「織乃さーんっ!」
「ごふっ」

学校見学の日から、スタジアムに遊びに──というより、練習に参加しに来るようになった健也くん。
仮にも春には帝国生になるとはいえ、まだ部外者であることには変わりないのに校舎内に入っても良いのかと源田さんが一度尋ねた時は、「サッカー部のお偉いさんには、もう許可は取ってありますんで!」と健也くんは笑ってみせた。
そして健也くんはすっかり慣れたスタジアムに入ってきた途端、私の元に飛びついてくるのが習慣になった、のだが。

「け、健也くん……もうちょっと、勢いを抑えられないかな……?」
「え?」

健也くんを腰にくっつけたまま震える声で聞けば、健也くんは首を傾げた後、「尽力します!」と頷く(力を尽くさなきゃ出来ないようなことなのか)。
それを見咎めた源田さんが健也くんを剥がしにかかり、まだあのことを根に持っている佐久間さんがスパルタ練習に彼を引きずっていく、というのが最近のサッカー部の日常になってきていた。
今日は珍しく洞面くんも一緒のようだが、佐久間さんに引き摺られていく健也くんの様子を見て、「落ち着きがないんだから」と彼は溜息を吐く。

「毎日、違うクラスの奴が教室に特攻してくる人の身にもなってくれってもんですよね」

ね、織乃先輩──そう言いながらむーっと唇を尖らせる洞面くんは、マスコットキャラのような見た目に反し、少々毒舌家だった。

「あいつ、来週テストがあるってこと知らないのかな……」
「うーん……。し、知らないんじゃないかなぁ」

洞面くんは目先のボールより、来るべきテストに備えたいようで。対する健也くんはそんなことは意中にないようで。
実際テストのことが頭に残っていたら、もう少し勉強に意識を傾けるはずだ。事実、大樹だって今週はずっと机にかじり付いている。
とりあえず、来週の健也くんのテストの結果に合掌。

そこでふと、洞面くんが思い出したように「そうだ」と顔を上げた。

「織乃先輩、鬼道先輩はいつ来るんですか?」
「え?あ、そういえば……」

腕時計と部室の扉を見比べる。
「おかしいな……」いつも鬼道さんは、部活が始まる5分前には絶対にここにいるのだけれど。

既にその5分前は過ぎていて、次のチャイムが鳴れば点呼をとる時間だ。
それに間に合わなければ遅刻扱いになるということは、キャプテンである鬼道さんが一番分かっているだろう。

他の人たちは、委員会や日直で遅れる場合必ず昼休みには私にそれを進言しに来る(その度にクラスの人たちから向けられる視線に耐えなきゃいけないのだが)。
しかし今日、私のクラスに鬼道さんは来なかった。総帥の呼び出しでも受けているのだろうか。

「新しい技覚えたから、見てもらおうと思ったんですけど」

つまらなさそうな洞面くんの顔を見て。私は、少し考えて、彼の頭をポンと撫でる。

「私、ちょっと探してくるよ。洞面くん、しばらくこれ、預かっておいてくれる?」
「あ、はい!」

部員の出席表を洞面くんに預け、私は駆け足でスタジアムを出た。
ぱしゅんと開いた扉を潜って部室に入り、中を伺う。

「やっぱりいない……」

今日は鬼道さんは欠席だっただろうか。クラスが同じなら確認のしようがあったが、無理な話だ。
ああでも、確か鬼道さんは寺門さんと同じクラスだったはず。寺門さんは既にスタジアムに入っているが、鬼道さんに関することは何も聞いていない。
とりあえず、学校には来ているものと判断しても良いだろう。

「……どうしちゃったんだろう」

校舎内にいるのだから、何か危険な目に遭っているということは考えにくい。第一相手は鬼道さんだ。例え何かがあっても、迅速に対応できるはず。……多分。
段々とネガティブ思考が進んでいく中、耳にぱしゅんと音が届く。

音のした方を向くと、丁度制服姿の鬼道さんが、ふらりと部室に入ってきた瞬間だった。

「あ──鬼道さんっ。遅かったですね、何かあったんですか?」
「ん、ああ……いや、少しゆっくり歩きすぎただけだ」
「そうだったんですか、……?」

駆け寄った私は、首を傾げる。
何だか、鬼道さんの様子がおかしいような気がしたのだ。

「……鬼道さん……どうかしたんですか?」
「別に、どうもしないが……」

一歩、私から後退して。
「着替えるから、スタジアムで待っていてくれ」と、鬼道さんは部室の脇にあるロッカールームの扉に近付いたのだが。

──ガタン、と。
その次の瞬間、鬼道さんの足がベンチの角にぶつかった。

「いっ、──」
「き、鬼道さん!?」

ぐらりと傾いた鬼道さんの体を支えるべく、慌ててその腕を掴む。
しかし、途端に掌に違和感を感じた私は、思わず眉を顰めた。掴んだ箇所が、異様に熱を持っていた気がしたのだ。
──まさか。

「……ちょっと失礼します」
「え」

そのまま、離れようとした鬼道さんの腕を抱えるようにしてその体を引き寄せて、私は彼の額にぺたんと掌をあてがう。
いつもより近い距離。ゴーグル越しに鬼道さんの見開かれた目と目が合って、私は顔をしかめた。

「──やっぱり鬼道さん、熱があるじゃないですか!」
「……こ、これが俺の平熱だ」
「どれだけ高体温なんですか、そんなわけないでしょう!」

ふらふらと私から離れようとした鬼道さんを、逃がすまいとばかりに捕まえる。
ビビりなんか発動している場合じゃない。私の掌が感じ取った熱は、微熱どころのものじゃなかった。

「ひとまず保健室に行きましょう。みんなには後で説明しますから──まだ歩けますか、鬼道さん」
「御鏡、本当に大丈夫なんだ……そんなに心配しなくても、すぐ……」
「だめ!です!」

こればっかりは譲れない。私は頑として頷かなかった。
たとえ後でお叱りを受けることになろうとも、とにかく今は早く鬼道さんを休ませてあげないと、直に倒れてしまう。

「確かにキャプテンがいなくなったら部員の統率力は下がるかもしれないけど──鬼道さんが練習中に倒れでもしたら、それこそみんな練習どころじゃないでしょう!」
「……そう、か」

鬼道さんは私に支えられながらも、苦い顔で笑う。
「すまん」と小さな声と共に、ヒュウと苦しそうな息が漏れた。

「鬼道さんだって、私のお見舞い来てくれたじゃないですか。お相子ですよ」
「ふ……そう、だな」

鬼道さんの体から、徐々に力が抜けていく。その加重に、思わず膝がガクンと折れた。
そして、次の瞬間。

「悪い──御鏡」

言った直後、とうとう鬼道さんの体から完全に力が失せた。気を失った人間1人を抱えるというのはかなり難しい。
「うわ、った!」重みに耐えきれなくなった私は、どしゃりと鬼道さんと一緒にその場に崩れ落ちる。

「いたた……き、鬼道さん!?しっかりして下さい、鬼道さんっ!」

下敷きになりながらも呼び掛けるが、鬼道さんは荒い呼吸を繰り返すだけで反応を見せない。
発熱して熱くなった鬼道さんの体に覆い被さられながら、私はスタジアムの方へと必死に叫んだ。

「きっ……鬼道さんが大変ですーー!!」





──という出来事があったのが、実は昨日のことなのだが。

「……へ?」

キャプテン不在により、本日の練習は短縮──そんな放課後。私の間抜けな声が、総帥の薄暗い部屋に反響した。

「二度も言わせるなよ、御鏡」

トン、トン──と総帥が節ばった指で叩いているのは、デスクやキーボードではなく、手元にある1枚の茶封筒である。
ほんの少し膨らみのあるそれに何が入っているかなど、私の知る由ではなかったけれど。

「今日中にこれに目を通すよう、鬼道に伝えろと言ったんだ」
「はっ、はい!あ、いや、でもあの、鬼道さんは、今日……」

もごもごと私が言うと、総帥はフンと軽く鼻を鳴らした。
「鬼道が風邪で欠席していることなど、とうに知っている」そう言いながら、総帥はデスクの上を滑らせて、封筒を私に寄越す。

「……つ、まり。家まで行けと……?」
「その通りだ」

パチン、と総帥が指を鳴らした。
その途端、背後からぱしゅんと扉の開閉音。後ろを確認しきる前に、入ってきた数人の背広を着たゴツい人たちに囲まれて、私はギョッと目を剥く。

「行く途中で迷子にでもなられたら堪らんからな。送っていくくらいのことはしてやろう」
「え、え、えええぇ?!」

ガッシリと両腕を掴まれ、気分は誘拐犯に連れ去られる被害者A。ズルズルと引きずられながら、私はただ抱えた封筒を離さないようにすることで手一杯だった。

事件発生