2月も中頃を過ぎて春も少し近づき、あと少しで3月に差し掛かるというある日の放課後のこと。
「──佐久間さん……何だか、早くなってませんか?」
「え?」
「何がだ?」チャポン、とジャグを傾けた佐久間さんは首を捻る。
何がと言われると──と、私はうーんと唸って考えた。
「足が、と言うか……ボールを蹴る早さ? ドリブルと言うか」
「そうか? 俺は何も感じなかったが……」
これに首を傾げるのは源田さん。
佐久間さん自身もそうは思っていなかったようで、ベンチに腰掛けて利き足を曲げ延ばししながら首を捻る。
そんな佐久間さんと私を、じっと見比べた鬼道さんが言った。
「物は試しだ。佐久間、1度タイムを計り直してみろ」
「えっ、あ、いやでも、私の勘違いとかかもしれな……」
「御鏡、ストップウォッチ頼む」
「……はい」
差し伸べられた寺門さんの手にストップウォッチを預けて、私は余計なことを言ったかもしれないと内心ハラハラする。
しかし私の心情もそっちのけで、佐久間さんはスタジアムの端に設置された50メートルのコースのスタートラインに立って、準備運動を始めた。
「掛け声は、よーいドンで良いんですか?」
健也くんと一緒にやって来ていた洞面くんにそう言って見上げられた私は、急いでホイッスルを片手に寺門さんの隣へ並ぶ。
ピッ! とホイッスルを一つ吹き鳴らしたその瞬間、佐久間さんが地面を蹴り上げた。
青を含んだ銀色の髪が、目の前を飛ぶように駆け抜けていく。
ピピ、と寺門さんがストップウォッチを止めれば、佐久間さんは勢いを緩めながら止まり、こちらへ戻って来た。
「どうだった?」
「あ、これが前のデータです」
手渡したノートとストップウォッチを見比べた寺門さんが、ほぅと息を漏らす。
「……凄いな、御鏡」そう言いながらノートを閉じて、寺門さんは佐久間さんの方を向いた。
「前より5秒弱早くなってる」
「本当か?」
「織乃さんスゲーッ」
いつのまにか私の背中にへばりついていた健也くんが言えば、「先にタイム縮めた俺を誉めろよ」と佐久間さんがそのツンツン頭をペチンと叩く。
「5秒か……予想より速いな」
「けど、全然分からなかったな」
少し離れたところで静観していた鬼道さんや源田さんが、言いながら近付いてくる。
私は少し言い淀んだ後、小さく口を開いた。
「た、多分、佐久間さんだけじゃなくて……他の人も何人か速くなってるんだと思います」
「……そうなのか?」
健也くんのこめかみをグリグリしていた佐久間さんが小首を傾げれば、他の3人は同じように「分からん」と口を揃える。
鬼道さんはしばらく考えた後、ふと私に向き直った。
「御鏡。何故そう思った?」
「えっ? あー……えー…………」
戸惑えば、大丈夫だと言いたげに源田さんが大きな手を私の頭にポンと乗せる。
私は頭の中で言葉を整理しながら、ゆっくりと続けた。
「……ぜ、全部、推測に近いんですけど……」
「構わん。現に佐久間はお前の言う通り速くなっていたからな」
ニヤリと不敵に笑って見せた鬼道さんは、何かを確信しているようにも見える。
「じゃあ、ですね」考えたことを組み合わせ、私は口火を切った。
「多分、鬼道さんも含めて……MFとFWの人達は、みんな少しずつ速くなってるんだと思います」
そう前置きして、私は数週間前に行われたミニゲームと、さっきの紅白戦の様子を思い浮かべる。
1人が速くなっても、自分たちが同様にスピードを付けていれば、その変化は大して解らないだろう。
佐久間さんの変化はより顕著だったからこそ、私は口に出して言ったのだ。
源田さんがそれに気付かなかったのは、恐らく源田さん本人のそれを見る動体視力が上がったからではないだろうか。
鬼道さんが顎の先をそっと指先で摘み、ふむと小さく頷いた。
「それは、一理あるな。自分の変化が分からないというのは、それに慣れてしまったからだろう。……御鏡」
「は、はいっ」
突然真剣な顔で名前を呼ばれ、反射的に姿勢を正す。
鬼道さんはそれを見て一瞬可笑しそうな顔をしたが、すぐに元に戻って続けた。
「他に、お前が何か気付いたことはないか?」
「……え。え?」
「色々とあるんじゃないのか?」
言わないだけでな──鬼道さんは少し口角を持ち上げ、次の瞬間右腕を掲げる。
「1度、集合だ」何て言ってみんなが集まるものだから、私は思わず源田さんの背中に隠れた。
「な、何も全員集結させなくても!」
「こっちの方が効率が良いだろ」
言って、鬼道さんは源田さんの後ろから私を引っ張り出して、逃げ出さないようにする為なのか、がっしりと肩を掴む。
「さぁ、頑張れ」
「(絶対頑張れなんて思ってないよ……)」
鬼道さんの至極楽しそうなニヤリ顔に顔をしかめれば、それに同情した洞面くんがピタリと私の足に寄り添った。
──ああ、もう。頑張るって決めたのは自分だ。いっそ、当たって砕けてしまおうじゃないか。
「……佐久間さんに、もうひとつ」
「何だ?」
肩を離さず。鬼道さんに問われ、私は佐久間さんに視線を向ける。
「これも、少しですけど……体力の増加、があると……」
「あ、それは俺も少し思った」
辺見さんが片手を上げて同調してくれたおかげで余裕ができた私は、俯きがちだった顔を上げた。
佐久間さんは、相変わらず自分の変化には気付いていないようで頭上に疑問符を浮かべていたが、嬉しそうに顔を綻ばせている。
「えー……あと、咲山さん。健也くんに仕掛けるキラースライドだけ、威力が上がってませんか?」
「さっき、こいつに置き菓子食われた」
途端不機嫌になった咲山さんが、1個食っただけじゃないですか、と口を尖らせる健也くんと口論を始める中、呆れた顔をしながら鬼道さんが先を促した。
「それと……これは能力の向上ではないんですけど。土門さん」
名前を呼べば、土門さんは分かりやすく肩を揺らす。
それで自分の考えを確信した私は、吐きたくなった溜息を押さえてその足を指差した。
「軸足どうかしたんですか? キラースライドの時、少し変な顔してたでしょう」
「や、やだなぁ織乃ちゃん。俺は元々こんな顔だって」
「……土門」
ぽん、と寺門さんがその背中を叩けば、顔を青くした土門さんを大野さんが軽々と担ぎ上げる。
「救急箱は右の棚ですよー」その背中に声を掛けると、寺門さんが返事の代わりに手を振った。
更に続きを促され、私はやや戸惑いながら、訥々と気付いた点を上げていく。
五条さんの切り返しが速くなっていることや万丈さんのサイクロンの精度がほんの少し上がっていること、源田さんのパワーシールドが今日は少し頼りないこと(鬼道さんが言及すると原因は寝不足だったことが判明した)──この場にはいないが、寺門さんも少しキック力が上がっていることなどなど。
「恵那先輩、さっきヘディングで首を痛めたんじゃないですか?」
「あー。いつものことだから、大丈夫だよ」
「ダメですよ、ちゃんと処置しないと。後でアイシングするから、無理しないで下さいね」
最後に恵那先輩を名指しすると、はーと隣の佐久間さんが息を吐き出した。
「よくこんな細かいとこまで……」
「前から観察力があるのは何となく気がついていたが、まさかここまで見ているとはな」
「ぅえ、っと。あ、りがとうございます……」
呆れたような口調ではあるが、誉められていると分かって私は頬を綻ばせる。
「──それだけ、腕の良いマネージャーになったということか」
ふと、ほんの少し頬を緩めて私の方を見る鬼道さん。
その顔にどこかむず痒い気持ちになった私は、1度上げた頭をまたうっかり俯かせてしまった。
「織乃さん、顔あっかー」
「えっ!?」
健也くんが、私の頬をつつきながらケラケラと笑う。足元にくっついている洞面くんが、それにクスクスと笑い声を漏らした。
「ヒヨコは年下にモテるな……」呆れたように辺見さんが言えば、良いじゃないかと源田さんが笑う。
「そーっすよ、先輩。俺も洞面も織乃さん大好きだから良いんですー。なっ、洞面」
「うん」
でも、成神には負けるかなぁ──洞面くんが意地悪く笑えば、健也くんは一瞬キョトンとしたあと、ニッと歯を見せて笑った。
「トーゼンっ!」
言いながら健也くんが私に抱きつけば、「いい加減離れろ」と苛々した様子の佐久間さんがその首根っこを掴む。
良いんですよ、と私がそれを諭せば、何故かムッとした佐久間さんまでが「じゃあ俺も」とくっついてきて、サンドイッチ状態になってしまった。
「最早完全に姉だな……」
鬼道さんが呆れたようにに零せば、洞面くんが「織乃先輩みたいなお姉さん欲しいですと」にっこり笑うもので、私は嬉しくなって洞面くんを抱き上げる。
小学生にしてはまだ小さい方の洞面くんを抱き上げることに、大して力はいらなかった。
「あーあ、俺も織乃さんに姉ちゃんになって欲しいー」
「いっそ御鏡の家の養子にでもなれば良いんじゃないのか」
「いやですよ、俺が欲しいのは織乃さんだけなんですから」
「誤解を生みそうな台詞ですね」
「う、うん……」
「佐久間先輩は織乃さんちの婿養子になったらどうですかー?」
「はぁっ!? ばばばバカ言うなアホ神!」
「さ、佐久間さん耳元で叫ばないで下さい!」
「……お前たち、いい加減に離れろ。練習が再開できないだろう」
鬼道さんの鶴の一声で、私はやっとこさサンドイッチ状態から解放される。
ふぅと息を吐けば、「お前も大変だな」と源田さんにポンポンと頭を撫でられた。ついでに、可笑しそうな顔をした鬼道さんにも。
「……私の頭、そんなに撫でやすい位置にありますか?」
「気分的に」
よく分からない答えを返された。
気分的に撫でやすい位置って何だろう。
どこか機嫌良さげにフィールドに戻っていく鬼道さんを見送り、私はさっきのサンドイッチで少し乱れた前髪を直した。
無理しないでと言ったのに、恵那先輩はやっぱりフィールドに出てみんなに混じりボールを追いかけている。
かと思えば部室からは、土門さんが治療を痛がっていると思われる悲鳴が漏れてきていた。
「……しょうがないなぁ」
ひとつ笑みを零して、私は部室に足を向けながら、ふとフィールドを振り返る。
──いつか、普通の試合でもみんなが今みたいに、楽しそうにサッカーをする姿が見れると良い。
その『いつか』が訪れるまで、私はみんなの隣にいることが出来ると──その時は、そう思っていた。