時刻は只今、午前5時30分。
冬に入ったばかりのこの時期は、日の出前だからまだまだ暗い。しかし私にはやらねばならないことがあるのである。

「よし、……と」

まだ真新しいジャージのジッパーを引き上げ、厚手のジャンパーを着込む。家族を起こさないように玄関を出て、そっと鍵を閉めた。

「行ってきまーす……」

今日は一日掛けての休日出勤だ。




帝国サッカー部には、基本的に休日が少ない。ただ月に1度、第2日曜日だけは休養が取れるようにしてあり、私は丁度そこに差し掛かったタイミングで入部したらしい。
帝国は土曜も午前まで授業があるから、部の休みはその第2日曜日とたまの祝日しかないことを考えると中々ハードである。
まぁ、そんな過密スケジュールだからこそ大会で優勝できるほど強くなれるのかもしれないが。

職員玄関から校内に入り、スタジアムへ続く廊下を歩く。早朝の学校、しかも日曜日とくれば校内には人っ子1人見あたらない(事務員さんがいるから無人ではないけど)。
途中寄った職員室で事務員さんから預かった鍵で部室の扉を開けて、鞄から昨日鬼道さんから貰った日程表を取り出し確認する。
午前はスタジアムで走り込みとドリブル・パス練にミニゲームをいくつか、午後は別室にて体力・筋力トレーニング諸々。何というか、予想はしていたが鬼のようなスケジュールだ。

「(端から端までビッシリ……これ、みんな休める時間なんてあってないようなものじゃないの?)」

まぁ、それをサポートするためにマネージャーがいるのだろう。
私は軽く溜息を吐いた後、ぐっとジャージの袖を捲る。冷たい外気が肌に突き刺さった。

「今が6時5分前で……部員が集まるのが6時半だから……」

時計を気にしつつ、やることを指折り数えてペース時間配分。
よしと呟いて、ひとまずは部室の掃除から取りかかることにした。いつも部員が帰った後で箒で砂埃を処理する程度のことはしているが、今回はモップで思いっきり綺麗にしてやるつもりだ。……どうせ帰る頃には元通りだろうけど。わかってるけど!

若干虚しさに溢れそうになった溜息を押さえながら、部室を陣取る長机をよっこらせーと端に置いて作業を開始する。
水に濡れたモップで床を磨くと、面白いくらい汚れが落ちて行くのが分かる。こうやって綺麗になっていくのが目に見えてよく分かる掃除って、何だか少し楽しい。

10分ほど掛けて床を磨き終わったら、次はドリンク作りに取りかかる。本当なら、市販の粉じゃなくてグラニュー糖とかレモンの絞り汁とかで作ったドリンクの方が良いらしいのだが、ここのはまた別格だ。
何せ部室に用意されているのは、総帥がどこかのスポーツメーカーに特注で作らせた栄養価の高い高級スポーツドリンク粉末なのである。
高級の二文字を聞いたとき、初めて作る際《失敗したら一グラム云千円》という言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡り、無駄に緊張したものだ。おかげでドリンク作りは無事に成功したわけだが。

でもドリンクの粉末をわざわざ作らせるなんて(しかも高級)、総帥のコネクションって一体どうなってるんだろう……。
財閥のトップなのだから、日本全国各地では飽き足らず、果ては日本の裏側までその人脈が広がっているんじゃないかと考えると末恐ろしい。

ぶるりと気温以外の寒気に肩を震わせ、せっせとドリンクを作る。午前の休憩の分、予備も含めてひとまず計26本。午後の分はお昼の後に作れば良しとして、……あ。

「お昼って私が作らなきゃならないのかも……?」

渡されたスケジュールの持ち物の欄に、お弁当はない。……でもひょっとすると帝国のことだし、お昼前に専属シェフが来て作ってくれるとか、お弁当屋さんに既に予約済みだったりして。うわぁ有り得る……。

「……その点は鬼道さんが来てから聞いてみよう」

自分なりの最良策である。現実逃避とも言う。
とりあえず出来たドリンクを冷やしておこうと備え付けの(これまた大きな)冷蔵庫を開けると、──余すとこなくギッチリ詰まった旬の素材とご対面した。
顔ごと冷蔵庫から目をそらし、バポンと蓋を閉める。私は何も見ていない。

「……って訳にもいかないか……。何、この食材の山」

たった独り嘆きながら、再び旬の素材とご対面。普通にスーパーで買えるような物から、テレビでしか見たことのないような高級食材が所狭しと詰まっている。
これはひょっとしなくてもあれですか。お昼も私が作れってか。

「(いやいやいや、もしかしたら専属シェフが来てから使うものかもしれないし!)」

というかそうであって下さい。こんなお高い食材を扱う勇気は庶民の私にはありません。

とりあえず、結局は「鬼道さんが来てから聞いてみる」という初めの案に戻り、私は行き場を無くしたジャグを仕舞うため、隣にもう1台ある冷蔵庫を開ける。
何で部室に冷蔵庫が2台もあるんだというツッコミは早々に放棄した。




──時刻は午前6時20分。
人影の見えない長い廊下を歩くのは、制服に身を包んだ鬼道だ。

1年生にしてキャプテンの座についている身としては、他より時間に正確に、規律に厳しくしなければならないと彼は持論を持っている。
故にいつもなら、部室に1番にたどり着くのは必然的に彼になるのだが。

「──え、鍵?ああ、それなら少し前にマネージャーの子が持って行ったよ」

今日は先客がいるようだ。
事務員に機械的に会釈をした鬼道は、踵を返す。マネージャーを加えての休日活動は今回が初めてだったので、すっかり彼女のことを忘れて真っ直ぐ職員室に向かってしまっていた。

無駄な時間を費やしたということと自分の記憶力の不備に舌打ちした鬼道は、左右に開いた部室の扉をくぐる。
そして、ゴーグルに隠れた目を僅かに見開いた。

「──随分、綺麗になったな」

そっと独り言ちて、電灯の光を反射する床を見下ろす。部室がここまで掃除されたのは、前任のマネージャーが引退して以来だろうか。そして、部室を掃除した現マネージャーはというと。

「寝てる……?」

読んで字の如く。長机に突っ伏した状態で、織乃はすやすやとそこで寝息を立てていた。
扉の開閉音がしても、余程深く眠っているのか身動ぎする様子すら見せない。

「全く、何をしているんだか……」

彼女の肩を揺すろうと延ばした手は、ふと中途半端に宙で止まる。
織乃の頭の下には、マネージャー用のマニュアルと先週分の練習データのまとめが広がっていた。

「…………」

しばし沈黙した鬼道は、延ばしかけた手を降ろす。
集合時間まで後10分。5分程度なら見逃してやろうと考えながらぼんやりと織乃の寝顔を眺めた矢先、頭を振った。

織乃はよく働く。本人は嫌々かもしれないが、それは事実だ。
影山のやり方を疑ったことはないが、それに従うことで──彼女が他と同じように離れていってしまうことを嫌だと感じ始めている自分がいることに、鬼道はまだ気付かない。

周りの大半から異色の目で見られ、畏怖されることはもう慣れた。
──だからせめて仲間の括りにいる内は、嫌われたくない。それは今の彼に唯一、無意識のうちに残された理性のようなものだった。

「……ん」
「!」

ピクリと織乃の指先が動く。
瞼を閉じたままゆっくりと上体を起こした彼女は、ぎゅっと眉間に皺を寄せ目を擦った。
とろん、とした眠気眼と目が合って、普段挙動不審な織乃しか見慣れていない鬼道は僅かにたじろぐ。

「…………きどうさん……?」
「……あ、ああ」

眠気眼なだけでなく、寝ぼけているらしいと悟った鬼道はほんの少し口元を引きつらせた。
織乃の頭はまだ夢の中を彷徨っているのか、椅子に座ったままぼんやりとしている。

そして時計の秒針が半周した頃。

「……は」

織乃は完全に覚醒した。
そして、隣に佇んだ鬼道に一気に顔色を青くする。

「きっききき鬼道さんっ?!」
「……ああ、おはよう」

鬼道の言葉を皮肉と取ったらしい織乃は、ぶるぶると震えて涙目になったあと「すいませんでしたー!!」と机に額を擦り付けた。

「ああああのその仕事が一段落したらほっとしたと言いますかちょっと休憩するつもりで寝ようと思ってたわけではないというか!!」
「……ふ」

へ、と織乃の口から音が漏れる。
鬼道は拳を口元に当てて、喉の奥でクツクツと笑っていた。

「……き、鬼道さん……?」
「ああ──いや、すまん。何でもないんだ」

小さく笑いながら顔を背ける鬼道は、織乃が目一杯驚いた顔で自分を見ていることには気付かない。

「(き、鬼道さんが普通に笑ってるトコ、初めて見た……!?)」

いつもはニタリ顔なのに、という余分な呟きは拾ってしまったらしく、「何か言ったか?」と笑いを収めた鬼道に問われ、織乃は激しく首を横に振った。
そして話を逸らそうと、そういえば、と切り替える。

「冷蔵庫に食材がいっぱい詰まってるんですけど、あれってどうしたんですか?」
「? あれは総帥が、お前が昼食用に使えるよう昨日仕入れたものだと聞いたが」

知らなかったのか、と尋ねれば織乃はがっくりと項垂れて、鬼道は首を傾げたのだった。

薄氷の上