影山総帥は、もう少し事を平和的に運ぶということを覚えるべきだと私は思う。
そう、思うだけで、そんな講釈をあの人に垂れることなんて出来やしないけど(だって怖いもん)。

校舎の外へ連れ出され、ぽいと放り込まれたリムジンの後部座席で、私は膝に置いた拳を固めて長く重たい溜息を吐いた。

「(初めて乗るリムジンでこんなに気まずい思いするなんて思わなかった……)」

これがもっと違う状況なら、流れる風景とふわふわな座席を楽しむことができたかもしれないが、車内に漂う空気がそれをさせてくれない。
息苦しいような──広い筈なのに、窮屈なような。総帥の部屋に、雰囲気がよく似ている。ここもあの人のテリトリーなのだろう。

私が無駄に力んでいる間にも、微かなエンジン音を響かせて車は飛ぶように走っていく。
そうして何度か角を曲がり信号を過ぎ、15分は経っただろうか。

ふと感じた振動に、私は俯いていた顔を上げる。
触ってもいないのに勝手に開くドア。降りろと言うことだろうか。
そろりと下車し、とりあえずお礼は言っておこうと振り返った時には、ドアは既に閉まっていた。
そのままリムジンは排気ガスを吐き出しながら走り去っていく。

「な、何だかなぁ……」

せめて、「降りろ」でも「着いた」とでも、一言あったら何かが救われたのだが。
初リムジンは、私にただひたすらやり切れない気持ちを植え付けるだけに終わったのだった。

「(……って、たそがれてる場合じゃなかったんだった)」

私の目的は、鬼道さんにこの書類を送り届けることである。
ここで降ろされたということは、この辺りに鬼道さんの家があるということなのだろうが。

「…………これじゃ、ないよね」

私はすぐ隣にあった、高い柵を振り仰ぐ。
道路を挟んだ向かい側は極普通の住宅街だ。流石に、わざわざ反対側に降ろすなんて地味な嫌がらせはしないだろう。

じゃあやはり鬼道さんの家はこの柵の内側なのか、そうなのか。
しかしこの柵、高いだけでなく横にも異様に長い。中は植木に阻まれて見えないが、一体どれだけ大きいんだ、鬼道邸は。

「(……そういえば佐久間さんに前、鬼道さんちは大きいって聞いたことがあるような……)」

それと同時に思い出したのが、鬼道家が大手の財閥だということ。
なるほど、納得した。茶封筒を小脇に抱え、1人でうんうんと頷いていると、背後から車のエンジン音が聞こえる。
振り返った先にいたのは、クリスマスに顔を合わせた人だった。

「おや、君は御鏡さんのところの……織乃さん、だったかな?」
「はっ、はい!お久しぶりです……」

にこやかにこちらへ歩み寄るその人──鬼道さんのお父さんに、私は慌てて腰を折る。
「そんなに畏まらなくとも良い」と明朗に言われ、私はおそるおそる頭を元の位置に戻した。

「家に何か用かな?」
「あ──は、はい。えと、影山そうす……部活の監督に、ゆっ……ゆうっ」
「影山さんが、有人に?」
「っこれを、渡すようにと」

茶封筒を差し出してみせると、鬼道さんのお父さんは「すまないね」と緩く微笑む。
しかし、気になることがひとつ。

「(影山さん=H)」

あまり聞かない呼び方である。
そういえば鬼道さんはあの日、自分を鬼道家の養子に推薦したのは総帥だと言っていた。きっと影山総帥は、鬼道家とも関わりが深いのだろう。

何はともあれ、これを預かって貰えば私の仕事は終わり、ミッションコンプリートだ。
有人さんに渡していただいても宜しいでしょうか、という言葉を頭の中で何度か繰り返し、いざ口を開いたその矢先である。

「有人の風邪も、大分良くなったんだ。織乃さんがお見舞いに来てくれたなら、きっとあの子も喜ぶだろう」
「はい?」
「さぁ、入ってくれ。すぐにお茶と茶菓子を持ってこさせよう」
「え、は、え……?」

ぐいぐいと背中を押されて、結局私は鬼道邸に足を踏み入れることになったのだった。




「(うわっ、広い……!!)」

長い廊下に、連なる扉。
きっと1人でここを訪れたら、十中八九迷子になるだろうと思えるくらい、鬼道邸は広かった。
封筒を抱えて挙動不審がちになった私を連れた鬼道さんのお父さんは、ある部屋の前で立ち止まる。
2回扉をノックをすると、「はい」と中から鬼道さんのものと思しきくぐもった声が返ってきた。

「有人、私だ」
「義父さん……?」

入るぞ、と声をかけ、鬼道さんのお父さんはドアノブを回す。
広い部屋に足を踏み入れ、まず始めに見えたのは大きなベッドだった。掛け布団が、もぞりと動く。

「義父さん、どうし……っ!?」
「織乃さんがお見舞いに来てくれたんだよ、有人」

「そう、ですか」一瞬お腹までずり下がった掛け布団を一気に頭まで持ち上げて、鬼道さんは切れ切れに呟いた。
あっという間に布団に隠された姿に面食らっていた私は、枕元のサイドテーブルに無造作に置いてあった赤い髪ゴムとゴーグルを、布団から伸びた鬼道さんの手が素早く拾い上げる瞬間を目撃する。

「──それでは、私はまだ仕事が残っているから……後で、紅茶でも持ってこさせよう」
「あ、お、お構いなく……!」

パタンと扉が閉まるのを見送った私は、慌てて前に向き直った。
ベッドの上の鬼道さんは、いまだ掛け布団をかぶったまま、ゴソゴソと動いている。

「…………そこの、椅子に。座っていてくれないか」
「ぅえ、あ、はいっ」

サイドテーブルの脇にあった椅子をこちらに引き寄せて、私はそろそろと腰を下ろした。
もごりと掛け布団が退けられて、出て来たのは少しばつの悪そうな顔をしたいつも通りの鬼道さん。

「……すまん」
「え、あ、や、そんなことは」

鬼道さんが何に対して謝っているのかしっかり理解しきる前に断りを入れてしまうのは、最早条件反射だった。
やっと落ち着いたらしい鬼道さんが顔を上げて、いつものゴーグルを私は思わずじっと見つめる。

「……俺の顔に何かついてるか?」
「えっ?あ、そうじゃなくて……その、鬼道さんのゴーグルないところ、初めて見たなぁ、って……」

つっかえながら言うと、鬼道さんの頬がカッと赤くなった。俯き、こめかみを指で押さえながら溜息を吐くように呟く。

「……見たのか、やっぱり」
「へぁ、う、ご、ごめんなさい!いやでもアレですよ、あの、か、カッコよかったですよ!」

思わず力んで言うと、鬼道さんは「も、もういい」と今度は手で顔を押さえ、ベッドで丸くなった。
……あれ。私、今ものすごい恥ずかしい発言をしなかったか。

「……そ!そういえばお具合の方はどんな感じでしょうか!?」

若干日本語がおかしくなりながら、私は必死に話題を逸らした。
鬼道さんは「大丈夫だ」と、顔を上げてあぐらをかく。

「熱も下がったし動くのに支障もない。明日には学校に行けるさ」
「そ、ですか……」

良かった。思わず詰めていた息を吐き出し呟くと、鬼道さんの表情が少し柔らかくなった気がした。

「それで……御鏡は何故ここに?その様子じゃ、自分から来たわけじゃないだろう」

あ、やっぱり分かるもんですか。そうですよね、ものすごい挙動不審ですもんね。
「えっとですね」感情が顔に出やすい自分を恨みつつ、私は膝に置いた封筒を鬼道さんに差し出した。

「これをら鬼道さんに今日中に目を通すようにって、総帥に拉致……あ、いや連れてこられました」

思わず本音がはみ出す。鬼道さんは特に気にしなかったようで、「そうか」とそれを受け取った。
封を開け、中から取り出した書類を読み始めた鬼道さんの表情が僅かに歪んで、私は首を傾げる。

「何だったんですか?」
「…………」

訊ねると、鬼道さんは書類を握り締めて、戸惑ったように唇を真一文字に引き結んだ。
くしゃりと書類に皺が寄る。

「あ、言い辛いことなら別に……」
「……いや」

そう言うわけではない、と寄った皺を延ばしながら、鬼道さんは頭を振った。
「──来月」皺の寄った書類をゆっくり捲りながら、鬼道さんはポツリと呟く。

「来月の中旬、に。……他校との試合が、決まったそうだ」
「えっ」

試合。久しぶりにその単語を聞いた気がするのは、多分あの日から私が無意識に口にしないようにしていたからだろう。

でも、少し意外だ。
前の冬山合宿は雪を見越してのあの予定だったのだろうが、試合のことなら総帥は来月の中旬なんて遠回りじゃなく決めたらすぐ実行、来週試合をします──みたいな感じがするのに。
それを言うと、鬼道さんはもう一度書類に目を通しながら答えた。

「総帥は、今月末から数日間ブラジルに出張らしい。だからだろうな」
「そ……それはまた随分遠出を……」

ブラジルと言えば、日本の反対側にある国だ。お父さんも昔、いくら仕事でもあそこまで遠い国には転勤したくないと零していたことがある。
しかし、総帥はブラジルで、一体何の仕事があるんだろうか。

鬼道さんが書類を封筒に戻したのを見送っていた私は、ハッとして体を揺らす。

「えっと、じゃあ私そろそろ、」
「有人様、御鏡様。お茶とお菓子をご用意しました」
「…………」

ドアの外から聞こえたメイドさんの声に、ぷしゅると気合いが抜ける。
戸惑う私を見て、鬼道さんが眉を少し下げながら薄く笑った。

「せっかく来たんだ、もう少し居ればいい。──丁度、退屈もしていたところだったしな」




メイドさんの持ってきてくれた大きな苺の乗ったショートケーキを食べながら、訥々と鬼道さんと会話を交わす。
鬼道さんがいないと練習に力が入らないと、呻いていた今日の部員たち(主に佐久間さん)のことを話すと、「明日はスパルタか……」と鬼道さんは怪しく笑った。

そして普段はあまりしないような世間話をして、空になったお皿を取りに来たメイドさんに「可愛らしいお客様ですね、有人様」なんてからかわれて、鬼道さんに顔が赤いぞと笑われて。
自分の家だったからだろうか。いつもより少し饒舌な鬼道さんと話すのは、何だか楽しかった。

また来てくださいね、と玄関まで見送ってくれたメイドさんたち(何故か気に入られてしまったらしい)に会釈をして、門を出る。
ずっと座っていたからか、体の節々が痛い。
関節を鳴らしていると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。

「──あれ、御鏡?」
「えっ?」

振り向くとそこには、コンビニのビニール袋を両手に抱えた源田さんと佐久間さんの姿。
「何でこんなとこに」佐久間さんが袋をガサガサと鳴らしながら、駆け寄る。

「総帥に言われて、鬼道さんに届け物をしにきたんです。2人はお見舞いですか?」
「そうなんだけど。源田が、アレもいるんじゃないかコレもいるんじゃないかってもたもたするもんだから……遅くなっちまった」

俺のせいか、と苦く笑う源田さんの抱えた袋には、よく見るとゼリーや何やらの包装が透けて見えた。
「でも」ふとそこで源田さんが、何やら生暖かい目で私を見やる。

「御鏡が来てたなら、俺たちの見舞いはいらなかったかもな」
「え?」
「は?」

その呟きに、私と佐久間さんは思わず顔を見合わせて。

「そ……そんなことないですよ。2人が行った方が鬼道さんも嬉しいはずです!」

一拍空け、慌てて言うと源田さんは少しだけ声を出して笑った。

「じゃ、御鏡。また明日な」
「気をつけて帰れよ」

手を振りながら門の奥へと消えた2人を見送って。
さて、と私は腕を組む。

「…………どっちに行けば家に帰れるんだろう……」

今自分のいる場所すら把握できなかった私は、結局、近くの公衆電話に駆け込みお兄ちゃんに救助を要請したのだった。

僅かな綻び