例え自分にどんなことが起きろうと、必ず世界に明日は訪れる。燦々とした朝日を浴びながら、私はベッドの中で呆然とそれを知った。
「…………」
目元に手をやると、がさがさとした感触が指に触れる。
あの後、ベッドに飛び込んだまま泣き疲れて眠ってしまったことを思い出して、私は唇を噛んだ。
来週、私は帝国を離れる。
それは、変えようのない事実だ。
「……言わなきゃ、なぁ」
小さく呟くと、掠れた声が部屋の静かな空気を震わせた。ああ、とにかくまずはシャワーを浴びてこよう。気にしていたって、変わることは何もないのだから。
ベッドからずり落ちるように降りた私は、のろのろと部屋を後にした。
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担任の先生は、既に私の転校の件を知っていたらしい。
朝のホームルームで突然名指しされた私は、自分に集まった視線に心臓が縮こまりそうになった。
それから、社交辞令の別れを惜しむ挨拶も程々に──淡々と、授業はいつも通り、進んでいく。
今までと、何ら変わりない。
そうだ。昨日はきっと、虚を突かれてたせいで、過剰に反応してしまっただけなんだ。
「(──あっちの学校では、どうなるんだろう)」
ぼんやりと窓の外を眺めていると、チャイムの音が鳴り響く。
ざわつく教室を出て、私は図書室に向かった。
そう言えば、雑音で溢れかえる教室よりも、静かで空調の利いた図書室にいるほうがずっと気が安らぐと気付いたのは、いつのことだっただろう。
図書室に入ると、カウンターにいた委員の人がふっとこっちを見て、すぐに手元の本に視線を戻した。
高く並べられた本棚を見上げて、ヨーロッパ関連の本を数冊取り出して、手近な席に着く。
「(──イタリアは、ヨーロッパの南部……)」
地中海に突出した半島と、数々の島から成る共和国。言語には、イタリア語の他にドイツ語やフランス語も使用される。──どれも書いてあるのは同じようなことだ。
私は数冊を棚に戻し、残してあったイタリア語の本を開く。
流石に今度は、引っ越し当日に病院送りなんてことにはならないだろう。必要最低限の言葉を覚えておいても、損はしないはずだ。
鳴り響く予鈴に、肩を揺らす。
借りていこうかと思ったが、読む時間があまりとれないことに気がついて、私は大人しくそれを本棚に戻した。
図書室の出て教室に戻ろうと踵を返すと、「あ、ヒヨコだ」という聞き慣れた声に足が止まる。
振り返ると、そこには教科書を片手に抱えた、辺見さんと佐久間さんの姿があった。
そう言えば2人は同じクラスだったなと考えていると、ふいに佐久間さんが首を傾げる。
「──御鏡、どうかしたのか? 妙な顔になってるぞ」
「みょ……えぇ?」
苦笑いしながら頬を押さえてみたが、変化が分かるはずもない。
私はそっと眉を下げた。
何かあったのか、と珍しく佐久間さんが声のトーンを下げて私を心配するものだから、佐久間さんの隣の辺見さんが「お前こそ何かあったのか?」と口を押さえる。
辺見さんの額を教科書で無言でバシンと叩く佐久間さんを見ながら、私は半歩程後退した。
「──何も、ないですよ?」
「そうか?」
引き下がった佐久間さんに笑みを向け、私は2人に背を向ける。
「じゃあ、また放課後に」
「おー」
辺見さんの声を背中で受け止めながら、私は早足で廊下を駆けた。
──言っておけば良かったかな。
そう思ったが、みんなが揃っているときに話した方が手間が省けるかと考え直す。
だけどその日の放課後、部員が揃っても、私はやっぱりそれを言い出すことが出来ず。
ボールを追いかけるみんなを見ながら、ただひたすら仕事をすることしか出来なかった。
後からスタジアムにやって来た成神くんが特に何も言ってこずにいつものように私に抱きつく辺り、どうやら大樹も言い出せないでいるらしい。
「ダメな所が似ちゃったなぁ……」
「え? 何か言いました?」
首を傾げた洞面くんに、曖昧に微笑んで「何でもないよ」と返す。
フィールドに目を向けると、鬼道さんが昨日私と一緒に検証したツインブーストを佐久間さんと協力して打ち込んでいた。
「鬼道さん、一瞬踏み込みが早いです」気付いた点を即座に述べれば、鬼道さんは素直に頷く。
先程よりも少し威力の上がったツインブーストが、無人のゴールネットを揺らした。
喜ぶ佐久間さんとハイタッチを交わし、休憩しに来た鬼道さんに私はタオルとジャグを渡す。
「本当に目が利くようになったな」
「あ、ありがとうございます」
唐突に誉められたことが、恥ずかしくて嬉しくて。思わずベンチの上で少し俯くと、鬼道さんが笑う気配がした。
「御鏡はきっと、良いオペレーターになれる」
これからも頼んだぞ。
──去り際のその台詞に、私は言葉を返すことが出来なかった。
「(これからなんて、ないのに)」
私は顔をしかめて、ぎゅっとバインダーの端を握りしめる。
早く言わなくちゃ、後々辛い思いをするのは自分だって、痛いほど分かっているはずなのに。
そうして──言わなくちゃ、言わなくちゃと思っているうちにも、時間は刻一刻と過ぎていく。
気付けば、引っ越しから2日前の日になってしまっていた。
「(もう時間がない……)」
引っ越しするのが2日後でも、手続きした書類の関係で、私は明日から帝国学園の生徒ではなくなってしまう。
そうなったら、もうこれを伝える機会なんてない。
──どんなに心苦しくても、さよならも言わずに別れるなんてそれだけは絶対に嫌だ。
「(大丈夫、大丈夫だから)」
部活が始まる直前。
いつものように、私より一歩手前を歩く鬼道さんの背中を見つめて、ギュッと目を瞑る。
意識の外で、私の右手は翻る鬼道さんのマントの端を掴んだ。
「──御鏡?」
「あ、の。き、鬼道さん……」
いつもより様子のおかしい私を見て、鬼道さんは訝しげに眉根を寄せる。
私たちに気がついたみんながこちらに注目する中、私はカラカラになった口の中で、何とか言葉を取り戻そうと躍起になっていた。
何を怖がる必要がある。ただ私は、転校する旨を伝えて、今までお世話になったお礼を言って、そして最後の仕事を遂げるだけ。
──簡単なことじゃないか。
「っわ……わた、私、実は──」
「織乃さんッ!!」
突然扉が開く音がしたと思った瞬間、部室に飛び込んできた健也くんに体当たりをかまされた。
完全に不意を突かれた私は、踏みとどまることが出来ずに鬼道さんの肩に頭をぶつける。
驚いたような鬼道さんに支えられながら振り返ると、私のお腹に腕を回して切羽詰まった表情を浮かべた健也くんと、その背中にへばりついた洞面くんが見えた。
「ッイタリアに引っ越しするって、本当なんですか!?」
──間が悪いような、良いような。
「イタリアぁ!?」唐突な健也くんの言葉に、部室が騒然となる。
鬼道さんが眉を上げ、厳しい顔つきで私を見下ろした。
「──本当なのか? 御鏡」
「……は、い」
小さく頷くと、掴まれたままだった肩に鬼道さんの指が少し食い込む感覚がする。
「大樹の奴、今日の今日までクラスの奴らに黙ってて……! 織乃さんだってそうだったんでしょ? 何で言ってくれなかったんですか!」
「健也くん……」
ぐすぐすと鼻を啜りながら、健也くんは私のお腹を圧迫した。
そうか──大樹もやっぱり、私と同じだったのか。場違いな溜息を吐くと、顔を歪ませた佐久間さんがこちらを見た。
「……いつ、行くんだ?」
「……出発は明後日です。──だけど、私は……明日から、帝国の生徒ではなくなります」
「っだったら、何で黙ってた!」
佐久間さんが、声を荒らげる。
眉間に深い皺を刻み、目は薄く水の膜を張って涙が零れ落ちそうだった。
「もっと前から分かってたことなんだろ? だけどお前、昨日までそんな素振り、全然……!」
「止めろ、佐久間」
眉根を寄せた源田さんが、佐久間さん肩を掴んで制止を掛ける。
佐久間さんはばつが悪そうに口を噤み、唇を噛み締めた。
「っイタリアなんて、そう簡単に会いに行ける距離じゃないだろ……」
「──黙ってて、ごめんなさい」
口を開いた私に、源田さんたちが俯きがちだった顔を上げて視線を向ける。
言わなくちゃとは思ってたんですけど──そう前置きすると、鬼道さんが少し眉を下げたのが見えた。
「でもいざ言おうとすると、どうしても勇気が出せなくて、っ……」
──あ、だめだ。
徐々にじわりじわりと滲んでいく視界に、私は頭を垂れる。
「ご、ごめんなさい、私、っ嫌だったんです。せっかく……やっと、みんなの役に立てるって、思ってたのに……!」
「……何言ってんだ、お前は」
しゃくりあげてまともに喋れない私の頭を、誰かが小突いた。
少しだけ顔を上げると、辺見さんが複雑そうな表情を浮かべて、私を見下ろしている。
辺見さんは顔をしかめた後、少し言い難そうにぼそぼそと続けた。
「お前は、初めっから俺たちの役に立ってたじゃねーかよ……」
「……へっ……辺見さんんん……!」
「うわっ! ちょっ、何でそこで余計に泣くんだよ、バカヒヨコ!」
辺見さんが慌てながら乱暴に私の目を拭うのを見上げながら、健也くんが「辺見先輩のくせに」と小さく舌打ちする。
いつものように始まった追いかけっこに、私は源田さんにポンポンと頭を撫でられながら、制服の袖でぐいっと涙を拭いた。
「私、マネージャーになってから、っ毎日……大変だったけど、楽しかった、です」
「織乃先輩……」
ずっと私にしがみついたままの洞面くんが、少し涙ぐむ。鬼道さんは、先程からずっと黙り込んだままだった。
「まだ、半年も経ってないけど……みんなとここで過ごせて、良かったです……! っお世話に──」
言い掛けた口を、ふいに鬼道さんが掌で押さえる。驚いて涙が引っ込んだ。
みんなの視線を集めながら、鬼道さんはそのまま口角を上げる。
「御鏡。お前はまだ、帝国の生徒なんだろう? ──その台詞は、最後の仕事を終えるまで取っておけ」
「……っはい!」
「鬼道らしいな」と、貰い泣きしていた佐久間さんが、目尻を拭いながら呟いたその時だった。
──ぱち、ぱち、ぱち。
開けっ放しだった扉の外から、乾いた音が聞こえてくる。
「何とも、熱い友情だな」
「──影山総帥」
手を打ち鳴らしながら部室に入ってきた総帥が、カツンと靴音を鳴らして私を見下ろした。
ビリビリと背中に走った痺れるような感覚に、私は身震いする。
「お前たちは先に始めていろ」
総帥が言えば、部員たちはこちらを気にしながらも頷いて、ぞろぞろと部室を後にした。
「──非常に、残念だ。お前ほどよく働く、使えるマネージャーは珍しかったというのに」
しんと静まり返った部室に、総帥の声だけが反響する。
だが──と続けられた言葉に、私は零れんばかりに目を見開いた。
「正義感は時に身を滅ぼすということが、よく分かっただろう?」
「──……!」
まさか。息を呑んだ私は、すぐさま口を噤む。
──止めておこう。例えこの予想が当たっていたとしても、躱されてしまうだけだろうから。
唇を噛んだ私を総帥は満足げに見下ろして、カツンと靴音を響かせ踵を返す。
私は──顔を上げて。その背中を見据え、口を開いた。
「もう、逃げません」
「……何?」
振り向かずに。立ち止まった総帥が、低い声で聞き返す。
「自分可愛さに逃げることはもうしない──次は、立ち向かいます」
そのまま返事は聞かずに、「失礼します」と一礼してスタジアムへ走った。
言い逃げでも何でも良い。これが今の私に出来る、精一杯。
部室からは、総帥が立ち去る音しかしなかった。