞紙と雑巾の突っ込まれたバケツを持った織乃がてくてくとやって来る。
そして少し不自然な体勢で固まっている5人を見て、首を捻った。
「あの……何かあったんですか?」
「え。あー……それは、だな」
1番彼女の近くにいた源田が言いにくそうに口を動かすと、織乃の目がその手にあった殺虫剤のスプレー缶に向けられる。
「もしかして、何か害虫でも出ました?」
「害虫、うん、まぁ、そうだな」
「なっ」と、努めて明るい声色で同意を求める源田に、4人はコクコクと頷いた。
しかし織乃はそれに怖がる様子も見せず、「なら早くやっつけないと」と、あっさり扉を開けようとする。
それを、佐久間が驚異的なスピードで阻んだ。
「まっ──待て御鏡!魔王と戦うには心の準備が!」
「魔王?」
「複数潜伏してたんだよ、黒い魔王が……!!」
忌々しげな辺見の声に、織乃は鬼道たちの顔や殺虫剤を見て、合点のいったような顔をする。
「ああ、ゴ」
「名前を言うなバカ!」
「来たらどうするんだよ!」
「……そんな召還呪文じゃあるまいし」
必死の形相になった辺見と佐久間に、織乃は呆れた顔になった。
こうなることだけは避けたかったのに、と鬼道が頭を抱える。
そして織乃は溜息を吐くと、「お借りします」と鬼道の手からスプレー缶を抜き取り、バケツから取り出した新聞紙を筒状に丸めて。
「すぐ済みますからね」
パシュン──と扉を潜り、部室に入ってしまった。
一拍開けて、佐久間と辺見がポカンと口を開く。
「え……ええええええええ!?」
「ちょ──行っちゃったよヒヨコ!いたよ、勇者が!」
「やけにあっさり行ったな……」
バン、バシューッ、とドア越しに聞こえる戦いの音。
やがて3分は経っただろうか。部室から、ムッとした表情をした織乃が出てきた。
その手には、ゴミ袋に袋ごと入れられたスナック菓子の残骸。
「これ、辺見さんですよね?ダメですよ、置き菓子するならするで、ちゃんと開け口閉じないと」
「あ、う、おう……」
しどろもどろ頷いた辺見にそれを手渡して、織乃は改めてジャージの袖をたくし上げる。
「もう全部やっつけましたから。大丈夫ですよ」
そう、ニッコリ笑った時の織乃には後光が差し込んで見えたと、後に佐久間たちは語ったのだった。
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それから約2時間が経過した。スタジアムの備品は綺麗に整頓され、廊下も六人が部室を掃除している間にやって来た土門や寺門により、隙間なく磨かれた。
「随分綺麗になったよな」
「これでアレが出なけりゃ、もっと素直に喜べたのに……」
溜息を吐きながら蒸し返す辺見を、咲山がバットの先で小突く。
ふいに源田が、部室の中央に燻煙式の殺虫剤を設置する織乃に、思い出したように話しかけた。
「そう言えば、御鏡は案外虫とかが平気なタイプだったんだな」
「ああ、はい。大概のものは大丈夫です。流石にゴ」
「わーッ!」
「…………は気持ち悪いとは思いますけど、まぁ悲鳴を上げる程では」
「…………」
反射的に声を上げた佐久間が居心地悪そうに小さくなる。自業自得だった。
そして織乃は、どこか遠くを見つめながら呟くように続ける。
「うち、お父さんも兄弟たちも、ああいうのが苦手だから……家に出ると、私かお母さんが必ず駆り出されるんですよね」
多分それで慣れちゃったんでしょうね、と織乃は薄く笑った。
「いやでもホラ、助かったよ」慌ててフォローする源田にも、織乃は諦めたように溜息を吐く。
女子としては、虫に耐性があることはあまりプラスにならないのかもされない──と鬼道はぼんやり考えた。
織乃は気持ちを切り替えたのか、ふいに「私よりも」と顔を上げる。
「皆さんが虫が苦手ってことの方が、意外だったんですけど……」
「……虫というか」
鬼道は苦い顔で唸った。
虫と偏に言っても、その全てが苦手なわけではない。あそこまで拒否反応が出るのは、あの黒光りする虫だけだ。
得手不得手の問題でなく生理的に受け付けない物があるのだろう。
「他は平気なんだけどな……」
「ある意味条件反射だよな」
「情けないことに、な」
「……とりあえず御鏡、ありがとう」
言い訳臭い言葉に歯止めをつけた鬼道に、彼女は苦笑した。
そして荷物を抱え部室から出て、扉に電磁ロックを掛ける。
次にここにやってくるのは、三が日よりも後だ。
流れで共に帰路についたが、織乃は備品やデータの整理で鬼道たちより後に帰ることが多いため、一緒に帰ることは珍しい。
ちらりと鬼道が右隣を窺うと、マフラーを巻いた織乃の鼻が赤くなっているのが見えた。空からはチラチラと雪が降ってきている。
その後ろで、両手をポケットに入れた佐久間が「ぶえくしょッ」と少し間の抜けたくしゃみをした。
そして、ふと。
ある一角で、彼女の足が止まる。
「え、と。じゃあ、私はここで」
「ん、ああ」
降り積もったばかりの雪に足跡を残し、段々と小さくなる背中。
「気をつけて帰れよー」源田の声に、織乃がふいに振り返った。
躊躇したように立ち止まり、両手を口の脇に添えたかと思うと。
「っ今年はお世話になりました!──よいお年を!」
そして、ピュンと慌てたように彼女の姿が曲がり角に消えるまで見送って、再び帰路につく。
「顔が笑ってますよ」からかうようにそんなことを鬼道に言った辺見は、文字通り一蹴された。
「良い年になるといいな」
「来年のことを言うと、鬼が笑うって言うぞ?」
「迷信だ、んなもん」
「またお前はそんなことを……」
薄く積もった雪に、5人分の足跡が点々とついていく。
「──お世話になりました、か」
世話になったのは、こっちの方だというのに。
小さく呟いた鬼道は、4人に分からないように小さく笑う。
きっと彼女は、来年も変わらないのだろう。
根拠はない。ただ織乃のあの言葉を反芻すると、来年は良い年になりそうだと、穏やかに思うことが出来た。