「癒しがない」
帝国サッカー部の部室にて。
眉間にこれでもかと言う程皺を寄せ、むくれた表情でそんなことを漏らすのは、この春無事に帝国学園に入学しサッカー部スタメンの座を手に入れた成神である。
突然、部室にやって来るなり何の脈絡もなく声を大にしてそんなことを言った後輩を、その場にいた新2年生たちは怪訝な顔で見た。
「何だよお前、急に」
顔をしかめて辺見が問えば、成神は「言葉通りの意味ッスよデコ先輩」と憎まれ口を叩く。
暴れ掛けた辺見を抑えつけながら、源田が首を傾げた。
「えー……癒しっていうと、具体的にどういうことだ?」
「……織乃さん」
唇を尖らせた後輩に、源田と辺見は口を閉ざす。それを眺めていた他の部員たちも、同じく。
彼女──織乃がイタリアへ引っ越して、1ヶ月が経とうとしていた。
始めこそ胸のどこかにポッカリと穴があいてしまったような虚無感が消えなかった一同だったが、これも仕方ないことと各々割り切ったのはまだ比較的最近のこと。
織乃がいなくなってからその後マネージャーを志願する生徒が出ることはなかったが、影山と鬼道の話し合いの結果、帝国サッカー部はしばらくマネージャーを欠いたスタイルを貫くことになった。
そんな男所帯のサッカー部で、癒しを求める事態、間違っていると思うのだが。
思ったことをそのまま口に出した寺門に、成神はムッと口を結ぶ。
「でも、事実は事実です!」
言って、成神はドカッとエナメルバックをベンチに置いた。
中からユニフォームを取り出した彼は、ロッカールームに向かうことなくその場でそれに着替え始める。
「先輩たちだって、どっかで思ってたんじゃないですか?」
「そりゃそうかもしれないけど」
答えたのは苦笑いする土門だ。
でしょう!? と大きくそれに頷き、成神は拳を固める。
「何かもう俺、部活の前に織乃さんにハグしなきゃ力が出ないっつーか……」
「それはお前だけだ」
顔をひきつらせて、若干声に苛立ちを混ぜた佐久間が呟いた。
「んなことないッスよ。何て言うか、織乃さんに抱きつくと、こう……アドレナリンがぶわーって凄い分泌されてた気がする」
「気がするなら気のせいだろ」
「気持ちの問題は大切じゃないッスか! て言うか、佐久間先輩だって何度か織乃さんに抱きついて」
「あー! あー! わー!」
佐久間が顔を真っ赤にして、自分の耳を塞ぎながら叫んだ。しかし、事実なのだから否定をすることも出来ない。
呆れたような成神の視線を受けながら、佐久間はツンとそっぽを向く。そして隣で辺見を押さえたままの源田が「まぁ、分からなくもないが」と零したのを聞いて、更にはぁ!? と声を上げた。
「アドレナリンがどうかは知らないが、癒されてたのは確かかもな」
「お前なぁ……!」
「流石源田先輩、分かってる!」
小気味よく指を鳴らして笑う成神に佐久間が突っかかっていく最中、部室の扉が開く。
少し遅れてやってきた鬼道は、その光景に訝しげに眉を寄せ、壁に背中を預けるようにして立っていた咲山の方を向いた。
「これは一体どんな状況なんだ」
「あー……アドレナリンの話?」
一瞬で咲山に見切りを付けた鬼道は、その側にいた寺門と土門を捕まえて状況の説明を要求する。
返ってきた大まかな話の内容に、鬼道はハァと嘆息した。
「何を下らないことを……」
「下らなくないですよ、チームの士気に関わる問題です!」
「お前、本当にマネージャー好きだよな……」
胸を張る成神に、溜め息混じりに咲山が呟く。
織乃が去って尚、未だ彼女へのマネージャー呼びが抜けないことはもう本人は諦めていた。
「そりゃあもう。織乃さんには最大級のライクを捧げてるつもりッス!」
何だそりゃ、と言い掛けた辺見が、ふと首を捻る。源田の手からやっとこさ逃れて、彼は成神に尋ねた。
「え、お前そういう方向でヒヨコのこと好きだったのか?」
「そうッスよ? 織乃さんは大好きですけど……やっぱりお姉さんって感じが強いし」
それに、友達の姉貴に手ェ出すわけにもいかないですしね。
そう言ってニッコリ笑った成神は、弱冠12歳にして酸いも甘いも熟知した大人のような風格を漂わせていたと、後に源田は語る。
とにもかくにも、後輩の織乃に対する矢印が思わぬ方向に向かっていたことを知った彼らは、各々ある1人に視線を集中させた。
寺門がそのある1人≠フ肩を、優しくポンと叩く。
「良かったな、佐久間」
「は、はぁっ!? 何がだよ!」
「ライバルが減って」
「何だよそれ!」佐久間が真っ赤になって食ってかかるも、寺門は生温い笑みを称えるのみ。
岸に打ち上げられた魚のように、佐久間はパクパクと口を動かす。
「おお俺は別に、あいつのことが好きなわけじゃ……!」
「ハイハイ、無自覚乙です先輩」
「成神ィイイ!!」
再び部室内で始まった不毛な追いかけっこを眺めながら、ふと源田がポツリと零した。
「まぁ何にせよ、最後に誰を選ぶかはあいつ次第だよな」
「誰を?」
佐久間から逃げ回りながらも、成神は器用に首を傾げて見せる。伸びてくる腕を軽々と避けながら、彼は目を眇めて源田に尋ねた。
「なぁんかその口振りだと、他にまだ織乃さんのことが好きな人がいるみたいな感じですね」
「だから俺は違うって言ってるだろ、このアホ神!」
「いでっ!」
佐久間が成神の頭をひっぱたけば、途端に暴力反対、と抗議の声が上がる。
最早それを止めることも諦めたのか、どこか苛々としながら、鬼道が呟くように言った。
「──御鏡は、随分好かれやすい質だったんだな」
初めて知った、と付け加えつつ、鬼道はの爪先は延々と一定のリズムで小さく床を叩いている。
タン、タン、タンと鳴る足音を聞きながら、源田はふいに微笑んで、鬼道を見下ろした。
「お前は、どうなんだ?」
「……は?」
普段聞くことの少ない、呆けた声が彼の口から漏れる。
お前はどうなんだ。何度か源田の言葉を脳内で反芻し、鬼道はグッと眉間の皺を深くした。
「……どうもこうも……あいつは、後にも先にも大事な友人であることには変わりないだろう」
「ああ、そうだな」
「……やめろ、生暖かい目で見るな」
何か言いたいことでもあるのか、と顔をしかめる鬼道に、源田はただ微笑みを絶やさないだけである。
何も言わない源田に彼は嘆息し、マントを翻してスタジアムへの扉を一足先に潜って行った。黙ってそれを見送った源田は、そっとひとつ溜息を吐く。
「(あいつ、自分の顔が赤くなってること気づいてないのか?)」
消えた背中に目を伏せて、極小さな声で彼は独り言ちた。
「全く、普段の勘の良さはどこに行ったんだかなぁ……」
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──無論、聡い彼が自分の変化に気付いていないわけがないのである。
中々下がらない体の熱にやきもきしながらボールを蹴る鬼道は、重たい溜息を吐いた。
「……熱い」
呟いて、頬に手の甲を当てる。
火傷をしたよう、とまではいかないが、やはり頬の熱は、一向に下がる気配が無かった。
何故ここまで自分が照れなければならないのかと、鬼道は向けようのない苛立ちをボールにぶつける。
彼女はマネージャーで、友人だ。それが事実のはずなのに。
「(……佐久間にあてられたか)」
佐久間が織乃に好意を持っているのでは、と気付いたのは、彼女が転勤するよりも少し前のことだ。
そういえばあの時も、これと似たような気分になった気がする。
──と、そこまで考えた鬼道は、慌てて頭を振った。
今はとにかく練習に励むべきだ。そう思い直して、鬼道は部室でたむろする部員らを召集すべく、踵を返す。
『似てますか。私と妹さん』
その時、ふいに彼の脳裏に蘇ったのは、クリスマスの夜のこと。織乃がポツリと零した言葉だった。
「…………それか」
誰に言うでもなく呟いた鬼道の足が、はたと止まる。
あの時、自分はその問いに否と答えたが、今なら頷くことが出来るだろう。
性格、容姿。根本的な部分は全くと言って良いほど被っていないが、織乃の性格上、時折妹を相手にするのと同じような気持ちを持って彼女と接したことがあったのもまた事実。
あれはその延長線だ。だから、佐久間が彼女を好くことがどこか気に入らないのだ。
ようやく出てきた結論に彼は1人満足そうに頷くと、再び部室の扉を潜る。
スタジアムには、仕舞い忘れたボールがひとつ、ぽつねんとそこに転がっていた。