お前の観察眼なら可能だ──なんて鬼道さんに持ち上げられて、その日は覚えたばかりの技の精度を一緒に検証していたら、いつもより帰りが遅くなってしまった。

おかげで鬼道さんはこれで完璧だなんて笑ってくれたから良かったが、帰りが遅くなるとお兄ちゃんたちがうるさくなるのだ。
私は早足で帰宅して、弟たちが待ち構えてるだろう玄関を開ける。

「ただいまー」
「おかえりお姉ちゃん!」
「おそかったねお姉ちゃん!」

途端、予想通りお腹にドカリと双子が突撃してきて、私は扉に背中をぶつけた。
痛みを訴える背中をさすりながら「ただいま」と言い直すと、2人は満面の笑みを浮かべる。

そこでふいに、足下に目を落とした私は首を傾げた。

「あれ──今日、もうお父さん帰ってきてるの?」

いつもなら帰ってくる時間が遅いはずのお父さんの靴が、私より先にそこに並んでいる。
それを怪訝に思いながら尋ねると、和樹が頷いた。

「何かね、だいじな話があるからはやくかえってきたんだって!」
「ごはん食べたらお話するんだって!」

大事な話? と私が余計分からなくなって首を捻る中、和樹と良樹は私の腕を引いてリビングに連れて行く。
リビングに入ると、テレビの前でテーブルを挟んだお兄ちゃんとお父さんが、いつもより真剣な表情で何かを話し合っていた。

「──あ……おかえり、織乃」
「随分遅かったな」

顔を上げたお兄ちゃんたちが、眉を下げて微笑む。
それに少し違和感を覚えた私は、曖昧に返事を返しながら眉根を寄せた。
そんな様子を見たお母さんが、エプロンで手を拭きながらこちらに近付く。

「お帰り織乃ちゃん。すぐご飯にするから先に、手を洗ってきてね」
「……うん」

何か、どこかがおかしい。
消せないわだかまりを抱えたまま、私は一度リビングを後にした。

手を洗って、部屋に戻りルームウェアに着替える。
鏡に映る自分の顔がずっとしかめっ面なことに気がついて、私はむっと自分の両頬を引っ張った。

どれだけ考えても、何で2人があんな顔をしていたのかが全く分からない。

私は自分の表情が元に戻ったことを確認すると、部屋を出てもう一度リビングに向かった。家族全員が揃ってテーブルに着くのはお正月以来だ。
しかし、手を合わせて夕食を食べている間も、2人はずっと難しい顔をしたまま。
いつもより少し静かな、どこか張り詰めた空気の中で食事する。

──そして、ようやくそれぞれの食器が空になった頃。
食器を洗い片したお母さんが、「それで?」と口火を切る。

「あるんでしょう? 大事な話が」
「……ああ」

湯呑みに入っていた緑茶を飲み干し、苦い顔で頷くお父さん。向かいにいたお兄ちゃんが、少し顔をしかめたのが見える。

「──申し訳ないんだけどな……」

そう、前置きして。
続いた言葉に、私は自分の湯呑みをひっくり返しそうになった。

「また、転勤が決まったんだ」
「あら、まぁ」

お母さんが口元に手を添えて、目を丸くする。
隣で「またおひっこし?」と顔をしかめた和樹の頭を不器用に撫でながら、大樹が尋ねた。

「今度はどこに引っ越すの?」
「……イタリア」

「はぁ!?」椅子をひっくり返さん勢いで立ち上がった大樹の大声に、双子が驚いて肩を竦める。

「国外は久しぶりね。2年振りかしら……それで、日にちは?」

お母さんの言葉に、お父さんが小さく「来週」と返すと、再び腰を落ち着けた大樹がいきなりだなと零した。
お父さんは、本当に申し訳なさそうな顔をして少し俯く。

「だけど、今回は良いこともあるんだ」

「良いこと……?」思わず私が口にすれば、お兄ちゃんが眉を下げてそれに続けた。

「父さんが前取材したことのあるイタリアのゲーム会社の人が、俺の腕を買ってくれたんだ。──あっちに行けば、夢が叶うかもしれない」

いつか大手を超えるゲーム会社を作る。数年前から、お兄ちゃんが語っていた自分の夢。
「ごめんな」と小さい声で言いながら頭を撫でられて、私は二の句が告げなくなる。

「本当に急ですまない。……でも、今度の仕事で功績を収めればもう転勤しなくても良いと社長に言われてな。……きっと、これを最後にしてみせるよ」
「──うん。頑張って、お父さん」

私が口角を持ち上げると、お父さんは少し嬉しそうに頷いた。
「織乃?」そして急に席から立った私を、お兄ちゃんが不安げな顔で見上げる。

「……ちょっと、今日は何か疲れちゃった。私、部屋で休むね」
「──そうか。分かった」

転勤にぐずる双子やそれを宥めるお母さんたちの会話を聞きながら、私はリビングを後にする。

真っ暗な部屋に戻っても、電気を付ける気にはなれなかった。
私は闇の中にただ立ち尽くして、頭の中で言葉を反復する。

──イタリアに転勤。冷静に考えろ、良いことばかりじゃないか。
これでお父さんが仕事に成功すればようやく転勤族をやめられるし、お兄ちゃんは自分の夢に近づけるんだ。
何を戸惑う必要がある。

「──っふ」

頬を冷たいものがするりと伝い、ポロポロと絨毯に落ちていくそれが、小さな染みを点々と残していく。
私は扉に背中を預けたまま、ずるずるとその場に蹲った。

暗闇に慣れた目に、ふと机の上に置きっぱなしだった、数冊の本と書類が見える。
一番初めにもらった部員たちの資料。お小遣いを叩いて本屋で買い集めた、サッカーのルールブックやスポーツ医療の本。
どの本も栞を貼り付け、ブックイヤーばかりして、読み込みすぎて角はボロボロだ。

『──それだけ、腕の良いマネージャーになったということか』

それを見た途端、あの時鬼道さんに言われた言葉が蘇る。
──ああ、やっと。やっと、本当の自分の場所を作れたと思ったのに。私も役に立つことが出来ると分かって、嬉しかったのに。

だけど所詮、私はまだまだ子供のままで。
「仕方がない」と割り切ることも、手に入れたばかりの幸福から離れることを惜しまないなんて器用なことも、出来ないのだ。

「っう、ああぁ……っ!」

終わりなんてものは、それまでの過程なんてことごとく無視して、至極呆気なく訪れる。
そんなこと、知りたくなかった。

崩れる蛍雪