恋をする



飛行機に乗るのは疎か、空港に入るのも初めてだった。
搭乗時間の五分前までの自由行動が許され、チームメイトたちは各々好きな場所に散らばっている。
髪もすっかり整えてしまってやることが無くなった俺は、壁に背中を預けた。

「………」

昨日。昨日、は。

『頑張ってきてね!』

いつもより上擦った声で、赤くなりながら言った名前の顔が蘇る。
その表情で、やっぱりあいつは俺のことが好きらしいということが嫌でも分かった。分かったのだが。
いつも以上に素っ気なく返事を返してしまった時の少しだけ寂しそうな表情に、頭のどこかがガンガン痛くなったのも事実。
罪悪感とでも言えばいいのか。とにかく、一秒前の自分を呪った瞬間だった。

「……はぁ」

ポケットの中で櫛を握りしめながら溜息をつく。
今は罪悪感がどうとか気にしている場合じゃない。確かにさっきから名前のことばかりしか考えていないのは確かだが、今俺が気にかけるべきなのは大会のことであって、と。
頭の中で延々とそんな言い訳を繰り返している中で、俺の視界の端に見慣れたものが飛び込む。

「あ」
「え」

間違えるはずもなく。呆然とそこに突っ立つ名前の姿があった。
「や……やぁ飛鷹くん!」違和感しか感じない挨拶をしながら、あいつがぎこちなく右手を上げる。
狼狽えているのを必死に隠しながらそれに答えるが、脳内はそれどころじゃない。
何でこいつがここに。

「遅かったな名前。迷子にでもなったか」
「そ、んなことないよ!」

ふいに俺の後ろに立った響木さんに、名前がつっかえながら噛みついた(図星だったらしい)。
俺を大きく避けるように歩いてきた名前は、響木さんに茶色の鞄を押し付ける。

「だから、あれほど行き掛けに忘れ物してないのって聞いたのに!」
「ああ、すまんすまん」

どうやら、響木さんの忘れ物を届けにきたらしいあいつは一瞬こっちを見て、響木さんを見て。
「じゃあ、私はこれで」苦笑いしながら後ずさった。
その肩を、響木さんがガシリと掴む。

「お前は身内の見送りもしない気か?」
「う、えぇー……」

口元をひきつらせる名前の掌を開かせ、響木さんは財布から小銭を取り出してそこに置いた。
ついでに、あいつの肩を掴んだままぐるりと俺の方に向かせて(名前は目に見えて赤くなった)、こう言う。

「何か茶ァでも買ってこい、二人でな」
「おっ……お茶くらい一人で買えるよ叔父さん!」
「さぁ、どうだかな」

俺には小銭を自販機の下に落としたり、転がった缶を追いかけていく様子しか思い浮かばない。
響木さんの言葉に、名前は呻き声を上げながら押し黙る。
僅かに髭を震わせる響木さんに、俺は確信した。この人は分かっててやっている。
悟られないようにそっと深呼吸をして、俯いていた名前の細っこい手首を掴む。

「……行くぞ」
「お……おーっ……」

そのまま少し離れた自販機の方に歩くと、少しつんのめりながら名前が着いてくる。
……向こうの方で1年共が興味深げにこっちを見ているのは、無視することにしよう。

「ほら、急げ」
「う、うん」

何度も小銭を落としそうになりながら、ふるえる指で名前はボタンを押した。
「……あ、間違えた」ガコンと出てきたコーンポタージュを絶望的な目で見下ろしそれをポケットに押し込み、名前は余った小銭を入れ直す。
今度こそ出てきた緑茶のペットボトルを、あいつはぼんやり見つめながら握りしめた。

「……あの、飛鷹くん」
「何だ」

反省した筈だってのに、また。どこかトゲの生えたような俺の声に、あいつは眉を下げた。
ああ、クソッ。そんな顔させたいわけじゃねえのに。

「えっと、あのさ。昨日も言ったんだけど……頑張ってきてね!テレビで応援、してるから……うん」
「……おう」

自販機の前で視線も合わせずに会話する二人組なんて、怪しいにもほどがあるだろう。
頭の片隅でそんな下らないことを考えながら、俺はあいつが続けるのを聞いた。

「で、でねっ!」

突然弾かれたようにあいつが顔を上げる。
首から耳までが真っ赤だ。

「飛鷹くんたちが優勝したら聞いて欲しいことがあるんだけど、良いですか!?」
「今じゃなくてか?」
「え」

口が滑った。
「今はその、こう、煩わしくなると思うからですね、うん」緊張しすぎて言葉遣いがおかしくなった名前は、ペットボトルを胸に抱える。

「で、あの……良い、かな」
「……わ、分かった」

頷くと、名前は赤いままの顔で嬉しそうに笑う。
柄にもなく、その笑った顔に、心臓の辺りがぎゅうと痛くなった。

――向こうの方でキャプテンたちの声がする。そろそろ時間らしい。
微妙な距離を保ったまま響木さんのところに戻ると、顔をしかめて「やっぱりまだ中坊だな」とぼやかれた。放っておいて欲しい。
そのままペットボトルを受け取り久遠監督と何か話しながら搭乗口を歩いていく二人に倣い、その背中について行く。

「……名前」

一瞬考えて、さっきより距離の空いたところでそれを見つめていた名前を振り返ると、あいつは気を抜いていたようでビクリと肩を揺らした。

「な、何? 飛鷹くん」

顔の熱が収まらないのはお互い様だ。
しっかり向き合うことはせずに、少しだけ声を大にして、言ってやる。

「……勝ってくる」
「──うん! 頑張ってね!」

その顔に満面の笑みを浮かべて、手を振るあいつにそっと手を振り返す。

似合わないかもしれないが、こういう気持ちになるのも悪くはないかもしれない。
仲間の背中を追いかけながら、そう思った。